智徳の轍 wisdom and mercy

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チャートゥマ経(チャートゥマ・スッタンタ)

2006-07-05 | ☆【経典や聖者の言葉】




 このように私は聞いた。
 あるとき、仏陀はチャートゥマにあるアンマロク林にとどまっておられた。そのとき、サーリプッタとモッガラーナが率いる五百人の比丘は、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着した。
 そして、彼ら新しい比丘は先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座【しょうざ】を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしていた。そこで、仏陀は長老アーナンダを呼んで、こうおっしゃった。
「アーナンダよ、漁師が魚を捕るときのように、声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ。」
「仏陀よ、これは、サーリプッタとモッガラーナが率いる五百人の比丘が、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着して、彼ら新しい比丘が先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしているのです。」
「それならば、アーナンダよ、お前は私の名前で彼ら比丘達に、『尊師は君達を呼んでいる』と言いなさい。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは仏陀にお応えし、彼ら比丘達の所を訪れた。訪れると、彼ら比丘達にこう告げた。
「尊師は君達をお呼びです。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達は長老アーナンダに応えて、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座った彼ら比丘達に、仏陀はこうおっしゃった。
「比丘達よ、漁師が魚を捕るときのように、君達が声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ!」
「仏陀よ、それは、サーリプッタとモッガラーナが率いる、私達五百人の比丘が、仏陀にお会いするために、チャートゥマに到着して、その新しい比丘が先輩の比丘とお互いにあいさつし、床座を設け、衣鉢を調えて、声高に話したり、大声を出したりしていたのです。」
「比丘達よ、行け! ここから去れ! 君達は私の前にいてはならない。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら比丘達は仏陀にお応えし、座を立ち、仏陀を礼拝し、右遶の礼をして、床座をたたみ、衣鉢を持って去ったのである。
 そのとき、チャートゥマのシャカ族は、ある用事のために、集会堂に集まっていた。そして、チャートゥマのシャカ族は、遠くに彼ら比丘達が歩いているのを見た。それを見ると、彼ら比丘達の所に至った。至って、彼ら比丘達にこう言った。
「尊者達はどこへ行かれるのですか。」
「友よ、仏陀によって、比丘衆は行かされたのです。」
「それならば、尊者達よ、しばらく座ってお待ちなさい。おそらく、私達は仏陀のお心を喜ばせることができるでしょうから。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達はチャートゥマのシャカ族に応えた。
 そこで、チャートゥマのシャカ族は、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、彼らチャートゥマのシャカ族は、仏陀にこう申し上げた。
「尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。
 尊師よ、ここに新入りの比丘があって、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入りました。もし彼らが、仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い種子が水を得られなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い子牛が母に会えなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。
 尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。」
 そのとき、梵天サハンパティは、仏陀の心を他心通によって了知した。そこで、あたかも力強い人が曲げた腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を曲げるように、梵天界から消えて、仏陀の前に現われたのである。そして、梵天サハンパティは片肌を脱いで、仏陀に向かって合掌し、仏陀にこう申し上げた。
「尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。
 尊師よ、ここに新入りの比丘があって、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入りました。もし彼らが、仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い種子が水を得られなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。尊師よ、たとえるならば、幼い子牛が母に会えなかったならば、異変があり、変化があるようなもので、このように、尊師よ、新入りの比丘で、出家してまだ日が浅く、最近この法と律に入った者が、もし仏陀にお会いすることができなかったならば、異変があり、変化があることでしょう。
