智徳の轍 wisdom and mercy

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◎転生のカルマの滅尽

2005-10-31 | ☆【経典や聖者の言葉】
七二 比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、あるいは未来を考え、または過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、過去未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべて皆この六十二種の根拠によって網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのである。
 あたかも、比丘達よ、老練な漁夫もしくは漁夫の子弟が、細かい目の網によって小さな池を覆い、『この池に住む、どんなに大きな魚であっても、すべて網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのだ』と自ら考えることができるようなもので、このように、比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、あるいは未来を考え、または過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、過去未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべて皆この六十二種の根拠によって網羅され、その中にとらわれて跳躍し、その中に収められ網羅されて跳躍するのである。
七三 比丘達よ、如来の身は、生へ導くものを断ち切られたものとしてとどまるのである。その身がとどまっている間は、人々と神々はこれを見るであろう。しかし、その身が壊れ命が終わった後は、人々と神々はこれを見ることはないであろう。
 あたかも、比丘達よ、一束のマンゴーの木の茎が切られたときは、その茎に茂っているどんなマンゴーの果実でも、皆それに従って元から断たれるようなもので、このように、比丘達よ、如来の身は、生へ導くものを断ち切られたものとしてとどまり、その身がとどまっている間は、人々と神々はこれを見るが、その身が壊れ命が終わった後は、人々と神々はこれを見ることはないであろう。」
七四 このようにお説きになったとき、長老アーナンダは仏陀にこう申し上げた。
「大変驚くべきことです、尊師よ。大変素晴らしいことです、尊師よ。この法題を、尊師よ、何と名付けたらよろしいのでしょうか。」
「それならば、アーナンダよ、今あなたはこの法題を義網と名付けて受持するがいい。法網と名付けて受持するがいい。梵網【ぼんもう】と名付けて受持するがいい。見網と名付けて受持するがいい。無上戦勝と名付けて受持するがよかろう。」
 このように仏陀はおっしゃった。歓喜した比丘達は、仏陀の説かれた教えを承り、それを実践しようと心から決意した。そして、この授記経【じゅききょう】が説かれたとき、一千世界が震動したということである。

【解説】
◎転生のカルマの滅尽
 「生へ導くものを断ち切られたもの」というのは、次の転生へと導くカルマを断ち切ったもの、という意味である。

 以上解釈してきた『梵網経』であるが、これは『長部経典』の中で一番最初に説かれたものとされ、二番目に『沙門果経』が説かれたとされている。こういう経典が初めに説かれているのは、当時の仏弟子がこういう経典を望んでいたからと考えられよう。彼らは解脱だけを目的として出家したのだ。だから、解脱について、あるいは解脱に至る修行法にしか興味がなかったのである。
 ところが、今の仏教徒達はそうでもないし、修行をしていない学者が仏教を研究しているという有り様である。だからこそ、『梵網経』はこれまであまり日本人の脚光を浴びなかったのだろう。いくら瞑想のステージを説いたって、経験しない限り理解できるはずがないのだ。
 また、学者が「これはいつもの決まり文句の繰り返しだ」とか何とかよく言っているが、私は繰り返しだとは見ない。必要だからその言葉を使っていると考えている。

◎真理は一つ――原始仏典とオウムの教義の一致
 そして、オウムで言っている理論と、原始仏典の考え方が全く同じであるということを知ることができた。例えば、前にも述べたように、私はニルヴァーナに入っても、また再生するんだよという話をしてきたけれども、それも無因論で出てきた。また、『滅亡から虚空へ』の中で、アフラ世界(光音天)の話をしたけれども、この経典にもまた同じ世界観が書かれていたわけである。何回も言うようであるが、真理は一つ。世界はこのように成り立っているのである。

◎ぜひ実践を!――二つの瞑想修行
 瞑想には二つのタイプの方法があると言えよう。
 一つは、瞑想修行に励み、三昧に入る。そして、三昧に入ることによって、前生を知り、世界を知り、真理を理解するという方法。もう一つは――これも瞑想を使うのだが――理論的に練り上げることによって、真理を理解するという方法である。
 私は読者の皆さんには、どちらかの瞑想を行なってほしいと思う。そうすれば、オウム真理教の説いていることが正しいのだと理解できるからである。そして、正しいと理解できたなら、さらに上のステージの存在、そして、そのステージに至るための修行が、オウム真理教にあるのだということを信じていただくことができるものと思う。
 この経を取り上げたことが、良い結果をもたらしてくれたら、私も本当にうれしい。皆さんが仏陀釈迦牟尼のように、大乗のマハー・ニルヴァーナへ至る修行をしてくださったら、と思う。

