智徳の轍 wisdom and mercy

                  各種お問い合わせはbodhicarya@goo.jpまで。

◎断滅論――瞑想体験による七つのステージ

2005-09-04 | ☆【経典や聖者の言葉】

五 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、死後に関する非有想非無想論を抱く者がいる。彼らは、八種の根拠により、死後に我が有想でもなく無想でもないと説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、死後に関する非有想非無想論として、八種の根拠により、死後に我が有想でもなく無想でもないと説くのであろうか。
六 彼らは、我に関して、次のように説くのである。
『我は病むということがなく、死後は非有想非無想であって、有色である。』
『…無色である。』
『…有色であり、かつまた無色である。』
『…有色でもなく、かつまた無色でもない。』
『…有辺である。』
『…無辺である。』
『…有辺であり、かつまた無辺である。』
『…有辺でもなく、かつまた無辺でもない。』
七 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、死後に関する非有想非無想論として、八種の根拠により、死後に我が非有想非無想であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、死後に関する非有想非無想論として、死後に我が非有想非無想であると説くものは、すべてこの八種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
八 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」
九 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、断滅論を抱く者がいる。彼らは、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、断滅論として、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのであろうか。
一〇 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、次のような説と次のような見解を持つ者がいる。
『本当に、この我は有色であって、四大種【しだいしゅ】からなり、父母から生まれ、そしてその身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一一 これに対して、別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他の天には、有色であって、欲界に属し、段食【だんじき】によって養われる我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一二 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他の天には、有色であって、心によって作られた身体を持ち、一切の手足を具【そな】え、一つの根【こん】をも欠くことがない我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一三 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、色想を超え出て、有対【うたい】の想を滅して、異想を憶念しないために、「虚空は無辺である」という空無辺処【くうむへんしょ】に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一四 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、空無辺処を超え出て、「識【しき】は無辺である」という識無辺処に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一五 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、識無辺処を超え出て、「何物もあることはない」という無所有処【むしょうしょ】に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一六 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、無所有処を超え出て、「これは寂静であり、これは美妙である」という非想非非想処【ひそうひひそうしょ】に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一七 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、断滅論として、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、断滅論として、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くものは、すべてこの七種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
一八 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

【解説】
◎断滅論――瞑想体験による七つのステージ
 これが断滅論である。ここで、それぞれの断滅論者が何を言っているのかというと、ニルヴァーナの定義について言っているわけだ。で、ここでいう定義というものは、瞑想のステージに応じた霊的体験によって裏付けられているということが言えるのだが、第一のステージの人が、
「本当に、この我は有色であって、四大種からなり、父母から生まれ、そしてその身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。」
と言うと、既に次のステージである第二のステージを経験している人が、
「第一のステージで終わりではないんだ。第二のステージが正しいんだ。」
ということを言うという形で、第七のステージに至るまで論が展開している。
 だが、この第七のステージである非想非非想処でも、結局はまだニルヴァーナではないということを、仏陀釈迦牟尼はおっしゃっているわけだ。そして、そういう論にとらわれていることも、結局は再生の因となってしまうということをも。
 また、そのとらわれは、慢が出てきてそのステージで止まってしまうということでもある。だから、慢というのはカルマの限界とも言い換えることができよう。
 仏陀釈迦牟尼の教えにしろ、断滅論者の考えにしろ、どれもこの世だけではなくて、異次元の世界を体験していないと、こういう瞑想論に口出しできないということは確かだ。つまり、この経の内容というものは、瞑想を実践していない学者では手出しできない範囲なのである。そういう意味で、この経も素晴らしいものの一つであると言えよう。
 なお、空無辺処辺りから徐々に三昧になってくるのだ。そして、非想非非想処というステージの上に、マハー・ニルヴァーナがあるのだ。

