七二 比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、あるいは未来を考え、または過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、過去未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべて皆この六十二種の根拠によって網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのである。
あたかも、比丘達よ、老練な漁夫もしくは漁夫の子弟が、細かい目の網によって小さな池を覆い、『この池に住む、どんなに大きな魚であっても、すべて網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのだ』と自ら考えることができるようなもので、このように、比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、あるいは未来を考え、または過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、過去未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべて皆この六十二種の根拠によって網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのである。
七三 比丘達よ、如来の身は、生へ導くものを断ち切られたものとしてとどまるのである。その身がとどまっている間は、人々と神々はこれを見るであろう。しかし、その身が壊れ命が終わった後は、人々と神々はこれを見ることはないであろう。
あたかも、比丘達よ、一束のマンゴーの木の茎が切られたときは、その茎に茂っているどんなマンゴーの果実でも、皆それに従って元から断たれるようなもので、このように、比丘達よ、如来の身は、生へ導くものを断ち切られたものとしてとどまり、その身がとどまっている間は、人々と神々はこれを見るが、その身が壊れ命が終わった後は、人々と神々はこれを見ることはないであろう。」
七四 このようにお説きになったとき、長老アーナンダは仏陀にこう申し上げた。
「大変驚くべきことです、尊師よ。大変素晴らしいことです、尊師よ。この法題を、尊師よ、何と名付けたらよろしいのでしょうか。」
「それならば、アーナンダよ、今あなたはこの法題を義網と名付けて受持するがいい。法網と名付けて受持するがいい。梵網【ぼんもう】と名付けて受持するがいい。見網と名付けて受持するがいい。無上戦勝と名付けて受持するがよかろう。」
このように仏陀はおっしゃった。歓喜した比丘達は、仏陀の説かれた教えを承り、それを実践しようと心から決意した。そして、この授記経【じゅききょう】が説かれたとき、一千世界が震動したということである。
【解説】
◎転生のカルマの滅尽
「生へ導くものを断ち切られたもの」というのは、次の転生へと導くカルマを断ち切ったもの、という意味である。
以上解釈してきた『梵網経』であるが、これは『長部経典』の中で一番最初に説かれたものとされ、二番目に『沙門果経』が説かれたとされている。こういう経典が初めに説かれているのは、当時の仏弟子がこういう経典を望んでいたからと考えられよう。彼らは解脱だけを目的として出家したのだ。だから、解脱について、あるいは解脱に至る修行法にしか興味がなかったのである。
ところが、今の仏教徒達はそうでもないし、修行をしていない学者が仏教を研究しているという有り様である。だからこそ、『梵網経』はこれまであまり日本人の脚光を浴びなかったのだろう。いくら瞑想のステージを説いたって、経験しない限り理解できるはずがないのだ。
また、学者が「これはいつもの決まり文句の繰り返しだ」とか何とかよく言っているが、私は繰り返しだとは見ない。必要だからその言葉を使っていると考えている。
◎真理は一つ――原始仏典とオウムの教義の一致
そして、オウムで言っている理論と、原始仏典の考え方が全く同じであるということを知ることができた。例えば、前にも述べたように、私はニルヴァーナに入っても、また再生するんだよという話をしてきたけれども、それも無因論で出てきた。また、『滅亡から虚空へ』の中で、アフラ世界(光音天)の話をしたけれども、この経典にもまた同じ世界観が書かれていたわけである。何回も言うようであるが、真理は一つ。世界はこのように成り立っているのである。
◎ぜひ実践を!――二つの瞑想修行
瞑想には二つのタイプの方法があると言えよう。
一つは、瞑想修行に励み、三昧に入る。そして、三昧に入ることによって、前生を知り、世界を知り、真理を理解するという方法。もう一つは――これも瞑想を使うのだが――理論的に練り上げることによって、真理を理解するという方法である。
私は読者の皆さんには、どちらかの瞑想を行なってほしいと思う。そうすれば、オウム真理教の説いていることが正しいのだと理解できるからである。そして、正しいと理解できたなら、さらに上のステージの存在、そして、そのステージに至るための修行が、オウム真理教にあるのだということを信じていただくことができるものと思う。
