智徳の轍 wisdom and mercy

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◎不消の煩悩破壊

2005-12-31 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 ゴータマの救済計画より前、「このようであった、このようになるだろう」と、これらの人々が以前に明らかにしたこと、それはすべて某々しかじかであり、それはすべて間違った見解の増大でした。神賢よ、わたしはそこで楽しみを見いだしませんでした。そして、あなたはわたしに渇愛の根絶の法則を言明なさいました。それを知り、記憶修習し、実行しながら、世界における固執を渡ります。

【回答】
 ヘーマカよ、ここに実感された聴聞された考えられた識別された、種々の喜びにおいて、衝動愛著の切除である、不消の煩悩破壊の手段がある。これを認識し、記憶修習し、この世界で完全覚醒し、そして、いつも寂静に臨んだ人たち、彼らは世界における固執を渡ったのである。

【解説】
 この八番目のヘーマカについては、サキャ神賢の前生における弟子であったことをうかがわせる。なぜならば、彼はいかなる他の法則に対しても喜びを見いださず、そして、サキャ神賢を礼拝に行ったそのとき、彼の内側に完全なる煩悩破壊に対する確信がわいたからである。
 ここで一つ、“不消”ということについて説明をしたいと思う。煩悩破壊については、当然煩悩の減少・煩悩の増大が存在する以上、煩悩破壊と同時に煩悩の生起も存在する。つまり、決して煩悩が増大しない方法、これを“不消”と言っているのである。

◎解脱の要点

2005-12-31 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 これらの出家修行者である祭司たちで、実感したことに関して、同一に教学によって清潔を断言し、同一に戒誓で清潔を断言し、多くの形状-容姿をもって、清潔を断言するどんな人でも、もし神賢が彼らは氾濫を渡っていないと明言するのならば、それならそれで、愛欲神や人々の世界において、だれが出生と老いとを渡ったのでしょうか。

【回答】
 わたしは、「すべての出家修行者である祭司たちが、出生と老いに包囲されている」と明言するのではない。自分が所有する、ここに実感したこと、あるいは教学、あるいは考えたこと、あるいは戒誓もすべて捨断し、多くの形状-容姿もすべて捨断し、渇愛を理解し、無漏である人たち、偽りなく彼らが「氾濫を渡ったひとかどの人たち」である。

【解説】
 これについては、大変重要な仏教の教えにおける示唆を感じることができる。その要点は、体験、教学、そして戒誓の三つだけでは解脱していないことを表わしているのである。では、何をそれに具足すれば、老・死を渡り、解脱したことになるのであろうか。
 ここでの「捨断」はとらわれないととらえるべきである。よって、第一に体験に対してとらわれない。第二に、教学したことに対してとらわれない。第三に、自分自身の考えについてとらわれない。第四に、戒誓についてとらわれない。そして第五に、いろいろな形状-容姿に対して、同じようにとらわれないということである。
 そして、これを前提とし、渇愛とはどのようなものであるか、その本質と生起と滅尽と滅尽の方法を理解し、それによって全くエネルギーの漏れのなくなった人、――この人こそを「氾濫を渡ったひとかどの人たち」、つまり解脱者であるといっているのである。

◎神賢の条件

2005-12-30 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 世界において、神賢たちがいらっしゃると、人々は断言しますが、ではまさにそれはどのようにでしょうか。精通が起因した人を、実は神賢と断言するのでしょうか。それとも偽りなく、生活によって生じた人でしょうか。

【回答】
 実感したことによってではなく、教学によってではなく、精通によってではなく、ここに善の人たちが、神賢とは疑惑と敵意を解き、錯乱がなく、思い焦がれがなく実行すると断言する彼らを、わたしは神賢たちと明言する。

◎最終解脱の状態

2005-12-30 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 その消失して行った人か、それともあるいは、彼はあることがないのでしょうか。それとも偽りなく、不滅で異常がないのでしょうか。

【回答】
 消失して行った人に、大きさがあることはない。それによって彼を断言するものが、彼にあることはない。すべての法則が根こそぎにされたとき、すべての言い方の道も根こそぎにされるのだ。