◇第三誦品

2005-09-04 | ☆【経典や聖者の言葉】



一「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、死後に関する無想論を抱く者がいる。彼らは、八種の根拠により、死後に我【が】が無想であると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、死後に関する無想論として、八種の根拠により、死後に我が無想であると説くのであろうか。
二 彼らは、我に関して、次のように説くのである。
『我は病むということがなく、死後は無想であって、有色である。』
『…無色である。』
『…有色であり、かつまた無色である。』
『…有色でもなく、かつまた無色でもない。』
『…有辺である。』
『…無辺である。』
『…有辺であり、かつまた無辺である。』
『…有辺でもなく、かつまた無辺でもない。』
三 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、死後に関する無想論として、八種の根拠により、死後に我が無想であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、死後に関する無想論として、死後に我が無想であると説くものは、すべてこの八種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
四 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

【解説】
◎無想論――仏陀釈迦牟尼の智慧の素晴らしさ
 無想論は、「死後に意識はないんだ」とする考え方で、輪廻を否定するものである。これらの無想論を説くのは、かなりレベルの低い修行者であると言えるだろう。彼らには三昧の経験がなく、死の経験もない。よって輪廻転生について知らないのだ。
 だが、このように真理ではない他の宗教観を、仏陀釈迦牟尼は初めからシャットアウトしてしまうのではなく、あらゆるパターンを挙げて検討していらっしゃる。普通だと傲慢【ごうまん】になってしまって、「あれは低い次元の修行だから」などと考えるわけだけれど、そういうことも一切されていない。次を読んでいただければわかるが、とにかく上から下までのすべての宗教の見解をまず説いていらっしゃるのだ。ここに私は、仏陀釈迦牟尼の持っていらっしゃる智慧の素晴らしさというものを感じざるを得ない。
 そして、もう一つ釈迦牟尼は素晴らしいことを説いていらっしゃる。それは、正しい宗教を実践しなければ解脱はないということだ。そして、とらわれた見解に陥るならば、必ずとらわれた世界に入ってしまうということを言っていらっしゃる。これは、例えばブラフマンを信仰すればブラフマンの世界に生まれやすく、例えば欲天を信仰すれば欲天の世界に生まれやすいということを表わしているわけだ。
 また、これだけ細かく分析できる方だから、やはり王になってもすごかっただろうし、王だけではなく何をなさっても素晴らしかったのではなかろうか。

◎真のカルマからの脱却

2005-09-03 | ☆【経典や聖者の言葉】

三二 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『我と世界とは無因にして起こるものである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くのである。
三三 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、無因論として、二種の根拠により、我と世界とを無因にして起こると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くものは、すべてこの二種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三四 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

三五 「これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、過去を考え、過去に対する見解を持つものとして、以上の十八種の根拠により、過去に関して様々な浮説を主張するものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、過去に対する見解を持つものとして、過去に関して様々な浮説を主張するものは、すべてこれら十八種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三六 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のように知るのである…(中略)…語ることができるのである。」

三七 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、未来を考え、未来に対する見解を持つ者がいる。彼らは、未来に関しては、四十四種の根拠により、様々な浮説を主張するのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、未来を考え、未来に対する見解を持つものとして、未来に関しては、四十四種の根拠により、様々な浮説を主張するのであろうか。
三八 比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、死後に関する有想論を抱く者がいる。彼らは、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くのである。それでは、彼ら沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、死後に関する有想論として、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くのであろうか。
 彼らは、我に関して、次のように説くのである。
『我は病むということがなく、死後は有想であって、有色である。』
『我は病むということがなく、死後は有想であって、無色である。』
『…有色であり、かつまた無色である。』
『…有色でもなく、かつまた無色でもない。』
『我は…有辺である。』
『…無辺である。』
『…有辺であり、かつまた無辺である。』
『…有辺でもなく、かつまた無辺でもない。』
『我は…一想を有するものである。』
『…異想を有するものである。』
『…少想を有するものである。』
『…無量想を有するものである。』
『我は…一向楽を有するものである。』
『…一向苦を有するものである。』
『…楽苦を有するものである。』
『…不苦不楽であるものである。』
三九 これがすなわち、比丘達よ、沙門や婆羅門が、死後に関する有想論として、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、死後に関する有想論として、死後に我が有想であると説くものは、すべてこの十六種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
四〇 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