◎六触処の断滅――重要な心の調御

2005-10-31 | ☆【経典や聖者の言葉】

五八 「その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、常住論として、四種の根拠により、我【が】と世界とを常住であると説くならば、これらはすべて触なくして感受するだろうという、この道理があるということはないのである。
五九 その中で…(中略)…一分常住一分無常論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六〇 その中で…(中略)…辺無辺論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六一 その中で…(中略)…詭弁論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六二 その中で…(中略)…無因論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六三 その中で…(中略)…過去を考え、過去に対する見解…(中略)…この道理があるということはないのである。
六四 その中で…(中略)…死後に関する有想論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六五 その中で…(中略)…死後に関する無想論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六六 その中で…(中略)…死後に関する非有想非無想論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六七 その中で…(中略)…断滅論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六八 その中で…(中略)…最上現在涅槃論…(中略)…この道理があるということはないのである。
六九 その中で…(中略)…未来を考え、未来に対する見解…(中略)…この道理があるということはないのである。
七〇 その中で…(中略)…過去を考え、未来を考え、過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、以上の六十二種の根拠により、過去未来に関して様々な浮説を主張するならば、これらはすべて触なくして感受するだろうという、この道理があるということはないのである。」

七一 「その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、常住論として、四種の根拠により、我と世界とを常住であると説くならば、またどのような沙門や婆羅門であっても、一分常住一分無常論を…(中略)…辺無辺論を…(中略)…詭弁論を…(中略)…無因論を…(中略)…過去の考えを…(中略)…死後に関する有想論を…(中略)…死後に関する無想論を…(中略)…死後に関する非有想非無想論を…(中略)…断滅論を…(中略)…最上現在涅槃論を…(中略)…過去の考えを…(中略)…未来の考えを…(中略)…過去を考え、未来を考え、過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、これら六十二種の根拠により、過去未来に関して様々な浮説を主張するならば、すべてこれは、しばしば六触処【ろくそくしょ】を触して感受するものであって、この触には受を縁として愛が起こり、愛を縁として取が起こり、取を縁として有が起こり、有を縁として生が起こり、生を縁として老・死・憂・悲・苦・悩・悶【もん】が起こる。比丘達よ、したがって、比丘が六触処の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知るならば、彼はすなわち、これらすべてよりも優れたことを知るのである。

【解説】
◎六触処の断滅――重要な心の調御
 この部分は、前と逆の言い方で、経験なくしては知り得ないということを言っているのである。つまり、“触”を瞑想上の経験とするならば、その経験がなかったら、そういう考えも出てこないというのだ。
 で、「すべてこれは、しばしば六触処を触して感受するもの」とされているが、六触処というのが、目・耳・鼻・口・触覚・意なのである。そして、これらを滅するならば、すべてを断滅することができると、仏陀釈迦牟尼はおっしゃっているわけだ。つまり、自分の存在そのものを断滅し、消滅し、超えることができる。それによって、これまでの様々な浮説以上の世界を経験できると言われているのである。
 ただ、ここで一つ問題がある。目はシャットアウトできる。見なければよいのだから。同じように、耳は聞かなければいい。鼻は嗅【か】がなければいい。口は味わわなければいい。触覚も触れなければいい。でも、一つだけやっかいなものがある。それは“意”、すなわち心である。
 例えば、セックスをしたいとか、あるいはうまい物を食べたいとか、あるいはプライドを満足させたいという心の働きがある。だから、心が完全に一切から遮断された状態を作らない限り、心の調御はできない。最後は、やはり心の調御ということになるだろう。
 そして、仏陀釈迦牟尼はその一言を言いたいがために、延々と説法をしていらっしゃったようなものなのだ。
 ところで、仏陀釈迦牟尼の輪廻転生観と私の輪廻転生観は同じであった。それは、最高位にあるマハー・ニルヴァーナに入らなければ意味がないとしていることだ。前述のように、ニルヴァーナには段階がある。どの段階に入ったとしても、とにかくそこではいったん止まることは間違いない。しかし、そこがマハー・ニルヴァーナではなかったら、完璧に心の波が止まっているわけではないから、また元に戻ってしまうのだ。だから、それでは意味がない、マハー・ニルヴァーナに入らなければならないと考えているのである。

