智徳の轍 wisdom and mercy

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四十 大変速やかに

2005-07-31 | ☆【経典や聖者の言葉】
一 ビック達よ、殺生を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、殺生の結果、大変速やかに、人間は短命へと導かれるのである。
二 ビック達よ、偸盗を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、偸盗の結果、大変速やかに、人間は財産の損失へと導かれるのである。
三 ビック達よ、愛欲における邪行を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、愛欲における邪行の結果、大変速やかに、人間は敵の恨みへと導かれるのである。
四 ビック達よ、妄語を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、妄語の結果、大変速やかに、人間は偽りへの中傷へと導かれるのである。
五 ビック達よ、両舌を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、両舌の結果、大変速やかに、人間は友人との仲たがいへと導かれるのである。
六 ビック達よ、悪口【あっこう】を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、悪口の結果、大変速やかに、人間は快くない声へと導かれるのである。
七 ビック達よ、綺語【きご】を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、綺語の結果、大変速やかに、人間は喜ばしくない言葉へと導かれるのである。
八 ビック達よ、飲酒を行ない、修習し、何度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、飲酒の結果、大変速やかに、人間は発狂へと導かれるのである。

【解説】
 この経は大変面白いことなのだが、私が作ったオウム真理教の歌、『五戒の詩』『十戒の詩』そのままなのだ。もちろん、私はこういう経典を読んで作ったわけではない。しかし、その内容たるや、少しも違わない。まさにぴったりである。締めくくりとして、ここにその歌詞を掲載するので、よく対照してほしい。

五戒の詩

一、戒め守って高い世界へ、私は進む道を取る
  遥【はる】かな過去から過ちを、犯し続けて今気付く
  自己の苦しみは自己の因

二、魂守って生きること、それは天へと至る道
  殺生せずに生きるなら、身体【からだ】の苦痛は消え失せる
  自己の苦しみは自己の因

三、人に施し生きること、それは豊かな人生を
  偸盗せずに生きるなら、貧苦の生活越えられる
  自己の苦しみは自己の因

四、見返り求めず真愛【しんあい】を、振りまくならば幸せに
  邪淫をせずに生きるなら、楽しい交友待っている
  自己の苦しみは自己の因

五、真実語って生きること、それは願望かなう道
  妄語を離れて生きるなら、正しい選択待っている
  自己の苦しみは自己の因

六、正しい生活営むならば、正しい認識身に宿る
  飲酒を離れて生きるなら、過ち犯さず幸せに
  自己の苦しみは自己の因

三十九 あふれ出たもの

2005-07-30 | ☆【経典や聖者の言葉】

一 ビック達よ、功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることには、八つのものがあり、それらは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 それでは、この八つとは何であろうか。
二 ビック達よ、ここに聖なる多学の弟子があって、覚者【かくしゃ】に帰依をする。ビック達よ、これが、第一の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
三 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、法に帰依をする。ビック達よ、これが、第二の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
四 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、サンガに帰依をする。ビック達よ、これが、第三の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
五 ビック達よ、五つの布施がある。それは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 それでは、この五つとは何であろうか。
六 ビック達よ、ここに聖なる多学の弟子があって、殺生を捨断【しゃだん】して、殺生を離れた。ビック達よ、そして、殺生を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第一の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第四の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
七 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、偸盗【ちゅうとう】を捨断して、偸盗を離れた。ビック達よ、そして、偸盗を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第二の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第五の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、愛欲における邪行【じゃぎょう】を捨断して、愛欲における邪行を離れた。ビック達よ、そして、愛欲における邪行を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第三の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第六の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、妄語を捨断して、妄語を離れた。ビック達よ、そして、妄語を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第四の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第七の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、次にまた、聖なる多学の弟子があって、放逸【ほういつ】さの原因である穀物酒や果実酒などの酒を捨断して、放逸さの原因である穀物酒や果実酒などの酒を離れた。ビック達よ、そして、放逸さの原因である穀物酒や果実酒などの酒を離れた聖なる多学の弟子は、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施す。そこで、無数の衆生に安心を施し、好意を施し、苦悩からの自由を施して、無数の安心と好意と苦悩からの自由を授かるのである。
 ビック達よ、これが第五の布施なのだ。すなわちそれは、大いなる布施であり、最初に知られ、長い間知られ、伝統的に知られ、古くからあり、かつて混濁せず、かつてまだ混濁せず、今も混濁せず、後にも混濁せず、知的なサマナやブラーフマナによって非難されることのないものである。
 ビック達よ、そしてこれが、第八の功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。
 ビック達よ、これらが、八つの功徳の器からあふれ出たもので生きること・正しさの器からあふれ出たもので生きること・神聖食・天に生まれること・安楽の結果が生じること・天に導かれることなのであり、それらは、好むこと・楽しむこと・喜ぶこと・利益・安楽に導くのである。