【解説】
 これは、最終解脱をし、そして煩悩のすべてが止滅した段階において、その人の意識は宇宙、あるいは宇宙を超えたものといったような規定すべてから解放されるということを表わしている。したがって、いかなる方法によっても最終地点に到達したものの状態を言い表わすことはできないと、サキャ神賢は言っていらっしゃるのである。
 しかし、これを言葉という観念によって表現するならば、五つのとらわれの集積と三界から完全に解放された状態、これこそが最終の解脱であるということになる。そして、それは真我独存に他ならず、また、この真我が三界に存在していないことを意味しているのである。
 「すべての法則が根こそぎにされたとき」というのは、いっさいの法則が三界と五つのとらわれの集積に関係しているわけだから、そのものが完全に影響を与えないということ、完全に一元の世界に入ってしまうということを意味している。

◎離解脱後の状態

2005-12-30 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 彼がそこで悪にけがされずに、たくさんの雨期の間、同様にとどまるならば、そこでまさに、離解脱した彼は心が醒めるのでしょうか。そのような識別は存在するのでしょうか。

【回答】
 風の素早い動作で投げ飛ばされたプラズマが、消失し行ってしまい、数えられなくなるように、このように、神賢は心の要素と身体から離解脱して、消失し行ってしまい、数えられなくなる。

【解説】
 比喩による説明であるからわかりづらいが、ここでの内容は、まず、離解脱が生じ、その後に、一つ一つの、それまでの愛著の要因そのものが、ちょうど風で投げ飛ばされるプラズマのように崩壊していくプロセスを、サキャ神賢は説いていらっしゃるのである。
 結局、離解脱、イコール最終地点ではなく、離解脱した後に心が鎮まり、煩悩が落ちていくプロセス、これによって最終地点、完全なるマハー・ボーディ・ニルヴァーナが到来すると、サキャ神賢は説いていらっしゃるのである。

迷いの生存

2005-12-27 | ☆【経典や聖者の言葉】

 非神秘力とは、根本の真理を知らないことである。

 経験の構成とは、そのような非神秘力があることに基づいて、常に善、悪、不善不悪の行為をなし、その果報を受けていくことである。
 
 識別とは、そのような経験の構成に条件付けられて生じてくる最初の心である。

 心の要素-形状-容姿とは、そのような識別と同時に生成する迷いの存在であり、それはエゴへの執着を伴っている。

 そのような心の要素-形状-容姿において、六つの感覚要素と対象が成長してくる。

 接触とは、そのような六つの感覚要素が対象に接触して、知覚する識別が働くことである。

 そのような接触と同時に、感覚が生じる。

 渇愛とは、そのような感覚に基づいて好悪を判定する働きである。

 そのような渇愛によって、とらわれが増大する。

 生存とは、過去のさまざまなカルマの残した迷いの潜勢力であり、そのような迷いの生存への執着によって、次の果報として迷いの生存をもたらすべく、現前してくるのである。

 出生とは、そのような過去のカルマに従って、果報として、迷いの生存が発現することである。

 老いとは、迷いの生存が成熟することである。

 死とは、老いた後に、迷いの生存が崩壊することである。

 悶絶とは、死してこの世を去ろうとするときに、無意識になりながら、生きようとあがくことである。

 悲嘆とは、悶絶しながら、うめき声をあげることである。

 苦悩とは、五種の知覚能力の断末である。

 憂悩とは、自意識ともろもろの観念の断末である。

 疲労困憊とは、どんどん苦悩と憂悩が極大になっていくことである。

 このようにして、彼ら衆生の苦悩に始まり苦悩に終わる苦悩ばかりの集積、苦悩の大樹が出現するのである。

 そのように行動する個我的主体があるわけでもなく、そのような苦悩を受ける個我的主体があるわけでもないにもかかわらず。



◎認知離解脱

2005-12-15 | ☆【経典や聖者の言葉】

【質問】
 すべての感覚の喜びの対象において愛著を離れ、無所有の状態を目印として、他のものを捨て、最も優れた認知離解脱において離解脱した者は、そこで悪にけがされずにとどまることができるでしょうか。

【回答】
 すべての感覚の喜びの対象において愛著を離れ、無所有の状態を目印として、他のものを捨て、最も優れた認知離解脱において離解脱した者は、そこで悪にけがされずにとどまることができる。

【解説】
 認知離解脱というのは、認知して離解脱に至るということである。

◎輪廻の大海を渡る方法

2005-12-13 | ☆【経典や聖者の言葉】

【質問】
 わたし一人では、大きな氾濫を渡ることに目印がなく、全く立ち向かうことができません。それを目印として、この氾濫を渡れるような対象の固定を明言してください。

