智徳の轍 wisdom and mercy

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◎辺無辺論――空無辺処定の瞑想体験

2005-08-31 | ☆【経典や聖者の言葉】

一四 比丘達よ、これがすなわち、彼ら沙門や婆羅門が、一分常住一分無常論として、四種の根拠により、我と世界とを一分は常住一分は無常であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くものは、すべてこの四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
一五 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの六趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

一六 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、辺無辺論を抱く者がいる。彼らは、四種の根拠により、世界が辺無辺であると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、辺無辺論として、四種の根拠により、世界が辺無辺であると説くのであろうか。
一七 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して有辺であるという想を抱いてとどまっているような、心三昧を得る者がいる。そして、彼は次のように言うのである。
『この世界はその周囲において有辺である。それはどうしてかというと、私は熱心…(中略)…正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して有辺であるという想を抱いてとどまっているような心三昧を得た。そして、これによって、私はどのようにしてこの世界がその周囲において有辺であるのかを知ったからである。』
 これがすなわち、比丘達よ、第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのである。

【解説】
◎辺無辺論――空無辺処定の瞑想体験
 瞑想技術に熟達してゆくと、空無辺処定という状態を経験するステージがある。空無辺処定では、その空(空間)の広がりから、世界(宇宙)を有辺と感じたり、無辺と感じたりする。ここでは、沙門や婆羅門が自分の瞑想経験から、それぞれ辺無辺論を唱えているところである。
 なお、オウムの大師【たいし】方の多くも、この空無辺処定を経験している。

◎肉体対象の推論・審察の限界

2005-08-13 | ☆【経典や聖者の言葉】

一三 さらに第四に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『この眼とも、耳とも、鼻とも、舌とも、身ともいわれている我は、すべて不常・不堅固・無常であって、転変の性質があるものなのだが、これに反して、この心とも、意とも、識ともいわれている我は、すべて恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第四の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎肉体対象の推論・審察の限界
 ここでは、沙門や婆羅門が、欲界の色(肉体)を対象に推論・審察することによって得た見解により、一分常住一分無常論を説いているという第四の立場を述べている。
 「この眼とも、耳とも、鼻とも、舌とも、身ともいわれている我は、すべて不常・不堅固・無常であって、転変の性質がある」――まあ、これはだれにでもすぐ理解できることである。
 それに比べて、意識や心は肉体に比べると、一見永続しているかのように感じられるので、「恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっている」と思ってしまう。そこから、この一分常住一分無常論が出てくるのである。
 一方仏陀の方は、単にこれらを知るのみではなく、さらに、これよりも優れたことをも知っている。しかも、その知に執着しない……と、解脱というステージの高さ、素晴らしさをこの経典は称【たた】えている。

◎意憤天――仏陀釈迦牟尼のとらえ方

2005-08-13 | ☆【経典や聖者の言葉】
一〇 さらに第三に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
 比丘達よ、意憤【いふん】といわれている天界がある。彼らは大変長い間、お互いに嫉妬【しっと】し合っている。彼らは大変長い間、お互いに嫉妬し合い、お互いにその心が憤っている。このように、お互いにその心が憤っているので、身体は疲労し、心は疲労する。そして、彼ら諸天は、その天界から死没するのである。
一一 比丘達よ、しかし、その中のある有情が、その天界から死没して、地上のこの生に生まれ変わり、この生に生まれた彼が、家を捨てて出家するということがある。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、先に述べた前生の生涯を思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。
一二 そして、彼は次のように言うのである。
『本当に、意憤天ではない尊敬すべき諸天は、大変長い間、お互いに嫉妬し合うということはないのだ。このように彼らは、大変長い間、お互いに嫉妬し合うということがなく、お互いにその心が憤るということがない。そして、彼らはお互いにその心が憤るということがないので、身体は疲労しないし、心も疲労しない。したがって、彼らはその天界から死没するということがなく、恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。しかし、我々意憤天は、大変長い間お互いに嫉妬し合っているのであって、このように大変長い間、お互いに嫉妬し合っている我々は、お互いにその心が憤っている。そして、お互いにその心が憤っているので、身体は疲労し、心は疲労する。このようにして、我々はその天界から死没し、無常であって、堅固ではなく、寿命も短く、死去すべき性質のものとして、この生に生まれ変わったのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第三の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎意憤天――仏陀釈迦牟尼のとらえ方
 意憤天というのは、オウムでいう阿修羅【あしゅら】界のことである。
 ここで注目しなければならないのは、阿修羅界を人間界よりも下の世界だとする日本の密教とは異なり、仏陀釈迦牟尼が、オウムの教義と同じく、阿修羅界を人間界よりも上の世界だとしていることだ。それは、阿修羅界を意憤天と呼び、天界の一つとしてとらえていることから明らかになる。

◎戯忘天、そして無智からの脱却

2005-08-09 | ☆【経典や聖者の言葉】

七 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
 比丘達よ、戯忘といわれている天界がある。彼らは大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいる。彼らは大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるために、その憶念は消失する。このように、憶念が消失した彼ら諸天は、その天界から死没するのである。
八 比丘達よ、しかし、その中のある有情が、その天界から死没して、地上のこの生に生まれ変わり、この生に生まれた彼が、家を捨てて出家するということがある。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、先に述べた前生の生涯を思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。
九 そして、彼は次のように言うのである。
『本当に、戯忘天ではない尊敬すべき諸天は、大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるということはないのだ。このように、大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるということがない彼らには、憶念が消失するということがなく、憶念が消失しない彼ら諸天は、死没するということがなく、恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。これに反して、我々戯忘天は、大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるのであって、このように大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいる我々は、憶念が消失するのだ。そして、憶念が消失した我々は、その天界から死没し、無常であって、堅固ではなく、寿命も短く、死去すべき性質のものとして、この生に生まれ変わったのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎戯忘天、そして無智からの脱却
 この経は少しわかりにくいだろうから、説明しておく。
 ここでいう戯忘天とは、戯忘と呼ばれる天界に住む天人のことである。そして戯忘と呼ばれる天界には、一般にいわれる戯忘天人のように長い間遊び戯れ、喜楽にふける者もあるが、そうでない天人もいるのである。
 これは、他の経典に、仏陀釈迦牟尼が降りてきて、遊び戯れている天人に向かって、無智からの脱却を説いたという話が残っていることからも明らかである。つまり、遊び戯れ、落ちてしまった天人と、遊び戯れることのない智者の天人のことをうたった経である。

