この後で、もしサンサーラ、輪廻の不利な点について瞑想することがなければ、衝動的にそれに引きつけられている状態から離れることはできないし、また、それを捨て去ろうという気持ちも起きてきません。このような状況からは、心の流れの中に経験も洞察も生起しません。この生起が欠けているがゆえに、サンサーラから離れるためには、サンサーラの苦しみについて瞑想しなくてはならないのです。
これに関連して、もし魂が地獄に生まれたなら、八つの熱地獄、八つの寒冷地獄、小地獄、特別な目的の地獄に表わされているような激しい苦痛を味わわなければなりません。
餓鬼には飢えと渇きがあります。
動物は殺されたり、されたりします。
人間には生・老・病・死があります。
神々はいずれは高い世界から落ち、その意識が変化します。
阿修羅にはケンカ、戦いが絶えません。
これがサンサーラの六つの世界の苦しみなのです。
これに加えて不幸・苦痛を味わう明白な苦があります。
楽しみと見えるものは変化する苦を与えます。
中立的なニュアンスを持つのは、すべてにいきわたる苦です。魂はこの最後の苦に絶え間なくさいなまれているので、サンサーラのどこにいようと変わらないのです。
たとえ宇宙を征する転輪聖王になろうとも、ブラフマン、インドラになろうとも苦を乗り越えたことにはならないのです。それゆえに、サンサーラとは牢獄のようなものであり、底のない穴、燃え上がる巨大な炎であると確信し、今現在から常にできる限り、そこから解放される方法を求めなければなりません。
【解説】サンサーラとは〝循環する〟という意味で、果てしなく生・病・老・死、生、病等のサイクルを繰り返すことを意味しています。
サンサーラを推進させ、永続させているものは、無智と十二縁起と呼ばれる仕組みです。
誕生には四つの方法があり、それぞれ子宮、卵、熱と湿気、奇跡的な変化による誕生です。これらの誕生によって地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・神々の六つの世界のどこかへ生まれ変わります。
最初の五つは欲界にあり、神々は三界、すなわち欲界・色界・無色界にまたがっています。しかしどこに生まれようと苦からは逃れられないのです。
それぞれの世界が、本文にあるようにそれぞれ独特の不利な点を持っています。
三つの一般的な苦、つまり苦痛、変化、すべてにいきわたる苦の三つはすべての世界に共通しています。
最初の苦は、病・死等の明らかな苦痛です。
変化の苦はおいしい食物、田舎の散歩といった一見楽しいと思われるものが、胸焼けの原因になったり足のまめの原因になったりすることを示しています。
すべてにいきわたる苦というのは、普通の人には不明確で、感じることのできない苦なのですが、空を認識している聖者はこれをはっきりと知覚することができます。これは手のひらに乗せた毛は痛くないのに、それが目に入ると非常に痛いということにたとえることができます。これは汚れた蘊を持って生まれることについてまわる苦で、この蘊がそれ自体の性質として磁石のように病・老・死を引きつけるのです。
これらのサンサーラの不利点について瞑想することによって、サンサーラを離れる心、あるいは苦から完全に自由になりたいと願う心の状態をつくり出すことが必要です。これがヒナヤーナを修行する動機となり、この動機と空の理解とによって解放がもたらされます。
しかし解放を妨げている障害だけではなく、全智を妨げている障害をも克服するためには、もっと先に進む必要があります。離脱する心に加えて、菩薩としての動機を培う必要があります。すべてのサンサーラの生き物が苦を経験すること、そしてあなたと同じようにその束縛から自由になり、絶対的な幸福を願っているのだということを理解して、自分と他の生き物たちの両方を解放するために仏陀になるよう努力しなくてはなりません。この動機によって空の理解に特別な力が加わり、解脱がもたらされるのです。
もしこのサンサーラを超えた状態であるヒナヤーナの解放を達成したとしても、絶対的な幸福を得たわけではありません。ゆえになんとしてでも、この無二の解脱に到達するよう努力をしなくてはなりません。そのためには、すべての生き物は一つの例外もなく無始の過去から、優しい自分の父・母であるという確信を持ち、
「わたしは絶対に彼らを比ぶるもののない至福をもたらしてくれる、完全な解脱へと導くんだ」
と考え、正真正銘菩薩としての動機を培うことが必要です。これが七番目の準備修行、この方向に向けて努力することです。