この経を取り上げたことが、良い結果をもたらしてくれたら、私も本当にうれしい。皆さんが仏陀釈迦牟尼のように、大乗のマハー・ニルヴァーナへ至る修行をしてくださったら、と思う。
あたかも、比丘達よ、老練な漁夫もしくは漁夫の子弟が、細かい目の網によって小さな池を覆い、『この池に住む、どんなに大きな魚であっても、すべて網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのだ』と自ら考えることができるようなもので、このように、比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、あるいは未来を考え、または過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、過去未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべて皆この六十二種の根拠によって網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのである。
七三 比丘達よ、如来の身は、生へ導くものを断ち切られたものとしてとどまるのである。その身がとどまっている間は、人々と神々はこれを見るであろう。しかし、その身が壊れ命が終わった後は、人々と神々はこれを見ることはないであろう。
あたかも、比丘達よ、一束のマンゴーの木の茎が切られたときは、その茎に茂っているどんなマンゴーの果実でも、皆それに従って元から断たれるようなもので、このように、比丘達よ、如来の身は、生へ導くものを断ち切られたものとしてとどまり、その身がとどまっている間は、人々と神々はこれを見るが、その身が壊れ命が終わった後は、人々と神々はこれを見ることはないであろう。」
七四 このようにお説きになったとき、長老アーナンダは仏陀にこう申し上げた。
「大変驚くべきことです、尊師よ。大変素晴らしいことです、尊師よ。この法題を、尊師よ、何と名付けたらよろしいのでしょうか。」
「それならば、アーナンダよ、今あなたはこの法題を義網と名付けて受持するがいい。法網と名付けて受持するがいい。梵網【ぼんもう】と名付けて受持するがいい。見網と名付けて受持するがいい。無上戦勝と名付けて受持するがよかろう。」
このように仏陀はおっしゃった。歓喜した比丘達は、仏陀の説かれた教えを承り、それを実践しようと心から決意した。そして、この授記経【じゅききょう】が説かれたとき、一千世界が震動したということである。
【解説】
◎転生のカルマの滅尽
「生へ導くものを断ち切られたもの」というのは、次の転生へと導くカルマを断ち切ったもの、という意味である。
以上解釈してきた『梵網経』であるが、これは『長部経典』の中で一番最初に説かれたものとされ、二番目に『沙門果経』が説かれたとされている。こういう経典が初めに説かれているのは、当時の仏弟子がこういう経典を望んでいたからと考えられよう。彼らは解脱だけを目的として出家したのだ。だから、解脱について、あるいは解脱に至る修行法にしか興味がなかったのである。
ところが、今の仏教徒達はそうでもないし、修行をしていない学者が仏教を研究しているという有り様である。だからこそ、『梵網経』はこれまであまり日本人の脚光を浴びなかったのだろう。いくら瞑想のステージを説いたって、経験しない限り理解できるはずがないのだ。
また、学者が「これはいつもの決まり文句の繰り返しだ」とか何とかよく言っているが、私は繰り返しだとは見ない。必要だからその言葉を使っていると考えている。
◎真理は一つ――原始仏典とオウムの教義の一致
そして、オウムで言っている理論と、原始仏典の考え方が全く同じであるということを知ることができた。例えば、前にも述べたように、私はニルヴァーナに入っても、また再生するんだよという話をしてきたけれども、それも無因論で出てきた。また、『滅亡から虚空へ』の中で、アフラ世界(光音天)の話をしたけれども、この経典にもまた同じ世界観が書かれていたわけである。何回も言うようであるが、真理は一つ。世界はこのように成り立っているのである。
◎ぜひ実践を!――二つの瞑想修行
瞑想には二つのタイプの方法があると言えよう。
一つは、瞑想修行に励み、三昧に入る。そして、三昧に入ることによって、前生を知り、世界を知り、真理を理解するという方法。もう一つは――これも瞑想を使うのだが――理論的に練り上げることによって、真理を理解するという方法である。
私は読者の皆さんには、どちらかの瞑想を行なってほしいと思う。そうすれば、オウム真理教の説いていることが正しいのだと理解できるからである。そして、正しいと理解できたなら、さらに上のステージの存在、そして、そのステージに至るための修行が、オウム真理教にあるのだということを信じていただくことができるものと思う。
この経を取り上げたことが、良い結果をもたらしてくれたら、私も本当にうれしい。皆さんが仏陀釈迦牟尼のように、大乗のマハー・ニルヴァーナへ至る修行をしてくださったら、と思う。