智徳の轍 wisdom and mercy

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サーリプッタの論理

2005-03-15 | ☆【経典や聖者の言葉】

一七 「尊師よ、確かに、過去・未来・現在の供養値魂・最上正覚者方に対して、私には他心通はありませんが、法の結論を知っているのです。
 尊師よ、たとえるならば、辺境に国王の城塞【じょうさい】があって、その城壁は堅固で、その城門は堅固で、一つの入り口がありました。そこに、賢く聡明で頭の良い門番がいて、知らない者を拒み、知っている者を入れるとしましょう。そして、彼はその城塞を取り囲む道をくまなく進みながら、城壁の割れ目や城壁の隙間【すきま】や猫がくぐり抜けるような小さな所を見ることはありませんが、『粗大な生き物で、この城塞に出入りする者は、すべてこの門から出入りする』と、彼は考えるのです。
 尊師よ、このように、私は法の結論を知っているのです。
 尊師よ、過去世で供養値魂・最上正覚者であった、すべての覚者方は、心の随煩悩【ずいぼんのう】で智慧を弱める五つの障害を捨断し、四つの記憶修習述で心を安定させ、七つの覚醒段階を如実に修習し、無上の最上正覚を現正覚【げんしょうかく】なさったのです。
 尊師よ、また、未来世で供養値魂・最上正覚者であるような、すべての覚者方も、心の随煩悩で智慧を弱める五つの障害を捨断し、四つの記憶修習述で心を安定させ、七つの覚醒段階を如実に修習し、無上の最上正覚を現正覚なさるでしょう。
 尊師よ、また、現在、供養値魂・最上正覚者である覚者も、心の随煩悩で智慧を弱める五つの障害を捨断し、四つの記憶修習述で心を安定させ、七つの覚醒段階を如実に修習し、無上の最上正覚を現正覚なさるのです。」

【解説】
 サーリプッタが智慧者であり、賢者であるということは、信徒の皆さんだれもが認めるところであると思う。ここでのサーリプッタの論理というのは、こういうことである。例えば、ここに車の精巧な図面があるとしよう。そして、その図面を読み取る力を持っている者がいて、精巧な職工がいて、さらに、その国には精巧なエンジンとか各部品を作る技術があったとしよう。そうすると、図面を見ただけで、その車が精巧な車になるということは当然わかるはずである。
 サーリプッタの論理というのは、これと同じなのだ。要するに、戒が完璧である。漏れがない。そして、サマディに漏れがない。ということは、当然智慧に漏れがない。そして、これ以上の戒は考えられない。よって、これ以上のサマディは考えられず、これ以上の智慧は考えられない――これが、ここでのサーリプッタの論理なのである。それを意識しながら、読んでいけばわかるであろう。
 また、サキャ神賢とサーリプッタの会話の中で、サーリプッタに他心通がないということが出てくるが、これはもちろん完璧な他心通がないという意味である。これは、供養値魂の六神通が決して完璧な六神通ではないということを表わしているのである。
 ここで、「五つの障害を捨断し……」とあるが、五つの障害をまず戒律でシャットアウトし、次に四つの記憶修習述によって捨断するわけである。そして、七つの覚醒段階によって現証するのだ。
 ちなみに、四つの記憶修習述と五蘊無我【ごうんむが】とは同じである。要するに、「形状-容姿・感覚・表象・意志の遂行・識別」で五蘊なのだが、この「形状-容姿」イコール「身」。「感覚」イコール「感覚」。「表象と意志の遂行(心の働きと心に浮いてくるイメージ)」イコール「心」。「識別」イコール「観念(データ)」。だから同じなのである。ただ、「身・感覚・心・観念」ではちょっと分類が雑なのだ。言い方を換えるならば、成分と形態・容器の違いと言えよう。四つの容器があり、中に五つの成分が入っているという違いである。