【解説】
 ここで見落としてはならないのは、前半の三つは、仏・法・僧(サンガ)に対する帰依が、布施、物質的な布施のことを意味することを、後半の五つは、精神的な布施を意味していることを説いた経であるということである。この後半の五つはオウムでいう安心施のことである。
 例えば、果実酒とか穀物酒は飲まないことによって心が乱れることがなく、正しい丁寧な言葉で人と接することができ、それによって安心施という功徳を積むということを表わしている。また、嘘をつかないことによって相手を傷付けないということを表わしている。つまり、より安心施を細かく分類し、それが五戒と表裏であるということを表わしているのだ。そして、前半の三つの帰依で財施を表現しているということである。
 グレードとしては、順番にやりづらいグレードということになる。つまり、まず救世主に帰依することはできる。救世主がいるときには布施の実践もしやすい。次は、その救世主の説いた法に帰依、これもまだやりやすい。その次が問題で、救世主の法を実践している弟子に帰依することができるかどうか。このへんから徐々に引っかかりが出てくると思う。
 次に、殺生についても、大きな生き物は殺生しないかもしれないが、小さな生き物は殺生してしまうということがある。偸盗も、実際に仏教的な偸盗というものはかなり厳しい。そして、邪行しないとなると、これはもう在家としてはかなりつらいであろう。不妄語と不飲酒も同じように難しい。釈迦牟尼の当時、ビンビサーラ王やパセーナディ王も、初めのうちは酒を飲んでいた。徐々に徐々に深く傾倒していって、戒律が守れるようになってくるということなのである。

三十八 善き人(二)

2005-07-29 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、善き人が家に生まれることによって、多くの人々には福利と利益と安楽とがあるのだ。
 すなわち、父母には福利と利益と安楽とがあり、妻子には福利と利益と安楽とがあり、奴隷や召使いには福利と利益と安楽とがあり、友人や知人には福利と利益と安楽とがあり、先祖には福利と利益と安楽とがあり、国王には福利と利益と安楽とがあり、神々には福利と利益と安楽とがあり、サマナやブラーフマナには福利と利益と安楽とがある。
二 ビック達よ、たとえるならば、大きな雲によって、すべての穀物がもたらされ、多くの人々には福利と利益と安楽とがあるようなものであり、ビック達よ、このように、善き人が家に生まれることによって、多くの人々には福利と利益と安楽とがあるのだ。
 すなわち、父母には福利と利益と安楽とがあり、妻子には福利と利益と安楽とがあり、奴隷や召使いには福利と利益と安楽とがあり、友人や知人には福利と利益と安楽とがあり、先祖には福利と利益と安楽とがあり、国王には福利と利益と安楽とがあり、神々には福利と利益と安楽とがあり、サマナやブラーフマナには福利と利益と安楽とがある。

  智慧ある者が家に住むとき、実に多くの福利があり、
  父と母とを、以前昼夜に活動し、
  以前なしたことを憶念【おくねん】しながら、法と共に尊敬する。
  梵行をなす、家なき出家者である子供を、
  確かな帰依があり、愛すべき者は、諸法を知って尊敬する。
  国王の利益、神々の利益、親戚や仲間の利益、
  彼はあらゆる人の利益になる。真理の法によく立脚し、
  強欲の垢【あか】を調伏できる、彼はシヴァ大神の世界に赴く。