人の創造物に実体はなし

2005-10-29 | ☆【経典や聖者の言葉】

 召使と親族は放棄すべし
 愛著と邪悪心の源ゆえに。
 森の中に、隠棲のうちに、人里はなれ
 一人瞑想に励むべし。
 瞑想の不在なる境地にとどまり
 無達成を達成すれば、マハームドラーは達成されり。
 サンサーラのダルマは狭量なり
 愛著と邪悪心の源ゆえに。
 人の創造物に実体はなし
 それゆえ、究極の実体をたずぬべし。
 心のダルマは超越せる心の真意を汲むことはできない。
 行為のダルマは無為の真意を見出すことはできない。

◎限界に来た経験

2005-10-20 | ☆【経典や聖者の言葉】

四五 「その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、常住論として、四種の根拠により、我と世界とを常住であると説くならば、これはまた触【そく】を縁とするのである。
四六 その中で…(中略)…一分常住一分無常論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
四七 その中で…(中略)…辺無辺論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
四八 その中で…(中略)…詭弁論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
四九 その中で…(中略)…無因論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五〇 その中で…(中略)…過去を考え、過去に対する見解…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五一 その中で…(中略)…死後に関する有想論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五二 その中で…(中略)…死後に関する無想論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五三 その中で…(中略)…死後に関する非有想非無想論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五四 その中で…(中略)…断滅論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五五 その中で…(中略)…最上現在涅槃論…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五六 その中で…(中略)…未来を考え、未来に対する見解…(中略)…これはまた触を縁とするのである。
五七 その中で…(中略)…過去を考え、未来を考え、過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、以上の六十二種の根拠により、過去未来に関して様々な浮説を主張するならば、これはまた触を縁とするのである。」

【解説】
◎限界に来た経験
 「触を縁とする」というのは、例えば、瞑想の経験によって、その世界を見、それがすべてであると考えてしまうということを言い表わしている。言い換えれば、経験が限界に来ているということを言っているわけだ。

◎とらわれの“愛”

2005-10-15 | ☆【経典や聖者の言葉】

三二 「その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、常住論として、四種の根拠により、我【が】と世界とを常住であると説くならば、これは彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門の不知と不見とによって受けたものであって、しかも愛にとらわれた動揺した偏見にすぎないのである。
三三 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、一分常住一分無常論として、四種の根拠により、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
三四 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、辺無辺論として、四種の根拠により、世界が辺無辺であると説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
三五 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、詭弁論として、四種の根拠により、それぞれのことについて質問が出されたとき、支離滅裂な言い方をする詭弁論に入るならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
三六 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、無因論として、二種の根拠により、我と世界とを無因にして起こると説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
三七 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、過去を考え、過去に対する見解を持つものとして、以上の十八種の根拠により、過去に関して様々な浮説を主張するならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
三八 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、死後に関する有想論として、十六種の根拠により、死後に我が有想であると説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
三九 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、死後に関する無想論として、八種の根拠により、死後に我が無想であると説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
四〇 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、死後に関する非有想非無想論として、八種の根拠により、死後に我が非有想非無想であると説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
四一 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、断滅論として、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
四二 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、最上現在涅槃論として、五種の根拠により、現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
四三 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、未来を考え、未来に対する見解を持つものとして、以上の四十四種の根拠により、未来に関して様々な浮説を主張するならば、これは彼ら…(中略)…偏見にすぎないのである。
四四 その中で、比丘達よ、どのような沙門や婆羅門であっても、過去を考え、未来を考え、過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、以上の六十二種の根拠により、過去未来に関して様々な浮説を主張するならば、これは彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門の不知と不見とによって受けたものであって、しかも愛にとらわれた動揺した偏見にすぎないのである。」