私は覚者に対して浄信があるのです

2005-03-15 | ☆【経典や聖者の言葉】

一二 ここで、覚者はラージャガハのギッジャクータ山にとどまり、向煩悩滅尽多学男達に対して、この数々の法話をなさったのだ。
「戒とはこうである。サマディとはこうである。智慧とはこうである。戒に熟達させられたサマディには、大いなる果報と大いなる功徳がある。サマディに熟達させられた智慧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。智慧に熟達させられた心は、諸々の漏【ろ】から完全に離解脱【りげだつ】する。すなわちそれは、愛欲漏【あいよくろ】・生存漏【せいぞんろ】・謬見漏【びゅうけんろ】・非神秘力漏【ひしんぴりょくろ】からである」と。
一三 さて、覚者はラージャガハに心ゆくまでとどまられた後、長老アーナンダにこうお告げになった。
「さあ、アーナンダよ、アンバラッティカーの園を訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。そして、覚者は大きな向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、アンバラッティカーの園に入られた。
一四 そこで、覚者はアンバラッティカーの園の中にある国王休憩所にとどまられたのである。
 またここで、覚者はアンバラッティカーの園の中にある国王休憩所にとどまり、向煩悩滅尽多学男達に対して、この数々の法話をなさったのだ。
「戒とはこうである。サマディとはこうである。智慧とはこうである。戒に熟達させられたサマディには、大いなる果報と大いなる功徳がある。サマディに熟達させられた智慧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。智慧に熟達させられた心は、諸々の漏から完全に離解脱する。すなわちそれは、愛欲漏・生存漏・謬見漏・非神秘力漏からである」と。
一五 さて、覚者はアンバラッティカーの園に心ゆくまでとどまられた後、長老アーナンダにこうお告げになった。
「さあ、アーナンダよ、ナーランダーを訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。そして、覚者は大きな向煩悩滅尽多学男出家教団と共に、ナーランダーに入られた。そこで、覚者はナーランダーのパーヴァーリカのマンゴー林にとどまられたのである。
一六 そのとき、長老サーリプッタは、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して傍らに座った。傍らに座って、長老サーリプッタは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、他の出家修行者や祭司のうち、正覚において、覚者よりもさらに証智【しょうち】した者は、過去に語られたこともなく、未来に存在するようなこともなく、現在知られることもありません。このように、私は覚者に対して浄信【じょうしん】があるのです。」
「サーリプッタよ、お前は高慢で尊大な言葉を語り、確信を持って獅子吼【ししく】をなした。すなわち、
『尊師よ、他の出家修行者や祭司のうち、正覚において、覚者よりもさらに証智した者は、過去に語られたこともなく、未来に存在するようなこともなく、現在知られることもありません。このように、私は覚者に対して浄信があるのです』と。
 サーリプッタよ、一体お前は、過去世で供養値魂・最上正覚者であった、すべての覚者方のお心を、自らの心によって把握して、『かの覚者方にはこのような戒があった。かの覚者方にはこのような法があった。かの覚者方にはこのような智慧があった。かの覚者方にはこのような生涯があった。かの覚者方にはこのような離解脱があった』と知ったのであろうか。」
「そうではありません、尊師よ。」
「また、サーリプッタよ、一体お前は、未来世で供養値魂・最上正覚者であるような、すべての覚者方のお心を、自らの心によって把握して、
『かの覚者方にはこのような戒があるだろう。かの覚者方にはこのような法があるだろう。かの覚者方にはこのような智慧があるだろう。かの覚者方にはこのような生涯があるだろう。かの覚者方にはこのような離解脱があるだろう』と知ったのであろうか。」
「そうではありません、尊師よ。」
「また、サーリプッタよ、一体お前は、現在、供養値魂・最上正覚者である私の心を、自らの心によって把握して、
『覚者にはこのような戒がある。覚者にはこのような法がある。覚者にはこのような智慧がある。覚者にはこのような生涯がある。覚者にはこのような離解脱がある』と知ったのであろうか。」
「そうではありません、尊師よ。」
「サーリプッタよ、つまり、過去・未来・現在の供養値魂・最上正覚者方に対して、お前には他心通【たしんつう】がない。サーリプッタよ、それならばどうして、お前は高慢で尊大な言葉を語り、確信を持って獅子吼をなしたのであろうか。すなわち、
『尊師よ、他の出家修行者や祭司のうち、正覚において、覚者よりもさらに証智した者は、過去に語られたこともなく、未来に存在するようなこともなく、現在知られることもありません。このように、私は覚者に対して浄信があるのです』と。」