【解説】
◎真のカルマからの脱却
 要するに、仏陀の言いたいことというのは、いろいろな沙門や婆羅門の経験というのは、自分達のカルマを脱却しているものではないということである。よって、そのカルマを脱却して、本当の絶対的な状態になるためには、やっぱり、今のオウムの言葉を使うならば、遠離、離貪、そして解脱、この経典の言葉を使うならば、寂滅を知り尽くし、受の集と滅と味著と過患と出離を本当に知り、解脱する必要がある。これこそが素晴らしいことであり、これを得ることによってのみ、趣から解放されるのだ。

◎無想有情の天界――不安定な小乗のニルヴァーナ

2005-09-01 | ☆【経典や聖者の言葉】

一八 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して無辺であるという想を抱いてとどまっているような、心三昧を得る者がいる。そして、彼は次のように言うのである。
『この世界は全く限界がなく無辺である。沙門や婆羅門の中で、この世界はその周囲において有辺であるというように説く者がいるが、それは彼らの妄語にすぎない。この世界は全く限界がなく無辺なのである。それはどうしてかというと、私は熱心…(中略)…正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して無辺であるという想を抱いてとどまっているような心三昧を得た。そして、これによって、私はどのようにしてこの世界が全く限界がなく無辺であるのかを知ったからである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのである。
一九 さらに第三に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心…(中略)…正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して、その上下においては有辺であるという想を抱き、その横においては無辺であるという想を抱いてとどまっているような、心三昧を得る者がいる。そして、彼は次のように言うのである。
『この世界は有辺であって、かつまた無辺である。沙門や婆羅門の中で、この世界はその周囲において有辺であるというように説く者がいるが、それは彼らの妄語にすぎない。また、沙門や婆羅門の中で、この世界は全く限界がなく無辺であるというように説く者がいるが、それもまた彼らの妄語にすぎない。この世界は有辺であって、かつまた無辺なのである。それはどうしてかというと、私は熱心…(中略)…正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して、その上下においては有辺であるという想を抱き、その横においては無辺であるという想を抱いてとどまっているような心三昧を得た。そして、これによって、私はどのようにしてこの世界が有辺であって、かつまた無辺であるのかを知ったからである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第三の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのである。
二〇 さらに第四に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『この世界は有辺でもなく無辺でもない。沙門や婆羅門の中で、この世界はその周囲において有辺であるというように説く者がいるが、それは彼らの妄語にすぎない。また、沙門や婆羅門の中で、この世界は全く限界がなく無辺であるというように説く者がいるが、それもまた彼らの妄語にすぎない。さらに、沙門や婆羅門の中で、この世界は有辺であって、かつまた無辺であるというように説く者がいるが、それもまた彼らの妄語にすぎない。この世界は、実際は有辺であるということもなく、無辺であるということもないのである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第四の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのである。
二一 比丘達よ、これがすなわち、彼ら沙門や婆羅門が、辺無辺論として、四種の根拠により、世界が辺無辺であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くものは、すべてこの四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
二二 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの六趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