【回答】
 無所有の状態を凝視しながら、記憶修習を持って、「あることはない」、このようなことによって、あなたは氾濫を渡りなさい。種々の感覚の喜びの対象を捨断し、講演にしたがってやめ、渇愛を破壊し、夜も昼も努めていなさい。

【解説】
 これは、輪廻の大海を渡る方法についての質問である。何をそれぞれのポイントとして目的地、つまりかの岸へ到達すればいいかという質問に対して、サキャ神賢は次のポイントを挙げていらっしゃる。
 まず第一は、無所有であることを思念しなさいと。
 次は、種々の感覚の喜びを捨断するように記憶修習しなさいと。つまり、種々の感覚の喜びの対象は、本来は存在しないんだということを記憶修習しなさいと言っていらっしゃるのである。
 そして第三の「講演にしたがってやめ」というのは、法則、講話を何度も聞き、それにしたがって五感を捨断しなさいと、感覚の喜びを捨断しなさいと言っていらっしゃるのである。
 したがって、無所有、それから感覚の喜びの対象の捨断ということがポイントになる。そして、決して渇愛を有してはならないということである。つまり、ポイントは外側から内側に向かっているのである。

◎遠離の法則

2005-12-12 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 わたしが識別すべき、遠離の法則を諭してください。

【回答】
 上に、下に、横に、そして真ん中でも、あなたが正智することは何でも、これを世界において、「愛着をもって離れないものだ」と知り、生存非生存に対して渇愛をなしてはならない。

【解説】
 すべての現象、つまり言葉を換えるならば、グナの干渉から離れるためには、どのようにしたらいいかという質問である。
 それに対して、サキャ神賢はあらゆる現象の把握ですら、それに対して愛着してはならない、つまり、正しい智慧によって観察し、その対象を智慧によってとらえたとしても、それに愛着してはならないということを言っていらっしゃるのである。そして、それにより、形状界・非形状界のいっさいのものにとらわれないこと、これこそが遠離の道であり、そして解脱の道であると説いていらっしゃるのである。

祈願

2005-12-10 | ☆【経典や聖者の言葉】
生、老、死などの怪物に満ちた
恐ろしい輪廻の大海から解放してくれる唯一のもの
私のグル、大いなる喜び、汝よ

大いなる悟りを確固とした形で
偉大なるタントラの主神よ、私に授けたまえ
私に、神聖になされた約束の戒を授けたまえ
私に、菩提心を授けたまえ

私に、覚者と法則とサンガという三宝を授けたまえ
イダムよ、
偉大なる解脱の至高の町に
私を入らしめたまえ



◎疑念や質問の無意味さ

2005-12-08 | ☆【経典や聖者の言葉】
【質問】
 種々のどのようにと問うことから、わたしを救済してください。

【回答】
 世間において、どのようにと問う者のだれをも、わたしは救済に臨ませることはないだろう。そして、最上の法則を認識することによって、そのように、あなたはこの氾濫を渡ることができるだろう。

【解説】
 修行の実践に対する疑念・質問、これは無意味である。真理の実践は、その実践段階の完全なるすべての理解、そして修行というプロセスをとるわけではない。なぜならば法則において高度な法則になると、無智に覆われている魂は、その法則の概要を理解することができないからである。
 したがって、まず自分の今の智慧のレベルにおいて、対象であるグル、あるいは真理勝者をしっかりととらえ、そして、その法則のある部分が納得できた段階で、そのすべてを理解しようとせず法則の実践を行なう、――これこそが救済される側の立場であるということをサキャ神賢は説いていらっしゃるのである。つまり、疑念を持った者は救済されないということなのである。
 もちろん、すべてを理解でき、実践できるならば、もっと素晴らしいことであるのは言うまでもない。

◎喜悦・居所・識別からの解放

2005-12-08 | ☆【経典や聖者の言葉】
【質問】
 そのときどのように、揺るぎない者たちは、氾濫、出生と老い、そして、不運な出来事と悲嘆を切り抜けられるのでしょうか。