【解説】
 ここで、とっくに亡くなったはずのサーリプッタがこの場にいるじゃないかという問題が出てくる。一般の人はおかしいと考えるであろう。しかし、これは簡単なことである。どちらの見解も正しいのだ。なぜならば、サーリプッタが変化身【へんげしん】で登場することだってできるからである。
 また、少し修行の知識のある方は、これはサキャ神賢がアストラルで会ったのだとか、あるいはサーリプッタがこちらに降りてきたのだとか考えるかもしれないが、それについてはどちらとも正しいとは言えない。
 例えば、アーナンダでもステージ的には天界が見えるステージだったのである。サキャ神賢が逝【い】かれるときにも、アーナンダは天界のヴィジョンをずーっと見続けている。そして、神の太鼓が破裂したのは何々だと、震動が起きたのは何々だと言っているのである。アーナンダのステージでもそのレベルだったということは、その当時の解脱がいかに高いレベルであったかということを表わしている。
 つまり、結論から言うと、サキャ神賢とサーリプッタは、どこでも絶えず会えるわけである。このステージの人にとって、空間は関係ないのだ。ここで会ったとも言えるし、アストラルで会ったとも言えるのである。

常に苦しみのない幸福とともにありますように

2005-03-14 | ☆【経典や聖者の言葉】

 一切の衆生が、幸福と、幸福の因を持ちますように。

 一切の衆生が、苦しみと、苦しみの因から解放されますように。

 一切の衆生が、常に苦しみのない幸福とともにありますように。

 一切の衆生が、渇愛と嫌悪の心から離れた平等心による、絶対的な聖無頓着に住しますように。




六つの不衰退の法

2005-03-13 | ☆【経典や聖者の言葉】

一一 「向煩悩滅尽多学男達よ、六つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、公にも内密にも、神聖行を共にする人々に対して、慈愛のある身のカルマを成し遂げる限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、公にも内密にも、神聖行を共にする人々に対して、慈愛のある言葉のカルマを成し遂げる限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、公にも内密にも、神聖行を共にする人々に対して、慈愛のある意識のカルマを成し遂げる限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、たとえ鉢に入ったわずかなものでさえも、法にのっとって正しく得たというようなものを、分配せずに食べることがなく、持戒者である神聖行を共にする人々と共有して食べる限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、『それらの戒は聖なる戒であり、道徳的に肯定されるべきものであり、悪趣【あくしゅ】に落ちない戒であり、純粋な戒であり、煩悩から解放する戒であり、識者に称賛され、煩悩に負けないための戒であり、サマディに導く』というような戒において、向煩悩滅尽多学男達が、公にも内密にも、神聖行を共にする人々のために、戒を統一させてとどまる限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、『この見解は聖なるものであり、輪廻【りんね】から脱却させるものであり、それをなす者が完全に苦を破壊する』というような見解において、向煩悩滅尽多学男達が、公にも内密にも、神聖行を共にする人々のために、見解を統一させてとどまる限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら六つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら六つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」

【解説】
 ここは、向煩悩滅尽多学男が法友とどのように接するかということに関する規定である。
 ここで、不衰退の法の数が六つになっているが、私はどんどんどんどん落ちていってるのだと思う。まず、上座部仏教から今度は独覚【どっかく】になり、そして法だけ残っている状態という形で落ちていっているのだと思う。要するに、もうこのときには解脱がない。つまり、サハスラーラがないのである。

衰退することはないだろう

2005-03-13 | ☆【経典や聖者の言葉】
一〇 「向煩悩滅尽多学男達よ、それでは、別の七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、無常の認知を修習し、非我【ひが】の認知を修習し、不浄の認知を修習し、過患【かかん】の認知を修習し、捨断【しゃだん】の認知を修習し、離愛著【りあいじゃく】の認知を修習し、滅尽の認知を修習する限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」

【解説】
 これは、解脱における七つのプロセスである。
 まず、「無常」の認知。これは、現象を正確に把握するということである。次は「非我」の認知。これによって、この現象界の、この肉体も含めた「我」が実体ではないということを認識する。三番目は「不浄」の認知。ここで、完全に身からの出離【しゅつり】の準備を始める。次は「過患」。要するにこの現象界、この欲界に生きていることすべてが三苦であるということをしっかりと認識することによって、不浄と同時に、完全にこの現象界からの出離、三界からの出離の準備を始める。次は「捨断」。結局、過患があるわけだから、捨断しなければならないわけである。捨断することによって、自己の本性である空に到達する準備を始める。次は「離愛著」。捨断し、離愛著することによって、この形状界からも完全に離れる。そして、最後に「滅尽」。滅尽することによって、今度は空【くう】の最高点であるマハー・ニルヴァーナに到達する。つまり、これは個人的最終解脱のプロセスなのである。

