智徳の轍 wisdom and mercy

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◆カルマと因果の法則

2005-03-16 | ☆【経典や聖者の言葉】


 この後、カルマ、因果の法則に照らして、何をなし、何をなしてはいけないかをはっきり知ることが必要となります。どのような生き物であっても自分のなしたことの果は必ず自分に返ります。さらに、十の悪業をなすならば、不運な転生と呼ばれる状況のもとに転生することになります。三つの毒のうちのどれを使ってその要素がなされたか、どれくらいの頻度でなされたか、その対象はだれか、その程度は重いか、中位か、小さいかによって、地獄に生まれ変わるか、餓鬼に生まれ変わるか、動物に生まれ変わるかが決まります。もしこの三つのうちに生まれ変わるなら、計り知れない苦しみを味わわなければなりません。反対になした善行の程度、大きな善行か中位の善行か、小さな善行かによって、無色界・色界、あるいは欲界の天界のうちのどこに生まれ変わるかが決まります。ゆえに常に自分のなす行為を、身・口・意の三つの門を通してチェックすることが大切となります。

【解説】因果の法則の基本は、幸福は善業あるいは〝白い〟カルマの結果であり、苦しみは悪業〝黒い〟カルマの結果であるということです。さらにその人のなしたことはその人にだけ返ります。つまり、もしあなたが人を殺すなら、その果はあなたの両親でも子供でもなく、あなた自身に返るということです。ゆえに、もし自分、そして他人を利することを望むなら、残酷な行ないをやめ、親切な行ないをなすようにしなくてはなりません。
 十の悪業は三つの身の悪業、四つの口の悪業、三つの心の悪業に分けられます。身の悪業とは、殺生、自分に与えられないものを取ること、すなわち盗み、姦通、強姦といったような正しくない性行為を行なうことです。四つの口の業とは嘘、人を仲たがいさせる言葉を話すこと、悪口、あるいは粗暴な言葉を話すこと、無駄話、うわさ話をすることです。心の悪業とは他人に属するものをむやみに欲しいと思うこと、邪悪な思いを持つこと、そして例えば因果の法を信じないといった誤った信念、考えを持つことです。
 並の十の善行とは十の悪業をなさないことです。しかし十の特別な善行とは、他の命を救うこと、寛大であること(布施をなすこと)、戒を守り、そして他にも同じようになすことを勧めること、誤解を生まないように真実を話すこと、ケンカの仲裁をし、敵を仲直りさせること、優しく、静かに話すこと、教えや祈りのように意味あることを話すこと、欲を持たず、満足を知ること、他に対して善い思いを持ち、正しい宗教を信じ、その教えに確信を持つことです。
 もし、他の命を救い、殺生を行なわないなら命は長くなります。反対に、繰り返して殺生をなすなら命は短くなり、病が続きます。人に施し、盗みをなさないならば豊かになります。しかし、盗みを行なうならば貧しくなり、盗みに遭います。身を清く保ち、邪淫をなさないならば快い容姿を持ち、結婚生活・友人関係はうまくいきます。しかし反対に邪淫を行なうならば醜くなり、結婚生活はうまくいかず、夫または妻に裏切られます。
 真実を語り、嘘をつかないことによって、他の人はあなたの言うことを信じます。しかし、いつも嘘をつくなら、だれもあなたの言うことを信じないでしょう。仲たがいさせるような言葉を避け、人を仲良くさせるなら、いつも友人と親しくつきあうことができるでしょう。反対に仲たがいさせるなら、敵を作り、妬まれ、友人関係は貧しいものになるでしょう。快い言葉を話し、悪口を言わないなら、他の人もあなたに優しい言葉を話してくれるでしょう。しかし、常に他人の悪口を言うならば、自分も悪口を言われ、粗暴な言葉で話しかけられます。意味のある言葉だけを語り、うわさ話をしないなら、自分も意味のある言葉を聞きます。一方無駄話をするならば、自分もたわいのないことしか耳にしません。
 満ち足りることを知り、他人のものを欲しがらないなら、何にも不自由することはないでしょう。しかし隣人のものを常に欲しがっているような人は、乞食になり、常に満たされることがなくなります。他に対して善き思いを持ち、悪しき思いを持たないならば、人々に親切にされ、尊敬されます。一方悪しき思いを持つことによって人に疑われ、害されることになります。正しい、正確な見方をすることによって智性、智慧は増し、頭はいつもさえています。しかし誤った見方に執着するならば、心は狭くなり、智性は働かず、疑いに満たされます。
 カルマの果は本文にあったように様々に分かれます。別の分け方として、行為の動機となる誤った考えによって分ける方法があります。もし強いプライドと慢によって行動するなら神として生まれ変わります。嫉妬から行動するなら阿修羅となり、欲望なら人間、心の狭さなら動物、物惜しみによって餓鬼、怒りによって地獄にそれぞれ生まれ変わります。ゆえに欲六界の転生から解放され、究極的な目的である解脱を達成するためには、誤った考えを取り除き、善行を行なうよう努力することが必要です。

彼らの死んだ様子を考え

2005-03-16 | ☆【経典や聖者の言葉】

 今まで何人の友人や親族が亡くなったかを数え、彼らの死んだ様子を考え、その死体が焼き場に持っていかれ、ついには骨だけになってしまったことを考えます。そして自分も同様のことを免れ得ないのだということを考えて、死刑執行人の手に引き渡された人が持つような恐怖の状態に自分を持っていきます。心を散漫にして逃げてはいけません、この世に完全に興味がなくなったとき、完全にこの状態に心を没入させて瞑想します。これが五番目の準備修行、死と無常の瞑想です。

【解説】これらの瞑想はあなたの気を滅入らせるのが目的ではありません。もし瞑想の結果、悲観的になって苦しみ、「自分は死ぬ。そしてそれをどうすることもできない」と考えるなら、この瞑想は苦しみの原因となるだけです。死の瞑想の目的は、あなたに法の実践をさせ、カルマの法則を考えるようにし、未来の転生を左右するためには何をなしたらいいかを教えることにあるのです。戦いの場に入っていく勇者を鼓舞するように、あなたを鼓舞することが目的なのです。ミラレーパが言っています。「わたしは死を恐れて山に入った。しかし自らの心のダルマカーヤの本質を知った今、もう死が来ても怖くはない」と。