 尊師よ、仏陀は比丘衆をお喜ばせください。尊師よ、仏陀は比丘衆をお迎えください。尊師よ、以前仏陀によって比丘衆が受け入れられたように、今再び、仏陀は比丘衆をお受け入れください。」
 こうして、チャートゥマのシャカ族と梵天サハンパティは、種子のたとえと子牛のたとえによって、仏陀のお心を喜ばせることができたのである。そこで、長老マハーモッガラーナは、比丘達にこう呼びかけた。
「みんな、起きろ。衣鉢を調えろ。仏陀は、チャートゥマのシャカ族と梵天サハンパティが説いた、種子のたとえと子牛のたとえによって、お心を喜ばせられたぞ。」
「かしこまりました、友よ。」
と、彼ら比丘達は長老マハーモッガラーナに応えて、座を立ち、衣鉢を持って、仏陀がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、仏陀を礼拝して傍らに座った。傍らに座った長老サーリプッタに、仏陀はこうおっしゃった。
「サーリプッタよ、私が比丘衆を追い出したとき、あなたはどう思ったのだろうか。」
「尊師よ、仏陀が比丘衆を追い出されたとき、私は『仏陀は今、心静かに現法楽住【げんぽうらくじゅう】を実践してとどまろうとしておられる。それでは、我々も今、心静かに現法楽住を実践してとどまろう』と思いました。」
「待て、サーリプッタ。待て、サーリプッタ。サーリプッタよ、あなたは二度と、このような心を生じてはならないのだ。」
 そして次に、仏陀は長老マハーモッガラーナを呼ばれた。
「モッガラーナよ、私が比丘衆を追い出したとき、あなたはどう思ったのだろうか。」
「尊師よ、仏陀が比丘衆を追い出されたとき、私は『仏陀は今、心静かに現法楽住を実践してとどまろうとしておられる。それでは今、私は長老サーリプッタと共に、比丘衆を保護しよう』と思いました。」
「素晴らしいことだ、モッガラーナよ。実に私か、あるいは、サーリプッタ、モッガラーナの二人は、比丘衆を保護しなければならないのである。」
 そこで、仏陀は比丘達にお説きになった。
「比丘達よ、水に入る者には、四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。比丘達よ、水に入る者には、これら四つの恐怖が予期されるのである。
 このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。
 比丘達よ、それでは、波の恐怖とは何であろうか。
 比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
 そして、このように出家した彼に、梵行を共にする者は、こう訓戒し、教誡する。
『このように、あなたは進みなさい。このように、あなたは戻りなさい。このように、あなたは前を見なさい。このように、あなたは後ろを見なさい。このように、あなたは曲げなさい。このように、あなたは伸ばしなさい。このように、あなたは正装衣と衣鉢を持ちなさい。』
 そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、他人を訓戒し、教誡していた。今彼ら梵行を共にする者は、我々の子供のようなものであり、我々の孫のようなものである。しかし、彼らは我々を訓戒すべきもの、教誡すべきものと考えている。』
 こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、波の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、波の恐怖とは『忿悩【ふんのう】』と同義語なのである。
 比丘達よ、それでは、大ワニの恐怖とは何であろうか。
 比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
 そして、このように出家した彼に、梵行を共にする者は、こう訓戒し、教誡する。
『あなたはこれをかみなさい、これをかんではいけません。あなたはこれを食べなさい、これを食べてはいけません。あなたはこれを味わいなさい、これを味わってはいけません。あなたはこれを飲みなさい、これを飲んではいけません。規定に従ったものをあなたはかみなさい、規定に従わないものをかんではいけません。規定に従ったものをあなたは食べなさい、規定に従わないものを食べてはいけません。規定に従ったものをあなたは味わいなさい、規定に従わないものを味わってはいけません。規定に従ったものをあなたは飲みなさい、規定に従わないものを飲んではいけません。正時にあなたはかみなさい、非時にかんではいけません。正時にあなたは食べなさい、非時に食べてはいけません。正時にあなたは味わいなさい、非時に味わってはいけません。正時にあなたは飲みなさい、非時に飲んではいけません。』
 そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、欲しいものをかみ、欲しくないものはかまなかった。欲しいものを食べ、欲しくないものは食べなかった。欲しいものを味わい、欲しくないものは味わわなかった。欲しいものを飲み、欲しくないものは飲まなかった。規定に従ったものをかみ、また、規定に従わないものもかんだ。規定に従ったものを食べ、また、規定に従わないものも食べた。規定に従ったものを味わい、また、規定に従わないものも味わった。規定に従ったものを飲み、また、規定に従わないものも飲んだ。正時にもかみ、非時にもかんだ。正時にも食べ、非時にも食べた。正時にも味わい、非時にも味わった。正時にも飲み、非時にも飲んだ。例えば、昼の非時に、信がある長者が我々に、絶妙な硬い食べ物と軟らかい食べ物を施すとき、これではまるで、口に栓をするようなものではないか。』
 こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、大ワニの恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、大ワニの恐怖とは『飽食』と同義語なのである。
 比丘達よ、それでは、渦の恐怖とは何であろうか。
 比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
 そして、彼はこのように出家し、早朝に内衣を身に着け、衣鉢を持って、村や町に托鉢に入る。すなわち、守護されない身によって、守護されない口によって、確立されない念によって、制御されない諸根によって、托鉢するのである。
 そこで彼は、五妙欲を満たし、具足し、楽しんでいる、長者あるいは長者の息子を見る。そこで、彼はこう思うのだ。
『我々が以前在家だったとき、五妙欲を満たし、具足し、楽しんだ。家には財産があり、そして財産を享受し、福徳を行なうことができたのだ。』
 こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、渦の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、渦の恐怖とは『五妙欲』と同義語なのである。
 比丘達よ、それでは、小ワニの恐怖とは何であろうか。
 比丘達よ、ここに善男子があって、信によって在家から出家者となった。
『私は、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩にとらえられ、苦にとらえられ、苦に征服された。それならば、私はこのすべての苦蘊の終わりをなすことを了知したいものだ』と。
 そして、彼はこのように出家し、早朝に内衣を身に着け、衣鉢を持って、村や町に托鉢に入る。すなわち、守護されない身によって、守護されない口によって、確立されない念によって、制御されない諸根によって、托鉢するのである。
 そこで彼は、服装が乱れ、肌も露わな女を見る。そして、服装が乱れ、肌も露わな女を見た彼の心は、欲情によって堕落する。
 すなわち、欲情によって堕落した心によって、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、小ワニの恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、小ワニの恐怖とは『女』と同義語なのである。
 このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。」
 このように仏陀はお説きになった。歓喜した比丘達は、仏陀の説かれた教えを承り、それを実践しようと心から決意した。

【解説】
 この経では、出家者にとっての四つの恐怖が説かれている。そして、その四つの恐怖とは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことであるという。もう一度次の部分を見てみよう。
「比丘達よ、水に入る者には、四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。比丘達よ、水に入る者には、これら四つの恐怖が予期されるのである。
 このように、比丘達よ、ある人がこの法と律において、在家から出家者となったとき、これら四つの恐怖が予期されるのである。それでは、この四つとは何であろうか。すなわちそれは、波の恐怖・大ワニの恐怖・渦の恐怖・小ワニの恐怖のことである。」
 そして、後の詳しい説明の後で、例えば、第一の波の恐怖について、「こうして、彼は修学をやめて下向するのだ。比丘達よ、これを、波の恐怖におののいて、修学をやめて下向したというのである。つまり、比丘達よ、波の恐怖とは『忿悩』と同義語なのである」と説かれている。
 このへんは、訳が的確でない部分があるので、解釈を加えなくてはならないだろう。おそらく、もとにしている『南伝大蔵経』自体の書き方に問題があるのだと思う。
 これが意味するのは、水に入る者が水に入る前に注意しなくてはならないことなのだ。つまり、出家後に注意しなくてはならないことであって、既にのみ込まれてしまったら終わり、食べられてしまったら終わり、死んでしまう=落ちてしまうよ、という内容なのである。したがって、「恐怖におののいて、修学をやめて下向した」というのではニュアンスが違ってきてしまう。ここのところは気を付けておいていただきたい。
 では、四つの恐怖について順に説明していこう。
 まず、第一番目の波のたとえ。この波のたとえは何を意味しているかというと、現世的にある程度プライドを満足させていた人が出家して、自分の先輩比丘、オウムでいったらシャモンのレベルを見て馬鹿にしたり、不満を抱いたりする。あるいは、自分自身の現世的な経験と先輩出家者の状態とを比較して、自分より早くから修行している人に対して尊敬の念が持てない。それがゆえに、自己に高ぶり・驕りが起きて、例えば自分の力で対応できる以上に危険な領域で泳いでしまい、高波にのまれて死んでしまう。すなわち、出家生活から落ちて在家に戻ってしまうのだということを表わしている。
 もし、自分にその要素があると思う人は、次のように考えるべきだ。
 この世の経験はすべてマーヤ(幻影)である。そして、現世的なものをすべて落として出家しているわけであるから、現世的なものや経験で出家者を評価してはいけない。