◆死と無常

2005-03-12 | ☆【経典や聖者の言葉】


 もしあなたが無常について瞑想することがないなら、この世の関心事から心を離すことができないでしょう。そして心を離すことができないなら、サンサーラ、輪廻から解放されることはないでしょう。これに関してナーガールジュナはその書の中で次のように述べています。「我の命を害するものは数多くある。なぜなら命は風によって簡単に破裂してしまう水泡のようなものだからである。息を吐き出した後にまた呼吸し、眠った後また目が覚めるというのは大きな奇跡である」と。
 一般的にいって、すべての条件づけられた現象は無常であり、特に有情の生き物の生命力は水泡のようにはかないものです。自分がいつ死ぬかだれにもわかりません。今死なないという保証はどこにもないのです。加えて、死のときにはダルマ以外助けとなるものは何もありません。もしこの世の意味のないこと、この世の活動のために努力するなら、苦の原因を超えることはできません。ゆえに、心が瞬時でも現世の食物、衣服等に向かうなら、死のことを考えようと心に誓わなくてはなりません。

【解説】すべての条件づきの現象、原因と環境に依存する現象は無常です。これには動くもの、動かないもの、有情の生き物、その環境、すべてが含まれます。今日確固としている建物も明日は崩れて瓦礫と化してしまうかもしれないのです。特に人間の生命は非常にもろく、簡単に失われてしまうものです。だれも自分が明日も生きているとは保証できないし、その時がやってきたときには友人も医者も、薬もお金も名声も、死を止めることはできません。ただ一つ頼りになるものは法の実践だけです。もし、生きている間に功徳をたくさん積んでいるなら、平安のうちに死ぬことができ、白いカルマの結果として好運な転生が約束されています。
 ゆえに、感覚の喜びが永遠の幸せをもたらしてくれるという考えに惑わされてはなりません。もし、美しい景色にとらわれたなら、炎に引きつけられて死に至る蛾のことを考えましょう。音に関しては、狩人の鳥寄せの声に誘われてしまう鴨のことを考えましょう。蜜蜂はハエジゴクの臭いに引き寄せられ、ハエは糞の臭いに引き寄せられてトイレで溺れ死んでしまいます。魚は針の先についた虫が食べたいばかりに釣り上げられてしまいます。象は体をかきたいという欲求にとらわれて、飼い慣らされた仲間に導かれ、二本のトゲのついた木の間に挟まれ、調教師に捕らえられて、つながれてしまいます。これらの例について考え、現世の喜びは新たな苦の原因にほかならないことを理解し、それから離れます。今にも死んでしまうかもしれないことを認識し、つまらないことに時間を無駄にしないようにします。食べ物、着る物を、死刑囚が最後の食事を見るような気持ちで見つめましょう。

困難な行為をたたえる

2005-03-06 | ☆【経典や聖者の言葉】

 あなたは疲労もいとわず
 寂静の楽しみを失っても平気だった
 悪人との出会い、対立、喧騒
 こんな様々な悪徳を
 まるで善徳のようにその身に引っかぶって
 あなたは世の人のためを考えていた
 心に執着はなかった
 もろもろの覚者の法則のなんと崇高なことだろう

 粗末な食事に不平も言わず
 食物がなければ飢えにも甘んじた
 険しい悪路もいとわず
 牛の踏み行く泥道の上に寝たこともある
 
 主よ、あなたは主人たるものなのに
 覚者の道を求める人を思えばこそ
 ののしりの言葉に耐えた
 着物を変え、言葉遣いを変えてまで、人につくしたこともある

 主よ、あなたは主人なのに
 自分に主人と思う心はなかった
 すべての人があなたを下男に雇い
 好きなように自分の仕事をさせたのだ

 どこで誰にののしられても
 どんな風にののしられても
 正しい行の道を
 あなたは踏み誤ることはなかった

 恩愛を受けて
 恩を返すのが世の人なら
 あなたは危害を加えた人にさえ
 恩愛を施すのだ

 不利を願う敵にも
 あなたは利益を願う友達だった
 欠点を探し求める人の
 長所を夢中に探すあなただった

 招かれて
 毒や火を見舞われたこともあるが
 それでも
 慈悲と甘露を携えて行った

 怒る人はあなたの忍耐に負け
 悪意はあなたの祝福に消えた
 真実を語るから中傷はやみ
 害意は聖哀れみに抑えられた

 無始の過去から
 衆生の多くの性質は堕落してきた
 それをたちまちに改めさせて
 あなたは、衆生が激苦地獄に落ち込むのを防いだのだ
 
 