◎魂の落下のプロセスを解き明かす

2005-08-07 | ☆【経典や聖者の言葉】

◇第二誦品

【解説】
◎魂の落下のプロセスを解き明かす
 ここには大変興味深いことが書かれている。それは、魂が、光音天から梵天(梵宮)、戯忘天【ぎぼうてん】と落ちていくプロセスである。

一 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、一分【いちぶ】常住一分無常論を抱く者がいる。彼らは、四種の根拠により、我【が】と世界とを一分は常住であって一分は無常であると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、四種の根拠により、我と世界とを一分は常住であって一分は無常であると説くのであろうか。
二 比丘達よ、長い時を経た後、いつかあるとき、この世界が破壊する時期がある。そして、世界が破壊するとき、諸々の有情の多くは、既に光音天に入ることができるものとなっている。そこにおいて、彼らは心によって作られた身体を持ち、喜を食し、自ら輝き、空中を飛行し、純浄な状態にとどまりながら、長い間そこに住むのである。
三 比丘達よ、長い時を経た後、いつかあるとき、この世界が創造する時期がある。そして、世界が創造するとき、空虚な梵宮が現われるのである。そのときに、ある有情が、寿命が尽きたために、もしくは善根が尽きたために、光音天から死没して、その空虚な梵宮に生まれ変わることがある。そこにおいて、彼は心によって作られた身体を持ち、喜を食し、自ら輝き、空中を飛行し、純浄な状態にとどまりながら、長い間そこに住むのである。
四 そして、彼はそこでただ独り長い間住んでいるために楽しみがなく、次のように待ち望むのである。『本当に、他の有情がこの生に来ることができますように』と。
 そのときに、ある諸々の有情が、寿命が尽きたために、もしくは善根が尽きたために、光音天から死没して、その梵宮に生まれ変わり、彼と共に住むことがある。そこにおいて、彼らも心によって作られた身体を持ち、喜を食し、自ら輝き、空中を飛行し、純浄な状態にとどまりながら、長い間そこに住むのである。
五 比丘達よ、その中で、最初に生まれた有情に、次のような念が起こった。
『私は梵天である。大梵天である。全能であって、打ち勝たれるということがなく、どんなものをも見、一切を支配し、世界の自在の主であって、一切の創造主・化生【けしょう】の主・最上の生み出す者・一切を制する主・既に生を受けたものとまだ生を受けていないものの父である。そして、ここに住んでいる有情は、すべて私が化生させたのである。それはどうしてかというと、以前私は、「本当に、他の有情がこの生に来ることができますように」という念を起こした。そして、私に願いが起こったことで、これらの有情がこの生に来たからである。』
 また、後に生まれたその有情にも、次のような念が起こった。
『この方こそ、本当に梵天である。大梵天である。全能であって、打ち勝たれるということがなく、どんなものをも見、一切を支配し、世界の自在の主であって、一切の創造主・化生の主・最上の生み出す者・一切を制する主・既に生を受けたものとまだ生を受けていないものの父である。そして我々は、この方梵天によって化生することができたのである。それはどうしてかというと、我々はこの方が最初にここに生まれていらしたのを見ているので、我々は後に生まれたということになるからである。』
六 比丘達よ、この中において、最初に生まれた有情は、寿命もいっそう長く、またいっそう光輝があり、いっそう力強いのだが、これに反して、後に生まれた諸々の有情は、寿命も比較的短く、また光輝も少なく、力も弱いのである。しかし、比丘達よ、この後者のうちのある有情が、その天から死没して、地上のこの生に生まれ変わることがある。この生に生まれた彼は、家を捨てて出家する。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、先に述べた前生の生涯を思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。そして、彼は次のように言うのである。
『本当にあの方は、梵天であり、大梵天であり、全能であって、打ち勝たれるということがなく、どんなものをも見、一切を支配し、世界の自在の主であって、一切の創造主・化生の主・最上の生み出す者・一切を制する主・既に生を受けたものとまだ生を受けていないものの父として、我々を化生していただいた、あの方梵天こそ、恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっておられる。これに反して、我々はあの梵天のお蔭で化生したものであるために、我々は無常であって、堅固ではなく、寿命も短く、死去すべき性質のものとして、この生に生まれ変わったのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎光音天と梵天――そのカルマの違い
 これは、神を全知全能の主として崇拝するキリスト教的な立場に立った見解だ。また、インドにもブラフマン崇拝があるが、これもまた絶対者に対する信仰である。そして、この考え方の背景にあるものは、完全なる有(存在)に対する執着である。
 それでは、なぜ先に光音天から落ちてきた者が、寿命も長く、光輝があり、力強いのだろうか? これは要するに、その世界に対する固定の強さと功徳の量が問題となってくる。
 固定というのは、例えばこういう例がある。人間界のカルマの強い人は人間として長生きし、天界のカルマの強い人は早死にして天界に生まれ変わる。これと同じことが光音天と梵天についても言えるわけだ。光音天と梵天の大きな違いは四無量心【しむりょうしん】の有無だが、四無量心があまりない魂が真っ先に梵宮に生まれ変わったのである。そして、そこでその魂は梵天に対して固定された。それは、その世界がカルマ的にぴったりであったからである。
 後から光音天から降りてきた魂というのは、梵天がぴったり合っていたというほどでもない。だから、その梵天の世界に対しての執着、その世界のカルマは初めに降りた魂よりも当然弱いだろう。
 それから、もう一つの光輝・力強さに関しては徳が問題となってくる。光音天は幸福な世界だから、そこに長くいればいるほど徳は使い果たす。だから後から降りてきた魂は、初めの魂より功徳が少ないので、輝き・力強さ共に劣っているのである。