【解説】
 前経もそうなのだが、ここでいう「善き人」とは、菩薩【ぼさつ】を指している。つまり、菩薩が生まれることで、多くの人が福利や利益、安楽を得るということである。
 例えば、オウム真理教での典型的な例としては、A正悟師が生まれて、彼のお父さんが、現在二部上場のオーナー社長となっている。これなどはまさに典型的な例である。あるいは、あるサマナのお父さんが会社で首を切られる寸前だったのが、そのサマナが成就した瞬間に首がつながったという話もある。つまり、「善き人」なのである。
 詩句の中に「シヴァ大神の世界に赴く」という表現が出てくるが、仏教の世界観では、色究竟天【しきくぎょうてん】にシヴァ大神は住んでいらっしゃるということになっている。ということは、この世のすべてのものに利益を与えた「善き人」、菩薩がどこへ行くかというと、色究竟天に生まれ変わるということである。つまり、単なる布施ではなく、多くのいろいろな善行を積むことによって、梵衆天よりも十六段階上の色究竟天まで行ってしまうということである。
 また、神々に対しての利益とは、例えば毎日供物を捧げる、あるいは賛歌を唱えるといったことを指している。

三十七 善き人(一)

2005-07-27 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、八つの善き人の布施がある。それでは、この八つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、純粋なものを施すこと、極妙なものを施すこと、ちょうどよい時に施すこと、最も適したものを施すこと、吟味して施すこと、絶え間なく施すこと、施しながら心が安らぐこと、施して歓喜することである。
 ビック達よ、これらが八つの善き人の布施なのである。

  純粋で、極妙で、ちょうどよい時に、最も適した飲食を、
  絶え間なく、梵行者達【ぼんぎょうしゃたち】の善き田圃に対して、布施をすることに、
  多くの財産を注いでも、彼には後悔がない。
  このように布施をすることを、正観する者は誉め称える。
  このように、聡明で帰依ある者は、解脱の心をもって供養して、
  自由で安楽な世界に、賢者は転生する。