二三 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、詭弁論【きべんろん】を抱く者がいる。彼らは、それぞれのことについて質問が出されたとき、四種の根拠により、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、四種の根拠により、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのであろうか。
二四 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、これは善であるとは如実に知らず、またこれは不善であるとは如実に知らない者がいる。彼はこう思うのである。
『本当に私は、これは善であるとは如実に知らないし、またこれは不善であるとは如実に知らないのである。そして、私はこのように、これは善であるとは如実に知らないし、これは不善であるとは如実に知らないというのに、私がこれは善であると答えたり、あるいはこれは不善であると答えたりしたならば、それによって、私に欲、あるいは貪【とん】、あるいは瞋【じん】、あるいは恚【に】の気持ちがきっとわいてくるだろう。私に欲、あるいは貪、あるいは瞋、あるいは恚の気持ちがわいてきたならば、私は妄語を言うようになるだろう。私が妄語を言うようになったならば、それは私にとって礙【げ】となるだろう。私にとって礙となったならば、それは私にとって障となるだろう。』
 このように考えて、彼は妄語を言うことを恐れ、妄語を言うことを嫌がって、これは善であるとも答えないし、またこれは不善であるとも答えないで、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入り、
『このようであるとも私は考えず、そうであるとも私は考えず、その他であるとも私は考えず、そうではないとも私は考えず、そうではないということはないとも私は考えない』と言うのである。
 これがすなわち、比丘達よ、第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのである。
二五 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、これは善であるとは如実に知らず、またこれは不善であるとは如実に知らない者がいる。彼はこう思うのである。
『本当に私は、これは善であるとは如実に知らないし、またこれは不善であるとは如実に知らないのである。そして、私はこのように、これは善であるとは如実に知らないし、これは不善であるとは如実に知らないというのに、私がこれは善であると答えたり、あるいはこれは不善であると答えたりしたならば、それによって、私に欲、あるいは貪、あるいは瞋、あるいは恚の気持ちがきっとわいてくるだろう。私に欲、あるいは貪、あるいは瞋、あるいは恚の気持ちがわいてきたならば、私に取著【しゅじゃく】が起こるだろう。私に取著が起こったならば、それは私にとって礙となるだろう。私にとって礙となったならば、それは私にとって障となるだろう。』
 このように考えて、彼は取著を恐れ、取著を嫌がって、これは善であるとも答えないし、またこれは不善であるとも答えないで、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入り、『このようであるとも私は考えず、そうであるとも私は考えず、その他であるとも私は考えず、そうではないとも私は考えず、そうではないということはないとも私は考えない』と言うのである。
 これがすなわち、比丘達よ、第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのである。
二六 さらに第三に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、これは善であるとは如実に知らず、またこれは不善であるとは如実に知らない者がいる。彼はこう思うのである。
『本当に私は、これは善であるとは如実に知らないし、またこれは不善であるとは如実に知らないのである。そして、私はこのように、これは善であるとは如実に知らないし、これは不善であるとは如実に知らないというのに、私がこれは善であると答えたり、あるいはこれは不善であると答えたりしたならば、沙門や婆羅門の中で、博学精智であり、議論に長じ、毛端をも射抜く弓を射る者のように精鋭である者が、他人の意見を自らの智慧【ちえ】で論破しながらやってきて、その善不善のことに関して、私の意見を難詰し、私の意見の根拠を反問し、私の意見の誤謬【ごびゅう】を非難するだろう。このように、これについて難詰し反問し非難する彼らに、私は解答することができないだろう。そして、私が解答することができなかったならば、それは私にとって礙となるだろう。私にとって礙となったならば、それは私にとって障となるだろう。』
 このように考えて、彼は難詰を恐れ、難詰を嫌がって、これは善であるとも答えないし、またこれは不善であるとも答えないで、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入り、『このようであるとも私は考えず、そうであるとも私は考えず、その他であるとも私は考えず、そうではないとも私は考えず、そうではないということはないとも私は考えない』と言うのである。
 これがすなわち、比丘達よ、第三の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのである。
二七 さらに第四に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、闇昧【あんまい】で愚痴【ぐち】である者がいる。彼は闇昧で愚痴であるために、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るのである。
『あなたがもし「来世は存在するのだろうか」と私に問いかけて、もし私が「来世は存在する」と考えたならば、私はあなたに「来世は存在する」と答えるだろうが、このようであるとも私は考えず、そうであるとも私は考えず、その他であるとも私は考えず、そうではないとも私は考えず、そうではないということはないとも私は考えないのである。あなたがもし「来世は存在しないのだろうか」…(中略)…「来世は存在し、かつまた存在しないのだろうか」、「来世は存在することはなく、かつまた存在しないことはないのだろうか」。「化生の有情は存在するのだろうか」、「化生の有情は存在しないのだろうか」、「化生の有情は存在し、かつまた存在しないのだろうか」、「化生の有情は存在することはなく、かつまた存在しないことはないのだろうか」。「善悪業の異熟果【いじゅくか】は存在するのだろうか」、「善悪業の異熟果は存在しないのだろうか」、「善悪業の異熟果は存在し、かつまた存在しないのだろうか」、「善悪業の異熟果は存在することはなく、かつまた存在しないことはないのだろうか」。「真人【しんじん】はその死後に存在するのだろうか」、「真人はその死後に存在しないのだろうか」、「真人はその死後に存在し、かつまた存在しないのだろうか」、「真人はその死後に存在することはなく、かつまた存在しないことはないのだろうか」と私に問いかけて、もし私が「真人はその死後に存在することはなく、かつまた存在しないことはない」と考えたならば、私はあなたに「真人はその死後に存在することはなく、かつまた存在しないことはない」と答えるだろうが、このようであるとも私は考えず、そうであるとも私は考えず、その他であるとも私は考えず、そうではないとも私は考えず、そうではないということはないとも私は考えないのである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第四の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論をなすのである。
二八 これがすなわち、比丘達よ、沙門や婆羅門が、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、四種の根拠により、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、詭弁論として、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るものは、すべてこの四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
二九 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの六趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