◎執着を超えた仏陀の境地

2005-08-05 | ☆【経典や聖者の言葉】

三五 比丘達よ、これがすなわち、彼ら沙門や婆羅門が、常住論として、四種の根拠により、我と世界とを常住であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、常住論として、我と世界とを常住であると説くものは、すべてこの四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三六 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著【みじゃく】と過患【かかん】と出離【しゅつり】とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。

【解説】
◎執着を超えた仏陀の境地
 ここは重要なポイントだ。
 これまで、沙門や婆羅門が常住論を唱える四種の根拠が紹介されてきたわけだが、仏陀釈迦牟尼は、これに対して次のように述べている。
「このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう」と。
 つまり、彼らは自分達の知り得たこと、そして自分達の持っている見解にとらわれているというのだ。そして、その状態は趣に生まれ変わるという来世をも作り出してしまうのであると。
 それに対して、仏陀釈迦牟尼は、単にそれを知るのみでなく、それ以上に優れたことをお知りになっていて、かつとらわれていない。これは、すべてを知る“如実知見【にょじつちけん】”を得、その上で執着せず、“遠離”“離貪【りとん】”、そして“解脱【げだつ】”するという、仏陀の状態を表わしているのである。

◎仏陀釈迦牟尼のジュニアーナ・ヨーガの位置付け

2005-08-04 | ☆【経典や聖者の言葉】

三四 さらに第四に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、常住論として、我と世界とを常住であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『我と世界とは常住であり、生産することはなく、山頂のように常住であり、石柱が立つように不動である。そして、諸々の有情は流転し輪廻し死去し出生するが、なおかつ我と世界とは常住に存在しているのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第四の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、常住論として、我と世界とを常住であると説くのである。

【解説】
◎仏陀釈迦牟尼のジュニアーナ・ヨーガの位置付け
 ここでは、推論・審察によっての結論が語られている。これまでの常住であるという結論は、三昧によった。つまり三昧に入って宿命通を使い知ったのだった。したがって、これはクンダリニー・ヨーガの世界であると言える。
 一方、こちらの推論・審察の方は、ジュニアーナ・ヨーガに属する。この経典に出ている順序からいうと、クンダリニー・ヨーガの三昧の上にジュニアーナ・ヨーガの思索を置いているわけで、これはオウム真理教で説かれている各ステージの位置付け(マハーヤーナ・ステージ)と見事に一致している。

◎世界によって異なる四劫の期間

2005-08-04 | ☆【経典や聖者の言葉】

三二 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、常住論として、我と世界とを常住であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、例えば、一カルパ・二カルパ・三カルパ・四カルパ・五カルパ・十カルパといった、様々な過去における生涯を思い出すような、心三昧を得る者がいる。そして、『あの生において、私はこれこれの名前を持ち、…(中略)…なおかつ我と世界とは常住に存在しているのかを知ったからである』と。
 比丘達よ、これがすなわち第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、常住論として、我と世界とを常住であると説くのである。
三三 さらに第三に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、常住論として、我と世界とを常住であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、例えば、十カルパ・二十カルパ・三十カルパ・四十カルパといった、様々な過去における生涯を思い出すような、心三昧を得る者がいる。そして、『あの生において、私はこれこれの名前を持ち、…(中略)…なおかつ我と世界とは常住に存在しているのかを知ったからである』と。
 比丘達よ、これがすなわち第三の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、常住論として、我と世界とを常住であると説くのである。

【解説】
◎世界によって異なる四劫の期間
 三二・三三と、やはり成劫の前生を知る三昧のことが書かれている。ただし、ここではカルパという言葉が使われているので、その意味とその世界とを説明しておかなくてはならない。
 一カルパというのは、欲界の成劫から空劫までの一サイクルをいう言葉である。この期間を人間の世界の尺度に置き換えると、二千四百万年であり、これはブラフマンの世界の一昼夜でもある。
 そのことから、ここで一カルパ、二カルパ、三カルパ……と言っているのは、ブラフマンの世界のことであろうと考えられる。ブラフマンの世界では、人間界が創造され、維持され、破壊されて空虚な期間を迎えるほどの気の遠くなるような長い間でも、常住のように見えるのである。それは、高い世界へ行けば行くほど破壊の期間が長くなるからで、三昧によってカルパ単位という長い期間の生涯を思い出したとしても、それはその世界の四劫の中の一部、住劫しか知り得なかったなら、その世界は常住であると思ってしまうだろう。ゆえにここでも、「我と世界とは常住に存在している」と思い込んでしまったということである。
 さらに、十カルパ、二十カルパ、三十カルパ、四十カルパ……という、いっそう長い時間の存在する世界の生涯のことが出てくる。これは、アストラル世界の一番上にある光音天【こうおんてん】での生涯を思い出しているのである。光音天は有(存在)の世界であるが、ここでも上に行けば行くほど、ブラフマンの世界に比べてもはるかに破壊へと至るまでの期間が長い。ゆえに常住のように見えるのである。