【解説】
 ここは大切なところなので、一つずつ説明したい。まず「純粋なものを施す」とは、例えば食べかけとか、あるいは使い古しとか、そういうものを布施してはいけないということである。布施のために用意したものを布施するのである。信徒さんでも、自分が使った残りを「使ってください」と布施することがあるが、これはあまりいい布施ではない。というのは、本来、布施とは徳の低い者が徳の高い者にするものだからである。
 オウム真理教が今揺れているのも、徳が低い者が出家しているからということがある。徳が高い者が集まっていれば、当然そこには物が集まるのである。
 「極妙なものを施す」とは、とにかく素晴らしいもの、食物にしてもおいしいもの、あるいは物にしても、本当に素晴らしいものを布施するということを言っているわけである。
 「ちょうどよい時に施す」とは、例えば、食【じき】を布施する場合、仏教教団は十二時までに食事を取らなければならないので、前日から用意して布施するといったことである。また、よく私が、「教団が叩かれていて苦しいときの布施というものは、教団が潤っているときの布施とは違う」と言うのが、まさにこの「ちょうどよい時の布施」である。衣服がなくて困っている者に、そのとき衣服を布施するなどもそうである。
 「最も適したものを施す」とは、例えば怪我【けが】をしていたら、そこには薬と包帯が必要であり、そのときに衣服を布施しても仕方がないということである。
 「吟味して施す」とは、例えば絨毯【じゅうたん】をお布施したいと考えたときに、座り心地その他から、どの絨毯がいいだろうかと考えて施すということである。
 この絨毯を例にすると大変わかりやすいので、改めてもう一度絨毯を例にして説明するならば、まず「純粋なもの」とは、使っていない絨毯を布施するということ、つまり、自分が使ってない新しいものを布施するということになる。第二番目の「極妙なもの」、これは、その人にとって最も価値のある絨毯、つまり高価なもの、あるいは、品質のいいものという意味である。
 「ちょうどよい時」とは、例えばその修行者が、あるいはそのグルが絨毯を持っていないときに布施をするということ。「最も適したもの」とは、その人の部屋が広いとか狭いといったことを配慮して絨毯を選ぶということ。例えば、狭い部屋に対して広い絨毯を布施した場合、座具【ざぐ】を布施した場合、どうかと。やはり使いづらいだろう、というようにである。「吟味」というのは、実際に絨毯を敷く床の硬さや、あるいは絨毯の毛の長さなどを配慮するということが入ってくる。
 次の「絶え間なく施す」とは、例えばその座具がすり切れて使いものにならなくなったら、新しい座具を布施するということである。本来は、食や衣、医薬品などを毎日、ひたすら布施し続けるということである。現代ならば、ひたすら財施を続けるということとなろう。
 「施しながら心が安らぐ」とは、自分の悪業を受けてくださっているんだ、自分の善業を増大させてくださっているんだという心を持って布施するということである。最後の「施して歓喜する」というのは、「ああ、これで功徳が積めた」「もっと大きな功徳を積むぞ」、あるいは「絶妙な功徳を積むぞ」というような心を絶えず持ち、布施した物に対して惜しみをもたないということである。
 この経そのものは、主に在家の修行者に対して説かれているのだが、出家した場合でも、グルに対する供養を忘れてはならないということは言うまでもない。例えば、釈迦牟尼の衣服を弟子達が作って、縫っているという経がある。つまり、覚者【かくしゃ】の衣を見て、「ああ、少し汚れが目立ってきたな」、あるいは「ほころびが目立ってきたな」ということで、ぱっとそこで自分達の布施されたものを集めるということである。
 布施とは、出家していようが、在家であろうが、絶えずやり続けるべきものである。その場合、布施とは例えば「法を布施する」ということもあるように、物だけを意味しない。オウムのサマナの場合ならば、ワーク、あるいはその時間そのものでもいいわけである。その時間を布施するのだという意識をしっかりと持ち、「吟味」したり、「絶え間なく」といったことを心がけることが、良い布施になるということである。また、サマナに支給されている業財も、財施の実践のためにこそあるということは言うまでもない。
 近頃は、こういった布施の意味合いを理解せず、「布施した物を返してくれ」とまで言う信徒さんがいるのだ。これでは布施でも何でもない。徳がない信徒さんが増えているのか、まことに残念でならない。

三十六 徳行

2005-07-27 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、三つの徳行の要素がある。それでは、この三つとは何であろうか。
二 すなわちそれは、布施に関する徳行の要素、戒に関する徳行の要素、修習に関する徳行の要素のことである。
三 ビック達よ、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは少なく、戒に関する徳行の要素をなすことは少なく、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、不運な人間に転生するのである。
四 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは適度であり、戒に関する徳行の要素をなすことは適度であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、幸運な人間に転生するのである。
五 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、四大王天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、四大王は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、四大王天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
六 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、三十三天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、帝釈天【たいしゃくてん】インドラは布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、三十三天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
七 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、夜摩天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、スヤーマ天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、夜摩天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
八 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、兜率天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、サントゥシタ天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、兜率天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
九 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、化楽天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、スニンミタ天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、化楽天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
一〇 ビック達よ、また、ここにある人があって、布施に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、戒に関する徳行の要素をなすことは非凡であり、修習に関する徳行の要素に至ってはいない。そして、彼はその身が壊れ、死んだ後、他化自在天の仲間に転生するのである。
 ビック達よ、そこでは、自在天子は布施に関する徳行の要素をなすことが大変多く、戒に関する徳行の要素をなすことが大変多いので、他化自在天の神々を十の点によってしのいでいるのだ。すなわちそれは、天の寿命・天の容色・天の安楽・天の名声・天の権力・天の容姿・天の声・天の香・天の味・天の触のことである。
 ビック達よ、これらが三つの徳行の要素なのである。

