一七 「尊師よ、確かに、過去・未来・現在の供養値魂・最上正覚者方に対して、私には他心通はありませんが、法の結論を知っているのです。
尊師よ、たとえるならば、辺境に国王の城塞【じょうさい】があって、その城壁は堅固で、その城門は堅固で、一つの入り口がありました。そこに、賢く聡明で頭の良い門番がいて、知らない者を拒み、知っている者を入れるとしましょう。そして、彼はその城塞を取り囲む道をくまなく進みながら、城壁の割れ目や城壁の隙間【すきま】や猫がくぐり抜けるような小さな所を見ることはありませんが、『粗大な生き物で、この城塞に出入りする者は、すべてこの門から出入りする』と、彼は考えるのです。
尊師よ、このように、私は法の結論を知っているのです。
尊師よ、過去世で供養値魂・最上正覚者であった、すべての覚者方は、心の随煩悩【ずいぼんのう】で智慧を弱める五つの障害を捨断し、四つの記憶修習述で心を安定させ、七つの覚醒段階を如実に修習し、無上の最上正覚を現正覚【げんしょうかく】なさったのです。
尊師よ、また、未来世で供養値魂・最上正覚者であるような、すべての覚者方も、心の随煩悩で智慧を弱める五つの障害を捨断し、四つの記憶修習述で心を安定させ、七つの覚醒段階を如実に修習し、無上の最上正覚を現正覚なさるでしょう。
尊師よ、また、現在、供養値魂・最上正覚者である覚者も、心の随煩悩で智慧を弱める五つの障害を捨断し、四つの記憶修習述で心を安定させ、七つの覚醒段階を如実に修習し、無上の最上正覚を現正覚なさるのです。」
【解説】
サーリプッタが智慧者であり、賢者であるということは、信徒の皆さんだれもが認めるところであると思う。ここでのサーリプッタの論理というのは、こういうことである。例えば、ここに車の精巧な図面があるとしよう。そして、その図面を読み取る力を持っている者がいて、精巧な職工がいて、さらに、その国には精巧なエンジンとか各部品を作る技術があったとしよう。そうすると、図面を見ただけで、その車が精巧な車になるということは当然わかるはずである。
サーリプッタの論理というのは、これと同じなのだ。要するに、戒が完璧である。漏れがない。そして、サマディに漏れがない。ということは、当然智慧に漏れがない。そして、これ以上の戒は考えられない。よって、これ以上のサマディは考えられず、これ以上の智慧は考えられない――これが、ここでのサーリプッタの論理なのである。それを意識しながら、読んでいけばわかるであろう。
また、サキャ神賢とサーリプッタの会話の中で、サーリプッタに他心通がないということが出てくるが、これはもちろん完璧な他心通がないという意味である。これは、供養値魂の六神通が決して完璧な六神通ではないということを表わしているのである。
ここで、「五つの障害を捨断し……」とあるが、五つの障害をまず戒律でシャットアウトし、次に四つの記憶修習述によって捨断するわけである。そして、七つの覚醒段階によって現証するのだ。
ちなみに、四つの記憶修習述と五蘊無我【ごうんむが】とは同じである。要するに、「形状-容姿・感覚・表象・意志の遂行・識別」で五蘊なのだが、この「形状-容姿」イコール「身」。「感覚」イコール「感覚」。「表象と意志の遂行(心の働きと心に浮いてくるイメージ)」イコール「心」。「識別」イコール「観念(データ)」。だから同じなのである。ただ、「身・感覚・心・観念」ではちょっと分類が雑なのだ。言い方を換えるならば、成分と形態・容器の違いと言えよう。四つの容器があり、中に五つの成分が入っているという違いである。