◎常住論――その三昧と四劫の構図

2005-08-03 | ☆【経典や聖者の言葉】

二八 「比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思【じんし】の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる、他の諸法がある。これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。
 それでは、比丘達よ、どのような法が、仏陀自らが証知し…(中略)…賢者だけが理解することができるという諸法なのであろうか。
二九 比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、過去を考え、過去に対する見解を持つ者がいる。彼らは、過去に関しては、十八種の根拠により、様々な浮説を主張するのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、過去を考え、過去に対する見解を持つものとして、過去に関しては、十八種の根拠により、様々な浮説を主張するのであろうか。
三〇 比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、常住論を抱く者がいる。彼らは、四種の根拠により、我【が】と世界とを常住であると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により、何に基づいて、常住論として、四種の根拠により、我と世界とを常住であると説くのであろうか。
三一 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、例えば、一生・二生・三生・四生・五生・十生・二十生・三十生・四十生・五十生・百生・千生・百千生・多百生・多千生・多百千生といった、様々な過去における生涯を思い出すような、心三昧を得る者がいる。そして、『あの生において、私はこれこれの名前を持ち、これこれの名字を持ち、これこれの階級に属し、これこれの食物を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの寿命を持った。その私はあそこより死没して、別の生に生まれ変わった。その生では、これこれの名前を持ち、これこれの名字を持ち、これこれの階級に属し、これこれの食物を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの寿命を持った。その私はそこより死没して、この生に生まれ変わった』と、このように、その事情と境遇とを併せ持った、過去における様々な生涯を思い出すのである。そこで、彼は次のように説くのである。
『我と世界とは常住であり、生産することはなく、山頂のように常住であり、石柱が立つように不動である。そして、諸々の有情【うじょう】は流転【るてん】し輪廻【りんね】し死去し出生するが、なおかつ我と世界とは常住に存在しているのである。それはどうしてであろうか。私は熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、心が三昧にとどまるとき、例えば、一生…(中略)…多百千生といった、様々な過去における生涯を思い出すような心三昧を得て、「あの生において、これこれの名前を持ち…(中略)…この生に生まれ変わった」と、このように、その事情と境遇とを併せ持った、様々な過去における生涯を思い出した。そして、このことによって、私はどのようにして我と世界とが常住であり、生産することはなく、山頂のように常住であり、石柱が立つように不動であり、諸々の有情は流転し輪廻し死去し出生するが、なおかつ我と世界とは常住に存在しているのかを知ったからである。』
 比丘達よ、これがすなわち第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、常住論として、我と世界とを常住であると説くのである。

【解説】
◎常住論――その三昧と四劫の構図
 仏教では、世界(宇宙)の成立に始まる変遷の一サイクルを四つに分けている。この一サイクルを四劫【しこう】と呼び、それは、成劫【じょうこう】、住劫【じゅうこう】、壊劫【えこう】、空劫【くうこう】という四つの期間から成り立っている。
 成劫は、世界の創造期であり、住劫は世界が維持されている期間、壊劫では世界が壊滅し、空劫で世界は虚空と化する。
 ここでは、三昧に入って、「例えば、一生…(中略)…多百千生といった、様々な過去における生涯を思い出すような心三昧を得て」とされているが、この思い出した生涯がすべて世界が維持されている住劫でのものであった。つまり、彼らは住劫しか知らないわけで、そのために、この世は常住である、そして、私達はその中を生死流転しているのだという考え方が出てきているのである。彼らの三昧は、この宇宙の創造から破壊、虚空を超えたものではないということである。

大戒

2005-08-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


二一 「『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、手相占い・八卦【はっけ】・兆相の占い・夢の判断・体相の占い・鼠【ねずみ】のかんだ所の占い・火の護摩【ごま】・杓子【しゃくし】の護摩・殻の護摩・粉の護摩・米の護摩・熟酥【じゅくそ】の護摩・油の護摩・口の護摩・血の護摩・支節の明呪【みょうじゅ】・宅地の明呪・クシャトリヤの明呪・鬼神の明呪・地の明呪・蛇の明呪・毒薬の明呪・蝎【さそり】の明呪【みょうじゅ】・鼠の明呪・鳥の明呪・鴉【からす】の明呪・命数の予言・矢を防ぐ呪法・獣の声を解く法といった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活を送っている者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二二 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、珠の相・杖の相・服の相・剣の相・矢の相・弓の相・武器の相・女の相・男の相・童子の相・童女の相・下男の相・下女の相・象の相・馬の相・水牛の相・牡牛の相・牛の相・山羊の相・羊の相・鶏の相・鶉の相・蜥蜴【とかげ】の相・耳輪の相・獣の相といった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二三 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「王は進軍するだろう、王は進軍しないだろう」、「内国王は力を表わすだろう、外国王は退くだろう」、「外国王が力を表わすだろう、内国王が退くだろう」、「内国王は勝つだろう、外国王は負けるだろう」、「外国王が勝つだろう、内国王が負けるだろう」、「この者は勝つだろう、この者は負けるだろう」と占うような、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二四 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「月食があるだろう、日食があるだろう、星食があるだろう、太陽と月は正常な運行をするだろう、太陽と月は異常な運行をするだろう、諸々の星は正常な運行をするだろう、諸々の星は異常な運行をするだろう、流星が落下するだろう、天火があるだろう、地震があるだろう、雷が鳴るだろう、太陽と月と星の昇沈と明暗があるだろう、このような結果を引き起こす月食があるだろう…(中略)…このような結果を引き起こす太陽と月と星の昇沈と明暗があるだろう」と占うような、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二五 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「多量の雨があるだろう、降雨はないだろう、多量の収穫があるだろう、収穫はないだろう、平和が来るだろう、恐ろしいことが起こるだろう、疫病がはやるだろう、健康になるだろう」などと占うこと・印相・計算・数法・詩作・順世論をなすといった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二六 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、娶【めと】ること・嫁ぐこと・和睦【わぼく】・分裂・借金取り立て・貸し出し・幸運にすること・不運にすること・堕胎すること・人を唖【おし】にすること・無言にさせること・挙手させること・聾【つんぼ】にさせること・鏡に問うこと・童女に問うこと・神懸かり・太陽を拝すること・大梵天【だいぼんてん】を供養すること・口から火を吐くこと・吉祥天を迎え請ずることといった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二七 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、願をかけること・願を解くこと・地に座って呪文を唱えること・気力を旺盛【おうせい】にすること・気力を消耗させてしまうこと・住所の相を見ること・地を清めること・口をすすぐこと・沐浴【もくよく】・供犠【くぎ】・吐潟【としゃ】・下痢・上泄【じょうせつ】・下泄・頭痛治療・耳に油すること・目の治療・鼻の治療・眼薬をさすこと・眼に油すること・眼の手術・外科手術・小児治療・樹根と薬とを与えること・薬を取り去ることといった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っているのである。
 比丘達よ、これがすなわち、凡夫がこのことによって仏陀を賛嘆して語っているという、ただささいで、通俗的で、戒に関することなのである。」