悟りの因をたたえる

2005-03-06 | ☆【経典や聖者の言葉】


 あなたに不思議の行いは多かった
 徳の数にも能力にも限りはなかった
 自ら生まれた人
 あなたに礼拝いたします

 その任だろうか任ではないだろうか
 あなたは迷う心を捨てて
 自分から
 よるべなき世に近づかれた

 親切に動機はなく
 慈愛に理由もない
 あなたは友なき人の友
 身内なき人の身内だった 

 あなたは生身まで布施したこともある
 他の品々はいうまでもない
 求められれば生命も惜しまなかった
 世の人々の喜びはいかばかりだったろう

 殺し屋の手に落ちた生き物の
 身体をあなたの身体でもって
 生命をあなたの生命でもって
 あがなったことも幾百回になるだろう

 あなたは悪趣に落ちるのを恐れたわけでなく
 さりとて善趣に行きたいわけでもない
 ただ清い心をそのままに
 身についた戒として守っていた

 曲がったことはいつも斥けていたから
 正しいことにいつもしたがっていたから
 あなたはこの上なく清らかな行いの
 ただ一人の人だった

 くさぐさの苦しみは多くとも
 あなたの心は気高かった
 煩悩は威力の火で焼いてしまったが
 煩悩の人をあなたは哀れんだ

 あなたは人のために自らの生命を捨てて
 しかも喜びにあふれていた
 それは死からよみがえった人の
 喜びにも勝っていただろう

 身は散り散りに裂かれても痛みをこらえて
 人殺しをも哀れまれた
 主よ
 あなたの慈悲は
 正しい悟りの種子、心の宝なのだ
 ああ、英雄よ
 まことの慈悲を知る人よ
 他の者の遠く及ぶところではない

 なしがたい行為をなさずに
 得がたい境地は得られぬ
 だからこそ、自分のことはかまわずに
 あなたは努力を続けてきた

 あなたは後戻りすることもなく
 一歩一歩高い境地に近づき到着した
 だから
 これ以上高まることはないのだ
 
 心はいつも
 大慈悲にもよおされているから
 楽しく実り多い禅定にさえ
 あなたは目もくれなかった

 かけがえのない楽しみでも
 他人に分け与えられなくては、あなたには意味がない
 行の正しい人よ、そんな楽しみは
 あなたを苦しめても喜ばすことはなかった

 真偽の入り混じった言葉を聴いては真をとり
 悪い言葉は毒薬のように斥けた
 にごりない正しい言葉を
 あなたは残りなく飲み干した

 あなたはまことの価値を知っていた
 悟りを教える言葉があれば
 死の代価を払っても買い求め
 生々世々、ひたすらに悟りを求めてきた

 想像も及ばぬ長い間
 心も堅く、決意も堅く
 あなたは努力を払い続けて
 今や、無上の悟りを開かれたのだ




もろもろの煩悩に支配されて

2005-03-06 | ☆【経典や聖者の言葉】

 信仰心によって出家し、家から去って家のない状態となっても、私は、名声・利養を得ようと欲して、あちこち遍歴した。
 私は、最高の利益を捨てて、卑しい利益に走った。私は、もろもろの煩悩に支配されて、出家修行者の道の利益を楽しまなかった。

 そうした私が、精舎の中に座ったとき、心におののきを生じた。--「私は、愛欲のとらわれのために支配されて、よこしまな道を踏み行なっている」と。

 私の命は短く、老いと病はこの身を損なう。やがてこの身は壊れよう。怠けるべきときではない。

 五つの集積の生起と滅尽を、ありのままに観察していたとき、私は、心の離解脱を得て立ち上がり、仏陀の教えを成し遂げた。


                 (ミッタカーリー)