【解説】
◎とらわれの“愛”
 「愛にとらわれた動揺した偏見」の愛というのは、愛執ということである。

◎最上現在涅槃論――段階が存在するニルヴァーナ

2005-10-13 | ☆【経典や聖者の言葉】

一九 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、最上現在涅槃論を抱く者がいる。彼らは、五種の根拠により、現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、最上現在涅槃論として、五種の根拠により、現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのであろうか。
二〇 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、次のような説と次のような見解を持つ者がいる。
『本当に、この我は、現在において五欲の楽を満足し具足してふけることがある。すなわち、そのとき、この我は最上現在涅槃に達したものとなるのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのである。
二一 これに対して、別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、実際には、この我はまだ最上現在涅槃に達してはいないのである。それはどうしてであろうか。五欲は無常であって苦であり、しかも転変するものであって、その転変することによって変化するために、憂・悲・苦・悩・悶【もん】が生じるからである。しかし、この我において、本当に諸々の欲を離れ、不善法を離れ、有尋有伺【うじんうし】にして、しかも離から生じる喜楽がある初禅に達してとどまることがある。すなわち、そのとき、この我は最上現在涅槃に達したものとなるのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのである。
二二 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、実際には、この我はまだ最上現在涅槃に達してはいないのである。それはどうしてであろうか。そこでは、有尋有伺であるために、その初禅は粗雑であるといわれているからである。しかし、この我において、本当に尋伺を滅し、内心は静安となり、心が一点に集中する状態を得て、無尋無伺にして、しかも定【じょう】から生じる喜楽がある第二禅に達してとどまることがある。すなわち、そのとき、この我は最上現在涅槃に達したものとなるのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのである。
二三 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、実際には、この我はまだ最上現在涅槃に達してはいないのである。それはどうしてであろうか。そこでは、喜があり、心が落ち着かず騒がしいために、その第二禅は粗雑であるといわれているからである。しかし、この我において、本当に喜を脱し、捨となってとどまり、正念正智にして、その身によって楽を感受し、諸々の聖者が「捨にして念がある楽住である」と宣説する第三禅に達してとどまることがある。すなわち、そのとき、この我は最上現在涅槃に達したものとなるのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのである。
二四 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、実際には、この我はまだ最上現在涅槃に達してはいないのである。それはどうしてであろうか。そこでは、これは楽であるという、心の作意【さい】があるために、その第三禅は粗雑であるといわれているからである。しかし、この我において、本当に楽を捨て離れ、苦を捨て離れ、また以前にあった喜悦と憂悩とを滅して、不苦不楽にして、しかも捨念清浄である第四禅に達してとどまることがある。すなわち、そのとき、この我は最上現在涅槃に達したものとなるのである。』
 このように、ある者は現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くのである。
二五 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、最上現在涅槃論として、五種の根拠により、現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、最上現在涅槃論として、現に生存し続けている有情の最上現在涅槃を説くものは、すべてこの五種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
二六 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

二七 「これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、未来を考え、未来に対する見解を持つものとして、以上の四十四種の根拠により、未来に関して様々な浮説を主張するものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、未来を考え、未来に対する見解を持つものとして、未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべてこれら四十四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
二八 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

二九 「これらがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、過去を考え、未来を考え、過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、以上の六十二種の根拠により、過去未来に関して様々な浮説を主張するものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、過去を考え、未来を考え、過去未来を考え、過去未来に対する見解を持つものとして、過去未来に関して様々な浮説を主張するものは、すべてこれら六十二種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三〇 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
 これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」

【解説】
◎最上現在涅槃論――段階が存在するニルヴァーナ
 「この我は、現在において五欲の楽を満足し具足してふける」ときが最上現在涅槃だとする説、これが第一に挙げられている最上現在涅槃論である。現代でも、バグワン・シュリ・ラジニーシという宗教家が、まさにこれと同じことを説いている。
 そして、次々と第五番目の最上現在涅槃論まで説かれているが、ここで“最上”という言葉が使われていることからもわかるように、ニルヴァーナには段階があるのである。もともとニルヴァーナそのものが寂静という意味だから、それに段階があっても何の不思議もない。水の大いに波立っている状態から少し静まればそれも寂静だし、また、それがどんどん静まって完璧に揺れない状態が得られれば、それはもう完全な涅槃、マハー・ニルヴァーナである。だが、この最上現在涅槃論は最上まで行っていない。
 また、私は先の断滅論とこの最上現在涅槃論とを入れ替えた方がいいと思う。なぜなら、第五に挙げられている最上現在涅槃論以上のステージとして、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処と来るからだ。
 さて、初禅から第四禅というのは、やはりニルヴァーナであるのだが、仏教学者で、初禅から第四禅というのは色界、空無辺処からが無色界であると言っている者があるらしい。学者は瞑想していないのだから、彼らの言うことは全部無視しないとかえって危険である。
 一方、昔の仏教学者というのは、同時に修行者であって、経典に書かれている世界を自分でも体験しようとしたわけだ。例えば、玄奘三蔵【げんじょうさんぞう】だってそうだし、クマーラジーヴァだってそうだし、ヴァスバンドゥだってそうだ。それが、後世になればなるほど、どんどんどんどん体験が少なくなって、経典が優位になってきてしまったわけだ。