【解説】
◎大戒、そして宿命の世界へ
 この三番目の大戒は、仏陀と、かなり実力を持った修行者との比較だと考えていい。
 そして凡夫は、これらの卑しい、大したことのないことを取り上げて仏陀を賛嘆していると言っているのだ。要するに、ここまでが前哨戦【ぜんしょうせん】と言える。
 仏陀釈迦牟尼は、後に出てくる宿命の世界、宇宙観を知り、しかもその宇宙観からも離れることが大切であるということが言いたかったがために、ここまでの部分を導入された。
 そして、その程度、つまり宿命通を得、宇宙観を知る程度のステージに立たないと、本当の意味で仏陀釈迦牟尼を賛嘆することはできないのだ。

中戒

2005-08-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


一一 「『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、根から生じる種子、幹から生じる種子、節から生じる種子、枝から生じる種子、第五番目として種から生じる種子といった、様々な種子と様々な樹木とを伐採することに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このような様々な種子と様々な樹木とを伐採することからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一二 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、食物の貯畜、飲料の貯畜、衣服の貯畜、乗り物の貯畜、寝床の貯畜、香料の貯畜、おいしい物の貯畜といった、貯畜物を楽しむことに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる貯畜物を楽しむことからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一三 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、演劇・歌謡・舞楽・見世物・謡【うたい】・手鈴・鳴鉢・【+銅】鑼【どら】・手品・卑しい人の軽業・象や馬や水牛や牡牛や山羊や牡羊や鶏や鶉【うずら】の闘技・棒撃・拳闘【けんとう】・角力【すもう】・演習・列兵・配兵・閲兵といった、娯楽物を見ることに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる娯楽物を見ることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一四 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、八目碁・十目碁・無盤碁・石蹴【いしけ】り・抜取り・骰【さい】投げ・棒打ち・手痕【しゅこん】占い・球投げ・葉笛・鋤【すき】遊び・逆立ち・風車遊び・升遊び・車遊び・弓遊び・文字判じ・他心判じ・傷占いといった、賭博【とばく】の放逸さにふけり、心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる賭博の放逸さにふけることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一五 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、規定の大きさを越えていたり、獣の形をした脚台を持っていたり、長い羊毛で覆われていたり、模様がある白い敷物で覆われていたり、花を縫いつづっていたり、綿を詰めていたり、絵のある覆いがあったり、両側に縁が垂れていたり、片側に縁が垂れていたり、宝石をちりばめていたり、絹物の覆いがあったり、大きな毛布があったり、象の模様がある覆い布があったり、馬の模様がある覆い布があったり、車の模様がある覆い布があったり、羚羊【かもしか】の皮で縫ってあったり、良い鹿の皮で覆われていたり、天蓋【てんがい】があったり、上下に赤い枕【まくら】があるといった、高く大きな寝台を使うことに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる高く大きな寝台を使うことからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一六 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、塗身・按摩【あんま】・沐浴【もくよく】・揉身【じゅうしん】・鏡・眼の塗料・華鬘・塗香・顔料・香油・手甲【てっこう】・髪飾り・手杖【しゅじょう】・薬の袋・剪刀【せんとう】・傘蓋【さんがい】・美しい靴・婦人の冠・宝珠・払子【ほっす】・白衣【びゃくえ】・長袖【ちょうしゅう】といった、粉飾の放逸さにふけり、心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる粉飾の放逸さにふけることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一七 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、国王の話・盗賊の話・大臣の話・軍兵の話・恐怖の話・戦争の話・食物の話・飲料の話・衣服の話・寝室の話・華鬘の話・香料の話・親戚【しんせき】の話・乗り物の話・村落の話・町村の話・都会の話・国土の話・女性の話・男性の話・英雄の話・風評の話・井戸端での噂話【うわさばなし】・死者の話・統一のない話・世界説の話・海洋説の話・こうあるこうないの話といった、無益徒労の話に心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の話をすることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一八 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「あなたはこの法と律とを知らないが、私はこの法と律とを知っている。あなたがどうしてこの法と律とを知ることができようか」、「あなたはよこしまな行ないをなすが、私は正しい行ないをなす」、「私の言葉は理に合っているが、あなたの言葉は理に合っていない」、「あなたは前に言うべきことを後に言い、後に言うべきことを前に言う」、「あなたが熟考しないことについては、すぐにひっくり返されてしまう」、「あなたは論争しても負けてしまう」、「あなたの説を脱するために巡り歩きなさい。もし、できるならば自分で解決しなさい」といった、論争に心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる論争からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一九 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「ここに行け、あそこに行け、これを取ってこい、これをあそこに運べ」と命じる、国王・大臣・クシャトリヤ・婆羅門・家主・童子のためにするような、使いや仲立ちがすることに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる使いや仲立ちがすることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二〇 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、お世辞を言い、追従【ついしょう】し、占いをし、まじないをし、利得の上にも利得を貪【むさぼ】る者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなお世辞や追従からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っているのである。」