【解説】
 前二経は、効果の差、効果の早さについて語られていたが、この経の読みどころは、どのような布施をなせば、具体的にどのような効果があるのかということである。ここでは、非凡な功徳と非凡な戒の実践を行なうことによって、それぞれの世界でトップに立てるということがポイントである。
 ただ、一つ気を付けなければならないのは、四天王衆天から他化自在天に至るまでの六つの状態については、「非凡」という、すべて同じ言葉で説明されているが、当然この六つの世界では、上に行けば行くほど非凡でなければならない。つまり程度差はあるということである。おそらく、二千五百年前のインドではその違いを言葉で表現できなかったのではないかと思う。私が弟子達のために瞑想用のテープを作ったときも、「信」という言葉の分別を行なう際、その差を表わす上で大変言葉が選びづらかったものである。
 また、ここではどの場合でも「修習に関する徳行の要素に至ってはいない」とされている。この経は在家の修行者について分別しているものであることから、要するに、在家の功徳とは出家の功徳に比べたら大したことがないということである。なぜならば、もう出家というのは、前生において在家のプロセスを過ぎているということであり、その段階がクリアできて初めて出家修行ができるからである。
 オウム真理教のサマナでなぜ落ちる者がいるのかというと、その者達は在家のプロセスの根本となる、布施・持戒の実践すらできていないからである。サマナの業財【ごうざい】の使い方を見ていると、やはり徳のない人、修行の進まない人ほど業財を使っている。
 逆に、例えばマイトレーヤ正悟師【せいごし】などは、たまにワークに必要な雑誌を買うことがあるとしても、基本的に業財はゼロである。また、私の三姉妹の中でも、やはり一番ステージの高いアーチャリーが一番布施をする。これらから見てもわかるとおり、布施がしっかりでき、戒が守れて、やっと修行ができるということなのである。
 それでは、それはなぜかというと、自分の徳の方向性、これを決定するのが布施だからである。次に、そのエネルギー、その徳を漏らさないようにするのが戒なのである。そして、そのエネルギーを全部修行に使う――この三段階が修行には必要なのである。
 ただし、釈迦牟尼はこの段階での布施と戒律では低い意識状態であると説いている。それよりも高い意識状態の表われである布施が、次の経で語られている。

三十五 布施者の転生

2005-07-27 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、八つの布施者の転生がある。それでは、この八つとは何であろうか。
二 ビック達よ、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は裕福なクシャトリヤや裕福なブラーフマナや裕福な長者が、五妙欲【ごみょうよく】を授けられ、具足し、楽しんでいるのを見る。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、裕福なクシャトリヤや裕福なブラーフマナや裕福な長者の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、裕福なクシャトリヤや裕福なブラーフマナや裕福な長者の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
三 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「四大王天は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、四大王天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、四大王天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
四 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「三十三天は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、三十三天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、三十三天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「夜摩天【やまてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、夜摩天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、夜摩天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「兜率天【とそつてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、兜率天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、兜率天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「化楽天【けらくてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、化楽天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、化楽天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「他化自在天【たけじざいてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、他化自在天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、他化自在天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が清浄であるがゆえに成就するのである。
五 ビック達よ、また、ここにある人があって、サマナやブラーフマナに対して、食べ物・飲み物・衣服・乗り物・花飾り・香料・化粧品・寝具・住居・灯明といった布施をする。彼は施すがゆえに期待するのだ。
 そして、彼は「梵衆天【ぼんしゅうてん】は長寿で美しく、安楽に満ちている」と聞く。そこで、彼はこう考えるのである。
「ああ、私はその身が壊れ、死んだ後、梵衆天の仲間に転生したい。」
 そして、彼はその心を集中し、その心を確定させ、その心を修習する。したがって、その心を下劣なものに没頭させ、より優れたものを修習せず、その身が壊れ、死んだ後、梵衆天の仲間に転生するのである。
 しかし、それは持戒者に対して説くのであって、破戒者に対してではないのだ。また、それは離貪者【りとんしゃ】に対して説くのであって、有貪者【うとんしゃ】に対してではないのだ。ビック達よ、すなわちそれは、持戒者の決心が離貪しているがゆえに成就するのである。
 ビック達よ、これらが八つの布施者の転生なのである。