【回答】
 上に、下に、横に、そして真ん中でも、あなたが正智することは何でも、これらにおいて喜悦と居所と識別を払いのけ、生存においてとどまらないようにしなさい。このように時を過ごし、記憶修習し、怠惰でなく実行している向煩悩滅尽多学男は、種々の愛着で結びついているものと、出生と老いと不運な出来事と悲嘆を捨て、まさにこの世で知り得た者は、苦しみを捨断するだろう。

【解説】
 この質問に対して、サキャ神賢は喜悦・居所・識別という三つのポイントを挙げて、それにとらわれないことこそが、それらから解放される道だと説いていらっしゃるのである。ではなぜか。
 まず、喜悦は対象に対する愛取を招く結果となる。
 次に、居所であるが、これは“場所”と言い換えることができる。この場所も同じように、その場所の記憶修習をしすぎると、必ずその場所へ流転する可能性を招く結果となる。
 そして、識別は一つのものからの離愛著とともに、他方への帰着を意味するのである。
 したがって、喜悦、居所、そして識別からの解放、これがすべての要素からの解放の源であることは言うまでもない。

◎苦しみが生じる因

2005-12-08 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 世界において、多くのいろいろな形態のこれらの苦しみは、何でもかんでも、どこから起こったのでしょうか。

【回答】
 世界において、多くのいろいろな形態のこれらの苦しみは、何でもかんでも、愛取を発端とした結果として生じる。偽りなく、知り得ていず、愛取をなす者は怠け、何度も苦しみに堕ちる。全くこの理由ゆえに、わかっている者は愛取をなさず、苦しみへの生の根源を観察するのである。

【解説】
 これは、苦しみが何を因として生じるのかという質問である。それに対して、真理勝者サキャ神賢は、「すべては愛取、つまり、愛のとらわれ、対象の認識の欠落、偏見によって苦しみが生起するのだ」と説いていらっしゃる。したがって、偏見を完全に取り払うならば、つまり、すべての現象をリアリティー、ありのままに見つめるとするならば、その苦しみから解放されるということを説いていらっしゃるのである。

◎出生と老いを渡る

2005-12-06 | ☆【経典や聖者の言葉】

【質問】
 たとえ彼らが種々の犠牲祭によって、施しを求められたら喜んで応じても、出生と老いとを渡れなかったとすると、それならそれで、愛欲神や人々の世界において、だれが出生と老いとを渡るのですか。

【回答】
 世界において、あらゆる種類のものを推定し、世界のどこにおいても、心が乱れたことがあることはなく、安穏で、熱情がなく、錯乱がなく、思い焦がれのない者は、出生と老いを渡った。

【解説】
 ここで問題なのは、いかに出生と老いを渡る、つまり、生死を超越する真理の教えが到来することが珍しいかを、真理勝者サキャ神賢が説いていらっしゃることである。
 というのは、ここで登場する外道のバーヴァリの弟子たちは、大変有名な弟子たちであり、そして、多くの弟子たちを有している。しかし、彼らですら本質的に解脱の道、あるいは悟りの道を理解することはできない。彼らは、犠牲祭によってそこへ到達できると考えている。しかし、もともと法則が正しくないのだから、当然到達できないのである。
 先程アジタ青年男子に説かれたように、(「三つの要素の打破と進展」参照)、いっさいの煩悩を捨断し、そして善の記憶修習をなし、サマディを修習する者こそ解脱へと至れるのだということが、この質問において明白になったはずである。

◎愛欲本質神に対する犠牲祭

2005-12-03 | ☆【経典や聖者の言葉】


【質問】
 この世界において、これらのどんな尊い人たち、適任の人たち、武人たち、祭司たちも、愛欲本質神たちに対して、独断の方法で犠牲祭をしたのですが、犠牲祭のやり方において、怠惰でない彼らは、出生と老いとを渡ったのでしょうか。

【回答】
 彼らは望み、称揚し、骨を折って、生けにえとして捧げ、利得を条件として、愛欲に骨を折る。彼ら施しを求められたら喜んで応じる者たちは、生存愛著に染められた者たちであり、出生と老いを渡っていない。

【解説】
 まず、この質問のポイントは、愛欲本質神そのものが流転から解放されている魂ではないということである。そして、流転から解放されていない魂に対して、自己のこの現世における最高の状態と、そして、老・死からの解放を願った場合、それはあくまでも欲望というものを背景にしているから、そこからは決して脱却できないのだとサキャ神賢は説いていらっしゃるのである。