【解説】
◎中戒――他の沙門や婆羅門との比較
 中戒では、信者の布施を受けて生活する沙門や婆羅門と仏陀釈迦牟尼(沙門ゴータマ)とを比較している。そして、いかなることからも離れている仏陀釈迦牟尼を凡夫は賛嘆しているというのである。しかし、以上挙げられていたことも、仏陀釈迦牟尼にとっては、比較の対象としてはつまらないことなのである。

小戒

2005-08-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


八 「『沙門【しゃもん】ゴータマは、殺生を捨てて殺生を離れ、杖【つえ】と刀とを用いず、慚恥心【ざんちしん】を持って慈愛に富み、一切の生きとし生けるものを益するという哀れみの心を持ち続けておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、偸盗【ちゅうとう】を捨てて偸盗を離れ、与えられたものを取り、与えられたものを願い求めながら、少しの盗心もなく、自ら清浄の心を持ち続けておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、梵行【ぼんぎょう】ではないことを捨てて梵行を修め、遠離【おんり】の行をしながら、淫欲【いんよく】や粗野のことを離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
九 『沙門ゴータマは、妄語【もうご】を捨てて妄語を離れ、真実を語り真実に従い、正直で真心を持っていて、世間を欺くことをなさらない。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、両舌を捨てて両舌を離れ、こちらで聞いて、それをあちらに行って告げ、こちらの人々との仲を悪くするようなことはなく、または、あちらで聞いて、それをこちらに来て告げて、あちらの人々との仲を悪くするようなことはなさらない。このようにして、仲たがいする者を仲直りさせる方であり、親密な者をますます親密にさせる方であり、和合を愛し、和合を好み、和合を喜び、和合をもたらす言葉をお話しになる方である。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、悪口を捨てて悪口を離れ、すべてに間違いがなく、聞いていて楽しく、愛らしく、深く感銘し、優雅で、人々に喜ばれ好まれるような言葉をお話しになる方である。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、綺語【きご】を捨てて綺語を離れ、その時に適した言葉を語り、真実を語り、義ある言葉を語り、法に合った言葉を語り、律義を伴う言葉を語り、明確で、話の区切りを付け、義にかない、心に記されるような言葉を語られる方である。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一〇 『沙門ゴータマは、様々な種子、様々な樹木を伐採することを離れ、一日一食で夜には食べず、間食を離れ、演劇・歌謡・舞楽といった娯楽物を見ることを離れ、華鬘【けまん】・香料・塗香【ずこう】で扮装【ふんそう】することを離れ、高く大きな寝台を用いることを離れ、金銀の供養を受け蓄えることを離れておられる。
 沙門ゴータマは、生の穀類を供養されることを離れ、生肉を供養されることを離れ、婦人・少女を供養されることを離れ、男女の奴隷を供養されることを離れ、雌雄の山羊【やぎ】を供養されることを離れ、鶏・豚を供養されることを離れ、象・牛・雌雄の馬を供養されることを離れ、耕田・荒地を供養されることを離れ、使い・仲立ちがするようなことを離れ、売買をすることを離れ、秤【はかり】を欺くことや升を欺くことや尺を欺くことを離れ、賄賂【わいろ】・詐欺・虚偽の邪行をなすことを離れ、傷害・殺戮【さつりく】・拘束・強奪・窃盗・強盗を離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っているのである。」