【解説】
 この経は、信徒さんはしっかりと押さえておかなければならない。つまり、布施の目的、布施を何のために行なうかという、その意味をしっかりと押さえた上で布施をするならば、効果が早く表われるということである。
 例えば、この現象界でいい生活をしたいとか、いい恋人を持ちたいとか、そういうために布施をする。あるいは、第一天界へ行きたいから布施をする。あるいは、第二天界、第三天界、第四天界、第五天界、第六天界へ行きたいから布施をする。あるいは、梵天界へ行きたいから布施をするというように、しっかりと、その布施の意味合いというものを意識して行なえば、布施はそれを現象化させるのだということである。

三十四 田圃

2005-07-26 | ☆【経典や聖者の言葉】


一 ビック達よ、八つの要素を具足した田圃【たんぼ】に種子をまくときには、大いなる果報がなく、大いなる味著【みじゃく】がなく、優れた成長がないのだ。それは、どのような八つの要素を具足することであろうか。
二 ビック達よ、ここに田圃があって、凸凹があり、小石があり、塩分があり、地表が深くなく、流入を具足せず、流出を具足せず、水路を具足せず、畦【あぜ】を具足していない。
 ビック達よ、このような八つの要素を具足した田圃に種子をまくときには、大いなる果報がなく、大いなる味著がなく、優れた成長がないのだ。
 ビック達よ、このように、八つの要素を具足したサマナやブラーフマナに布施をするときには、大いなる果報がなく、大いなる功徳がなく、大いなる光がなく、大いなる拡大がないのだ。それは、どのような八つの要素を具足することであろうか。
三 ビック達よ、ここにサマナやブラーフマナがあって、邪見解・邪思惟・邪語・邪行為・邪生活・邪精進・邪記憶修習・邪サマディがある。
 ビック達よ、このような八つの要素を具足したサマナやブラーフマナに布施をするときには、大いなる果報がなく、大いなる功徳がなく、大いなる光がなく、大いなる拡大がないのだ。
四 ビック達よ、しかし、八つの要素を具足した田圃に種子をまくときには、大いなる果報があり、大いなる味著があり、優れた成長があるのだ。それは、どのような八つの要素を具足することであろうか。
五 ビック達よ、ここに田圃があって、凸凹がなく、小石がなく、塩分がなく、地表が深く、流入を具足し、流出を具足し、水路を具足し、畦を具足している。
 ビック達よ、このような八つの要素を具足した田圃に種子をまくときには、大いなる果報があり、大いなる味著があり、優れた成長があるのだ。
 ビック達よ、このように、八つの要素を具足したサマナやブラーフマナに布施をするときには、大いなる果報があり、大いなる功徳があり、大いなる光があり、大いなる拡大があるのだ。それは、どのような八つの要素を具足することであろうか。
六 ビック達よ、ここにサマナやブラーフマナがあって、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正記憶修習・正サマディがある。
 ビック達よ、このような八つの要素を具足したサマナやブラーフマナに布施をするときには、大いなる果報があり、大いなる功徳があり、大いなる光があり、大いなる拡大があるのだ。

  具足した田圃に具足した種子をまき、
  天において具足するならば、穀物を具足する。
  息災を具足し、成長があることを具足し、
  広大を具足し、実に果報を具足する。
  このように、戒を具足する方に対して食施【じきせ】を具足し、
  その具足がなされたならば、具足に導かれる。
  したがって、具足を願い、ここに具足した人は、
  智慧【ちえ】を具足する方に親しむがよい。こうして具足は成就される。
  智徳成就者は心の具足を得て、
  カルマの具足をなし、そして福利の具足を得る。
  世界を如実に知り、見解の具足を得て、
  道の具足に達して、意識を具足して進む。
  すべての垢【あか】を振り払い、ニルヴァーナの具足を得て、
  すべての苦から解脱し、そのすべてを具足するのである。