三〇 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、無因論を抱く者がいる。彼らは、二種の根拠により、我と世界とを無因にして起こると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くのだろうか。
三一 比丘達よ、無想有情といわれている天界がある。彼ら諸天は、想念が生じれば、その天界から死没するのである。そして、その中のある有情が、その天界から死没して、地上のこの生に生まれ変わり、この生に生まれた彼が、家を捨てて出家するということがある。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、想念が生じたことを思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。そして、彼は次のように言うのである。
『我と世界とは無因にして起こるものである。それはどうしてであろうか。私は以前には存在していなかった。だが、存在していなかったけれども、今では私は転変して有情となったからである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、無因論として、我と世界とを無因にして起こると説くのである。

【解説】
◎無想有情の天界――不安定な小乗のニルヴァーナ
 私はよく、小乗の涅槃【ねはん】、つまりニルヴァーナへ入るだけでは不十分なんだよと説法で言っている。なぜなら、ニルヴァーナへは、すべてを否定し、すべてから離れることによって解脱して入ることができるので、ひとたび何らかの煩悩【ぼんのう】を呼び起こすような接触があると、また元に戻ってしまう可能性があるのだ。
 つまり、小乗のニルヴァーナでは、大乗の修行によって至るマハー・ニルヴァーナと違って絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態が、条件によって左右されるという不安定な要素を持っているということである。
 それが、この経の「私は以前には存在していなかった。だが、存在していなかったけれども、今では私は転変して有情となった」という一文によく表われていると言ってよいだろう。すなわち、無想有情といわれる天界は、小乗のニルヴァーナを指しており、何かしらの干渉によって想念が生ずると、その世界に、もはやいることができず死没して、再びこの苦しみの世に生まれ変わると言っているのである。
 仏陀釈迦牟尼が、修行者の至る最終地点として置いたものは、もちろんこの小乗のニルヴァーナではなく、大乗のマハー・ニルヴァーナである。大乗のマハー・ニルヴァーナは、そこに入ることのできるステージに至るまでに、すべてを経験し、かつ、それらを完全に乗り越えているので、どんな干渉にも左右されない、完全なる安定の世界となっているのである。