【解説】
◎釈迦教団の戒律制定の現実
 この小戒からは、凡夫が仏陀を賛嘆する、くだらない根拠の具体例を挙げているわけだが、ここでは主に仏陀と凡夫のなしていることを比較して述べている。
 また、この経からは釈迦牟尼の仏教教団が、どんな戒を定めていたのかもうかがい知ることができる。小戒は最もベースとなる戒めを表わし、中戒がその次にくる戒め、大戒は枝葉の部分の戒めに当たり、徐々にその内容も細分化されていっている。
 戒の内容を見てみると、明らかにこの経典が初期の頃を記したものであることがわかる。その理由は、戒の数が少ないからだ。戒は後になればなるほど増えているのである。
 どのようにして戒が増やされていったのかを見てみると、いろいろと面白いことがわかってくる。仏陀釈迦牟尼は仏教教団が大きくなってくるにしたがって増加の一途をたどる弟子の不始末を憂慮し、何かの問題が持ち上がる度に一つずつ新しい戒律を付け加えていったのだ。
 例えば、こういうことである。修行僧のパーラカが病気になったとき、ダーサカはパーラカが修行僧で、しかも病気だというのに乳がゆや餅【もち】(これらは美食の部類に入る)を食べたということを責め、パーラカを自殺へと追いやってしまった。そのことを聞いた仏陀釈迦牟尼は修行僧達に次のように言い、ここにまた一つの戒ができた。
「ダーサカにはパーラカを殺す意思はありませんでした。だから、彼には何の罪もありません。しかし、今後は決して病人の前で軽々しく病人を死に追いやるような言動をしてはいけません。もしも、そのようなことがあれば、今後はそれを罪とします。皆は言葉を慎んで修行に励みなさい。」(すずき出版『仏教説話大系』より)
 また、次のようなエピソードもある。それは火事のときにどう対処すべきかということを仏陀釈迦牟尼が述べているものである。
 最初に火事が起こって精舎が焼けてしまったとき、修行僧は自分の持ち物だけを持ち出した。そのため、信者が供養した精舎の品々がすべて焼けてしまった。このとき仏陀釈迦牟尼は、修行僧達に言われた。
「そのような場合、当然精舎の品々もまた持ち出すべきです。」
 ところが、その後、別の精舎で火事が起こった。このときは、仏陀釈迦牟尼のお言葉が心に残っていたため、修行僧達は精舎の品々だけを持ち出した。だが、自分達の衣鉢【いはつ】を焼かれてしまった修行僧達は、翌日からの暮らしにこと欠く有り様だった。
 おそらく、仏陀釈迦牟尼は、もっと詳しく言っておかないと、理解してもらえないとお考えになったのだろう。今度はこういう言い方をなさった。
「托鉢の道具である衣や鉢は、精舎の品々と同様に大切な物です。そのようなときは、まず自分の物を持ち出し、それから急いで精舎の物を持ち出すべきです。」
 またまたその後、別の精舎が火事となった。修行僧達はまず自分の持ち物を精舎の外へ持ち出し、再び精舎へ入っていって、精舎の品々を運び出してきた。ところが、その間に、道に置いてあった修行僧達の持ち物が盗まれてしまっていた。
 これをお聞きになった仏陀釈迦牟尼は、根気よく次のように言われた。
「そのような場合、力の弱い者が見張りをして、力の強い者が品物を運び出すべきです。」
 その後起こった別の火事では、精舎の品物を持ち出そうとして火の中へ飛び込んでいった修行僧が、焼死してしまった。その報告を受けた仏陀釈迦牟尼は、次のように言われた。
「火が燃え盛っているようなときには、決して中に入っていったりしてはいけません。たとえ精舎がすべて燃え尽きてしまおうと、それは罪にはなりません。災害のときにはまず自分の衣鉢を持ち出して見張りを置き、それから後に精舎の品々を運び出しなさい。ただし、危険な場合は精舎がうせてしまおうとも近付かないことです。これは、火事の場合でも洪水の場合でも同じことです。この規則に違背することは混乱を招くことであり、罪となります。」(すずき出版『仏教説話大系』より)
 こうして、また新しい戒ができたのである。
 要するに、戒は何か事あるごとに増えていったのである。釈迦牟尼の弟子の中には、特に悪行が多くて、多くの戒制定の原因になったような者もいる。カールダーインやストゥーラナンダーなどが有名である。

◎甦る神通の世界――仏陀への道を記す

2005-08-01 | ☆【経典や聖者の言葉】

 ここで取り上げたのは、仏陀釈迦牟尼【ぶっだしゃかむに】の宇宙観、世界観と、その当時一般に普及していた宇宙観、世界観を対比しながら、仏陀釈迦牟尼がいかに素晴らしい教えを説いていらっしゃったのかを語っている部分である。これによって、仏陀釈迦牟尼のお説きになった真理だけでなく、その当時の婆羅門【ばらもん】の姿、当時の代表的な思想を知ることができよう。
 また、当時の釈迦牟尼の教団が、いったいどういう生活をしていたのか、どんな戒律が定められていたのかということも知ることができて興味深い。
 それらを通して、私が一番皆さんに読み取っていただきたいと望んでいるのは、宗教というもの、仏教というものは、三昧【さんまい】に入らなければ無価値なんだということである。これによって、なぜオウムが皆さんに激しい修行をさせ、三昧に入らせようとしているのかということをご理解していただけよう。
 また、この経典は明らかに神通【じんつう】の世界を表わしている。例えば、一生、二生、五生、十生、千生、一万生、あるいは一カルパ、二カルパといったように、三昧に入ることによって得ることのできた宿命通【しゅくみょうつう】という神通力を使って知り得た世界が記されている。そのことから、この『南伝大蔵経』は、仏陀釈迦牟尼在世の当時、修行者は実際に神通力の付く修行をしていたんだということ、神通力を肯定していたんだということの一つの証明となると私は考えている。
 本来仏教には二つの根本があったのだということを忘れてはならない。二つの根本とは、仏陀の教えと仏陀になるための道である。
 しかし、今の仏教は、身を全部削り落として骨だけになってしまっている。仏陀の教えはある程度存在しているのだが、神通力を持つ仏陀になるための道は存在していない。だから、今の仏教の修行体系では神通力が付かないのである。これは真の仏教とは言えない。
 それでは、オウム真理教の教えはどうであろうか? 仏陀の教えと仏陀になる道が説かれているではないか。つまり、オウム真理教の教義と仏陀釈迦牟尼の説かれたことは同じなのである。それもこのお経で、ある程度証明することができよう。