ブッダの言葉を実行せよ

2005-03-06 | ☆【経典や聖者の言葉】

 ブッダの言葉を実行せよ。

 瞬時たりともむなしくすごしてはならない。

 瞬時たりともむなしくすごした人々は、激苦地獄に落ちて、激しく苦しむからである。

 思うままに振舞うことは、塵垢である。思うままに振舞うことにおぼれるのは、塵垢である。思うままに振舞うことをせず、神秘力によって、自我のとらわれの矢を抜け。


                 (マールンクヤプッタ高弟)

そなたを調御しよう

2005-03-06 | ☆【経典や聖者の言葉】

 心よ、私は、象を門に繋ぎとめるように、そなたを繋ぎとめよう。身体から生じた欲望の網よ、私は、そなたを悪事に結びつけはしない。

 そなたは、繋ぎとめられて、行くことができない。あたかも、象が門を開くことができないように。罪深き心よ、そなたはこれから、しばしば暴力を発揮し、悪事を楽しんでいくことはないであろう。

 あたかも、新たに捉えられて、まだ調御されていない象が、鉤を手にした強者に打ち勝たれるように、そのように、私はそなたに打ち勝とう。

 あたかも、駿馬を巧みに調御する優れた御者が、生まれ良き馬を調御するように、そのように、私は、帰依・精進・記憶修習・サマーディ・智慧の五つの能力に安立して、そなたを調御しよう。

 心よ。私は正しい想いに住して、そなたを縛ろう。自己を清めて、そなたを調御しよう。そなたは、精進の重荷を背負わされて、ここから遠くへ行かないであろう。


             (ヴィジタ・セーナ高弟)


非常に難しい

2005-03-05 | ☆【経典や聖者の言葉】
    
言葉に制約された「見解」は、名ばかりである。 
人々は「見解」と呼ぶが、それは、ただの言葉に過ぎない。
二元性に乱されない者を見つけるのは、非常に難しい。
  唯一の悟りに没入できる者を見つけるのは、非常に難しい。

  心を広げることのできない「瞑想」は、名ばかりである。
  人々は、「瞑想」と呼ぶが、それは、ディヤーナの一形体に過ぎない。
  ディヤーナと「洞察」を融合できる者を見つけるのは、非常に難しい。
  心の生命点に働きかける方法を知る者を見つけるのは、非常に難しい。

  ときには闇で、ときには光である、心の「行為」は、名ばかりである。
  人々は、「行為」と呼ぶが、それは、この世との係わりを持つ行為に過ぎない。
  現世的欲望を克服できる者を見つけるのは、非常に難しい。
  法則の修行を完成できる者を見つけるのは、非常に難しい。
     
  見せかけでわざとらしい戒の遵守は、名ばかりである。
  人々は、「戒」と呼ぶが、それは、見かけ倒しに過ぎない。
  自己の誓約を決して破らない者を見つけるのは、非常に難しい。
  自己の心を誠実に証言する者を見つけるのは、非常に難しい。
  
激しく求められた「成就」というものは、[愚者の好む]考えである。
  人々は、「成就」と呼ぶが、それは、幻惑に過ぎない。
  リアリティの深淵を測ることのできる者を見つけるのは、非常に難しい。
  真の「道」に留まることのできる者を見つけるのは、非常に難しい。

  真髄の教えは、紙面の上で、非常に深遠に見えるが、
  書かれた言葉に過ぎない。
  忍辱と精進を具足した者を見つけるのは、非常に難しい。
  系統の直接の教えを持った者を見つけるのは、非常に難しい。

  この世の生活に携わるグルは、名ばかりである。
  彼らは、混乱をもたらすだけであり、人々の信仰や崇敬は小さい。
  成就したグルに常に帰依する者を見つけるのは、非常に難しい。
   
見せびらかしの信仰や崇敬の功徳は、名ばかりである。
  それは、短命で変化するものだからである。
  カルマによる悪い偏見の強いところで、
何ものも恐れず、心配もしない者を見つけるのは、非常に難しい。
三つの決意を持つ者を見つけるのは、非常に難しい。
  