 現世的なものというのは、今生での教育によって、あるいは環境によって与えられた要因が大きい。しかも、死の瞬間、この世の教育や環境から脱却しなくてはならないのであるから、来世では意味がない。
 しかし、内側の経験(霊的な経験)というものは、教育・環境では得られないし、次の生にもそれを持っていける。したがって、出家者にとっては現世的な経験など無意味であり、内側の経験が大切なのであって、内側の経験が進んでいる者に対しては、自分がその道を歩く以上、尊敬の念を抱かなければならないし、また、そういうふうに、自分の現世的な発想から離脱してものを見つめる訓練をすることが、解脱していく道なのである。
 第二の大ワニのたとえは、飽食を表わしている。食事についての戒にも、それにはそれなりの意味があるのであるが、それを理解できない出家者がいるわけだ。しかも、戒律にそんなに触れるわけではないから、例えば、食事の戒を破ったからといって破門されるというわけではないから、戒を破りやすい。
 ところが、実際に戒を破ってしまうとどうなるかというと、エネルギーが消化に全部使われてしまって、高い世界の経験ができなくなってしまう。要するに、飽食の恐怖、こういうものを理解しないで修行者の生活を続けていると、いずれ落ちてしまいますよ、ということをここでは言っているのである。
 落ちる、落ちないというのは、ちょっとした隙を作るか作らないかで決まってしまうと言っていいだろう。このように、食の戒のような一見危険のない戒律でも、きちんと守らないと、煩悩というものはどんどん増大するのである。で、結局は、おいしいものをいつも食べておきたいなどという状態になって、落ちてしまうのである。
 この飽食の恐怖というものは、第一に挙げられている波の恐怖と関係していると思う。なぜなら、先輩の修行者に対して尊敬の念があれば、先輩の教える戒律も守れるはずであるし、戒律の意味合いも理解できるだろうからである。
 三番目の渦の恐怖は全く別問題で、これは最も危険な要素とも言えよう。五妙欲――つまり、目・耳・鼻・口・触覚から伝わってくる喜び、煩悩をシャットアウトしないと渦に巻き込まれていってしまい、あげくの果てには落ちてしまうということである。
 そして、四番目が小ワニの恐怖=女となる。
 一番目がアナハタ・チァクラのプライド、二番目がマニプーラ・チァクラの食、三番目がスヴァディスターナ・チァクラを中心とした感覚の貪りで、これは性欲ともからんでいる。そして四番目になると、完全に性欲となっているところが面白い。これらのチァクラの引っかかりを切らないと、出家修行も続かないし、成就もできませんよ、という示唆である。で、これらの引っかかりが、形状的に波・大ワニ・渦・小ワニとして表わされているのである。波は心の高ぶりや傲慢さ、大ワニのその過食、渦は感覚に巻き込まれる様子、そして小ワニというのは、動物的な状態の比喩なのだろう。
 さて、このように仏陀釈迦牟尼が法を説かれる前の経緯も大切なところである。
「比丘達よ、漁師が魚を捕るときのように、君達が声高に話したり、大声を出したりしているのは何だ!」
「比丘達よ、行け! ここから去れ! 君達は私の前にいてはならない。」
と、釈迦牟尼自身が新しい五百人の比丘達を帰してしまわれながら、彼らを保護しようとしなかったサーリプッタを注意し、保護しようとしたモッガラーナを誉めている。
 これはこういうことなのである。私もたまに、修行者としての素質がないということで、「帰れ」と言うことがあるが、それはあくまでも私の立場で言えることなのである。そのとき、弟子は何をやらなければならないかというと、「あ、これは一つの戒めである」と受け取って、その縁を切ってはいけない。なぜなら、如来の愛の目的というものは、相手を解脱させることだからだ。
 ところが、ここでサーリプッタは失敗してしまった。如来が現法楽住の瞑想をされようとしているからと、自分もそれをやろうとしたわけだ。でも、それではいけない。大乗の修行をしているのだから。例えば、釈迦牟尼が「NO」と言われた場合は、その時期が来るまで自分自身が一生懸命フォローして、修行の縁を作ってあげることが必要なのである。
 ここでは、七科三十七道品の小乗のプロセスの範囲で釈迦牟尼に絶賛されているサーリプッタが、まだ仏陀、如来でないということの一つの現われだと思う。サーリプッタの戸惑いを感じる経である。だが、やはりサーリプッタとマハーモッガラーナが二大弟子だったことは間違いないようだ。それが釈迦牟尼の、「実に私か、あるいは、サーリプッタ、モッガラーナの二人は、比丘衆を保護しなければならないのである」というお言葉にそれが示されている。
 それでは最後に、それぞれの恐怖を超えるポイントを書いておこう。第一の忿悩については先にも触れたが、やはり謙虚さがポイントである。自分より相手の優れているところを見つめる訓練をしていくと、この忿悩がないし、反対に、自分より劣っているところを見つめてしまうと、忿悩が出てきてしまう。また、忿悩は瞋恚・嫌悪とつながっているので、そこで心のカルマを積んでしまうということにも注意。
 しかし、その道が絶対的な真理であることが確信できていれば起こらない問題であることを考えると、この忿悩が一番のくせものであると言えるかもしれない。
 第二番目の飽食に対しては、ひたすら四念処の瞑想をするしかない。これはコン眠とつながっている。五妙欲は掉挙・欲貪とつながっている。性欲も同様と言えるだろう。
 それらから抜け出るためには、データの入れ換えをするしかない。すなわち、教学をベースに瞑想修行をするということである。そして、それを成功させるには功徳が不可欠であるということを忘れてはならない。功徳が私達の修行を進めるエネルギーとなるのだから。したがって、功徳のない人、足りない人は、まず功徳を積めるように心がけるべきなのである。