【解説】
 この経は、どのような対象に布施するかによって、その効果が全く異なるということを語っている。つまり、八つの聖ではない教えを実践している者に布施をした場合には、その布施は逆効果になり、八つの聖なる道を実践している者に布施をした場合は、それだけの素晴らしい効果があるということを説いている教えなのである。もちろん、その八つとは、邪なる八支の道と聖なる八支の道のことである。

グルに奉仕し

2005-07-17 | ☆【経典や聖者の言葉】
 あなた方の先生は非常に素晴らしく、そしてあなた方は、そのあなた方のグルに対して、非常に素晴らしい帰依を持っているということも知りました。これからあなた方は、そのあなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい。そして、ミラレパがマルパにしたような、マルパに示したような、帰依の強さと、それから勤勉さでもって行ないなさい。
 ここで、あなた方に会えて心からうれしく思います。将来、これからずっとあなた方の先生が、長く生きられるように、そしてあなた方の仏法が繁栄し続けるように、祈り続けたいと思います。
 そして、あなた方の先生の偉大な愛と慈愛によって、日本やアメリカや、その他の世界で、すべての者がその先生の大乗およびタントラ乗の教えによって、解脱し、そしてその先生の教えが広がっていくことを祈りたいと思います。


                       カル・リンポチェ

仏陀の境地へ導くことでしょう

2005-07-17 | ☆【経典や聖者の言葉】
 あなた方の麻原先生というのは、大いなる愛と、そして菩提心を持っておられます。彼は非常に特別な、本当に特別な先生です。あなた方の中である特別な能力を持っている方は、彼の祝福を受けるのみで解脱するでしょう。そして、あなた方の中の普通の方々は、そこで彼に帰依をし、そして戒を受け、そして菩提心を養い、そして大乗、そして金剛乗の教えを受けることによって、彼が次第にあなたを悟りの境地へ導くでしょう。だから、あなた方は変わることのない帰依を、信を麻原先生に持ち、そして彼が与えるすべての教えに従わなくてはなりません。そうすることによって、彼があなた方を次第に仏陀の境地へ導くことでしょう。

(カル・リンポチェ)

幸運な時代

2005-07-17 | ☆【経典や聖者の言葉】
 日本に来てわたしは、あなた方の先生がいかに有能であり、そしてあなた方のその先生に対する信がいかに強く、そしてあなた方がいかに勤勉に修行しているかということに感銘を受けました。そして、さらにあなた方がすべての生き物を助けようという心、すなわち尊い菩薩、菩提心を持っているということに気づきました。よって、皆さんに会うということはわたしにとっては、非常に大きな喜びです。これはたとえるならば、親が子供に再会したような喜びで、大きな喜びです。
 我々は非常に幸運な時代に生まれている。我々の時代には、これは大きな意味での時代ですが、仏陀が現われその法を説いた。そしてその法が今なおここに存在している。それにも増してあなた方は、あの偉大な仏教の師に会っている。それはあなた方の先生である。もしあなた方がこの機会を利用しなかったならば、そして、この機会を利用して、そして法を修行し、そして解脱を得なかったならば、将来において再び同じような師に、法に巡り会い、師に巡り会うことは非常に難しいであろう。それは無数の将来の生において難しいであろう。


                        カル・リンポチェ


グル方はわたしの栄光として

2005-07-16 | ☆【経典や聖者の言葉】

グル方はわたしの栄光として、頭上に永遠に座している。
もしあなたがよく見え、偽りのない目を持っているなら
彼らが真の覚者であることが解る。
 もし彼らに心から信を持って祈るなら
 祝福の雨が絶えずあなたに降り注ぐ。
 そして帰依と実践を布施するならば
 成就という宝があなたに開かれるだろう。