  町の郊外の小さな寺院は、名ばかりである。
  人々は、「寺院」と呼ぶが、それは、実際には、「町」の一部に過ぎない。
  そこには常に、享楽や放逸への強い欲求がある。
  長く隠遁場所に留まれる者を見つけるのは、非常に難しい。

  窮屈な若い僧の頭は、石のように堅く、こわばっている。
  人々は、彼らが「自己節制をなしている」と言うが、
  実際は、演技をしているに過ぎない。
  忍耐力のある者を見つけるのは、非常に難しい。
  僧としての厳格な戒を守れる者を見つけるのは、非常に難しい。
      
後援者である、ニャナンの綺麗な女性達は、名ばかりである。
  彼女達は、幻惑し誘惑する者達だからである。
  女性の理解力は、貧弱で低い。
  一人の者に仕え、あらゆる布施をする後援者を見つけるのは、非常に難しい。
  
悪をなす者の信仰は、口の中にあり、
  あなた方、後援者達の信仰は、陰部にあり、
  わたし、ヨーギーの信仰は、心の中にある。

  岩が古くなると、表面が泥に覆われる。
  河が古くなると、河底にしわが出来る。
  木が古くなると、すぐに葉が落ちる。
  庵が古くなると、水やオオバコがなくなる。
ヨーギーが歳を取ると、経験や悟りはぼやける。
  後援者達が歳を取ると、信仰が薄らいでいく。

  ある後援者達はクジャクのように、自慢と見せびらかしをする。
  ある後援者達はオウムのように、うわさ話や無駄話をする。
  ある後援者達は雌牛のように、自分を小牛や山羊だと思っている。



                   --ミラレーパ

エピクテートス語録いくつか

2005-03-04 | ☆【経典や聖者の言葉】


『奴隷エピクテートスとしてわれは生まれ、身は跛、貧しさはイロスのごとくなるも、神々の友なりき。』



『記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。それでだれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい。
 だから第一に、心像に奪い去られぬようにしたまえ。なぜなら、もしきみがひとたび考える時間と猶予とを得るならば、容易にきみ自身に打ち勝つだろうから。』



『君は苦労もしないし、また満足もしていない。そしてもし君が一人ぼっちならば、君は孤独だと言うし、またもし人々と一緒ならば、君は彼らを騙り屋だとか、泥棒だとか言う、また君自身の両親や、子供たちや、兄弟たちや、隣人たちをも非難するのである。だが君はただ一人いるときには、それを平和とか自由とか呼び、自分を神的なものに似ていると思うべきであったし、また多くの人々と一緒のときには、俗衆とか喧騒とか不愉快とか呼ばないで、お祭りとか集会とか言って、そしてそのようにしてすべてを満足して受けるべきであったのだ。そうするとそういうふうに受け取らぬ人々には、どういう罰があるか。彼らが持ってるようなそういう気持ちにあることがそれだ。ある人は一人でいることに不満だって。彼は孤独であるがいい。ある人は両親に不満だって。その人は悪い息子として、悲しんでいるがいい。ある人は子供に不満だって。その人は悪い父親でいるがいい。
 「彼を牢獄に入れるがいい。」
 どんな牢獄にか。彼が今いるところがそれだよ。というのは彼はいやいやながらいるからだ。人がいやいやながらいるところは、彼にとっては牢獄である。ちょうどソークラテースが、喜んでいたために牢獄にいなかったように。
 「それで私の足がびっこになったのです。」
 つまらんことを言うね君は、すると君はちっぽけな一本の足のために、宇宙に対して不平なのか。
 それを全体のために、君は捧げないのだろうか。君は退かないだろうか。君はその授けてくれた者に、喜んで従わないのだろうか。君はゼウスによって配置されたもの、つまりゼウスが彼のところにいて、君の誕生をつむぎだした運命の女神と一緒に、定めたり、秩序付けしたりしたものに対して不平で不満なのだろうか。』







無智にひとしい網は存在しない

2005-03-03 | ☆【経典や聖者の言葉】
 愛著にひとしい激流は存在しない。
 不利な骰の目を投げたとしても、邪悪心にひとしい不運は存在しない。
 無智にひとしい網は存在しない。無智にひとしい河は存在しない。

 空には足跡がない。

 外面的なことを気にかける<道の人>は存在しない。

 愚人どもは汚れのあらわれをたのしむのが、修行完成者たちは汚れのあらわれをはなれている。