◇第一誦品

一 このように私は聞いた。
 あるとき、仏陀は五百人の比丘【びく】によって構成された大きな比丘サンガを伴って、ラージャガハよりナーランダーに至る大道を進んでおられた。遊行者【ゆぎょうしゃ】の一人であるスッピヤもまた、その弟子ブラフマダッタを伴って、ラージャガハよりナーランダーに至る大道を進んでいた。その道すがら、遊行者スッピヤは、種々様々に仏陀を非難し、法を非難し、サンガを非難したが、これに反してその弟子ブラフマダッタはまた、種々様々に仏陀を称賛し、法を称賛し、サンガを称賛した。このように、この遊行者の師弟は、お互いに正反対のことを言いながら、仏陀と比丘サンガの後に従っていったのである。
二 そのとき、仏陀はアンバラッティカーの園の中にある国王休憩堂で、比丘サンガと一緒に一夜の宿をとられた。遊行者スッピヤもまた、アンバラッティカーの園の中にある国王休憩堂で、弟子ブラフマダッタと一緒に一夜の宿をとった。そこでもまた、遊行者スッピヤは種々様々に仏陀を非難し、法を非難し、サンガを非難したが、これに反して、その弟子ブラフマダッタは、また種々様々に仏陀を称賛し、法を称賛し、サンガを称賛した。このように、この遊行者の師弟は、お互いに正反対のことを言いながら、滞在していたのである。
三 さて、その夜が明けてから、目覚めて講堂に集まり座っていた多くの比丘の間に、次のような話題が持ち上がった。
「不思議なことだ、友よ。珍しいことだ、友よ。私達がいつもお仕えし、よく存じ上げている、阿羅漢【あらはん】、等正覚者【とうしょうがくしゃ】であられる仏陀は、衆生【しゅじょう】が優れた理解力を持っているかどうかの本性をよく見通していらっしゃることだなあ。なぜなら、あの遊行者スッピヤは種々様々に仏陀を非難し、法を非難し、サンガを非難したが、これに反して、その弟子のブラフマダッタは、また種々様々に仏陀を称賛し、法を称賛し、サンガを称賛するというように、この遊行者の師弟は、お互いに正反対のことを言いながら、仏陀とその比丘サンガの後に従っていったからであり……。」
四 そのとき、仏陀はこれらの比丘の間におけるこの話題を知り、その講堂にいらっしゃった。そして、設けられた席に座られた。座ってから、仏陀は比丘達にこうお告げになったのである。
「いったいどういう談話のために、比丘達よ、今君達はここに座っているのか。そして、私に遮られてしまった君達の無駄話とは、いったい何なのかな。」
 このように言われて比丘達は、仏陀に申し上げた。
「今、尊師よ、夜が明けてから、目覚めて講堂に集まり座っていた私達弟子の間に、次のような話題が持ち上がりました。『不思議なことだ…(中略)…従っていったからであり』と。そのとき、仏陀がいらして、私達のこの無駄話が遮られたのです。」
五 「比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあったとしても、君達はこのことに心を痛めてはならないし、これを憂えたり、恨んだり、また心の中でひどく怒ったりしてはならない。比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあり、君達が、もしこれに対してひどく怒ったり、あるいは歓喜したとしたら、これは君達の障害となるに違いない。比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあり、君達が、もしこれに対してひどく怒ったり、あるいは歓喜したとしたら、君達は他の人が正しい説を唱えているか、誤った説を唱えているかの判定をすることができるであろうか。」
「尊師よ、それはできません。」
「比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあったとしたら、これについて、君達は事実ではないことを事実ではないこととして、弁別しなければならないのである。
『これこれの理由でそれは事実ではなく、これこれの理由でそれは真相ではない。我々の間にはこのようなことはなく、またこのようなことは存在しない』と。
六 比丘達よ、他の人が、もし私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいはサンガを称賛することがあったとしても、君達はこのことに歓喜したり、これをうれしがったり、心の中で楽しんだりしてはならない。比丘達よ、他の人が、もし私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいはサンガを称賛することがあり、君達が、もしこれに対して歓喜したり、うれしがったり、楽しんだりしたとしたら、これは君達の障害となるに違いない。比丘達よ、他の人が、もし私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいはサンガを称賛することがあったとしたら、これについて、君達は事実を事実として、認定しなければならないのである。
『これこれの理由でそれは事実であり、これこれの理由でそれは真相である。我々の間にはこのようなことがあり、またこのようなことが存在する』と。
七 比丘達よ、実際に凡夫が仏陀を賛嘆して語っていることといえば、ただささいなことについてだけであり、ただ通俗的なことについてだけであり、ただ戒に関することについてだけなのである。それならば、比丘達よ、凡夫が仏陀を賛嘆して語っていることとは、どういったささいなことについてであり、どういった通俗的なことについてであり、どういった戒に関することについてなのであろうか。」

【解説】
◎ありのままに見るために
 仏陀釈迦牟尼は、ここで他人の言っていることについて「ありのままに見なさい。ありのままに見るためには、心を動かしてはいけない」と言っていらっしゃるわけだ。
 例えば、非難中傷されたとしても、それに対して心を動かしてはいけない。悲しんでもいけないし、憂えてもいけない。例えば誉められたとしても、それに対して喜んでもいけないし、歓喜してもいけない。ただ、あることはあると考え、ないことはないと考えなさいと。
 また、全体を通して言えることは、他人の言っていることは、本質的には全部大したことではないのだということだ。そして、他の人、つまり修行者以外の人は、自分達の観念によって、自分達が見ている部分だけで物事を判断しているということも言外に含んでいると私は思う。だから、「ささいなこと」という言葉が出てきているのだ。
 それでは、いったい何を“ささいなこと”と言っているのだろうか? そして、“ささいでないこと”とは何か?
 凡夫は、仏陀と一般人、あるいは修行者と比較してあれやこれやと言うわけであるが、そのどれもが、ただささいなことについてだけであり、ただ通俗的なことについてだけであり、ただ戒に関することについてだけであるという。だが、本当に仏陀が賛嘆に値するのは、いろいろな前生の体験を超越した体験を持っているところなのだ。それを示すために、これからの経は展開していく。