智徳の轍 wisdom and mercy

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かりそめ

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 神の御名を唱え、彼の栄光をうたい、よい仲間と交わり、時々神の信者やサドゥーたちを訪れなさい。心は、日夜世俗のこと、つまり世間のつとめや責任に没頭していたのでは神を思うことはできない。時々ひとけを離れたところに行って神を思うことが最も必要である。最初は、ひとけを離れたところで瞑想を実習するのでなければ、心を神に集中することは非常に難しい。若木の周りには垣を作ってやらなければならないだろう。そうでないと家畜に踏み荒らされてしまうから。
 瞑想をするためには、自分の内部に閉じこもるか、あるいは隔離された一隅か森の中かに退くべきである。そして常に実在するものとしないものとを識別しなければならない。神のみが実在、永遠なる実体であって、他はすべて非実在、つまりかりそめのものである。このように識別することによって、人はかりそめの対象を心から振り落とすべきである。


              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

自他共に輪廻の海から救われるために

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

【三十七の菩薩の実践】

ナモー ローケーシュヴァラーヤ


優れた師であり、救済者である観自在菩薩に、常に三門で恭しく礼拝いたします。観自在菩薩は「一切の法則は去ることも、来ることもない」とごらんになりつつ、しかも輪廻する衆生のために一心に励んでいらっしゃるのです。
一時的な幸せと究極的な幸せを生じる源である諸々のブッダは、正しい法則を完成することでブッダとなり得ました。それは法則を実践することの内容を知り、それを実際に行なったからなのです。これより菩薩の実践について述べることといたします。


大きな船のような有暇具足をそなえた有意義で得難い生を受けた今生で
自他共に輪廻の海から救われるために
昼夜を問わず怠けずに真理を聞き、考え、瞑想すること
それが菩薩の実践である


「彼」だけが

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 それがお前たちカルカッタの連中の唯一の道楽なのだ--説教をして、他人を教化しようとする! 誰一人、反省して自分が教えを受けようとする者はいない。他人を教えるというお前たちはいったい何者なのだ。
 宇宙の主でいらっしゃる「彼」が、あらゆる者にお教えになるのだ。
 この宇宙をおつくりになった「彼」だけが、太陽と月を作り、人と獣と他のすべての生き物をおつくりになった「彼」だけが、われわれをお教えになるのだ。彼らに生命を維持する方法を教え、子供たちに親を与えてその親たちに彼らを育てる愛をお授けになった「彼」だけが、われわれをお教えになるのだ。主は実に様々のことをしておいでになる--「彼」が、ご自分を拝む方法を人々にお教えにならないなどということがあろうか。もし彼らが教えを必要とするなら、そのときには「彼」が教師におなりになるだろう。「彼」はわれわれの、内なる導き手でいらっしゃる。
 仮に土の像を拝むことに何かの間違いがあるとしても、それによって神だけが呼び求められていることを「彼」がお知りにならないかね? 「彼」は拝まれているという、そのことだけでお喜びになるであろう。なぜそのことでお前が頭を痛めなければならないのか。お前は自分の叡智と信仰を求めて努力したほうがよい。

 お前は、土の像を拝むということを言っていた。たとえ神像は土でできていても、そのような種類の礼拝が必要なのである。神ご自身が礼拝の様々の形を与えてくださったのである。宇宙の主である「彼」が、叡智の様々の段階にある様々の人のために、これらすべての形を用意してくださったのである。
 母親は様々の子供の胃袋に合うように、様々の料理を作るだろう。五人の子供がいるとする。ここに一尾の魚があれば、彼女はそれで様々の料理を作る。ピラフとか、漬物とかフライとかいうように、彼らの好みと消化力に合わせて。--私の言うことがわかるか。

              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

どちらの面からでも

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 どちらの面からでも、信仰を持っていれば十分だ。お前は形のない神を信じている、それで結構だよ。しかし、たとえ一瞬の間でも、これだけが本当で他は全部嘘だ、などと考えてはいけない。形のある神も形のない神と全く同じように本物だ、ということを覚えておいで。ただしお前自身の信念は固く守るようにしなさい。


              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)

神の御名を一度聞くだけで

2005-03-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

 神の御名を一度聞くだけで涙が流れ、髪が逆立つようになったら、もう自分はサンディヤーのような勤行はしないでもよいと思ってよろしい。
 そうなったときにはじめて、人は儀式を捨てる権利を得た、というよりむしろ、儀式のほうがおのずから去ってしまうのだ。
 そのときには、神の御名を唱えさえすれば、またはただオームを唱えるだけでも、十分であろう。


              (ラーマクリシュナ・パラマハンサ)