記憶修習述に関係づけられた経典(サティパッターナ・サンユッタ)
一九、セーダカ
あるとき、世尊はスンバ国にあるセーダカという名前のスンバ国の町にとどまっておられた。
そこで実に、世尊は向煩悩滅尽多学男たちに呼びかけられた。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、その昔、竹と鉄ボールの曲芸をする者が鉄ボールの曲芸のための竹を建てて、弟子のメーダカターリカーに呼びかけた。
『来なさい、君、メーダカターリカーよ、君は鉄ボールの曲芸のための竹に乗って、わたしの肩の最上部にとどまりなさい。』
『わかりました、大師よ。』
と、向煩悩滅尽多学男たちよ、実に弟子のメーダカターリカーは竹と鉄ボールの曲芸をする者に承諾し、鉄ボールの曲芸のための竹に乗って、大師の肩の最上部にとどまったのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、直ちに、竹と鉄ボールの曲芸をする者は、弟子のメーダカターリカーにこう言った。
『君、メーダカターリカーよ、君はわたしを守りなさい。わたしは君を守ろう。このようにわたしたちは、お互いに保護し、お互いに守り、種々の技芸を見せて、それのみならずそして利得を得て、それのみならずそして安全に鉄ボールの曲芸のための竹を降りよう。』
向煩悩滅尽多学男たちよ、このように言われたとき、弟子のメーダカターリカーは竹と鉄ボールの曲芸をする者にこう言った。
『大師よ、その場合においては、これはそのとおりではないでしょう。大師よ、あなたは自分自身をお守りください。わたしは自分自身を守ります。わたしたちはこのように、自分自身を保護し、自分自身を守り、技芸を見せて、それのみならずそして利得を得て、それのみならずそして安全に鉄ボールの曲芸のための竹を降りましょう。』
それがそこで正しい体系なのである。」
弟子のメーダカターリカーが、大師に言ったように、世尊は演説なさった。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、『わたしは自分自身を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。『わたしたちは他人を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。向煩悩滅尽多学男たちよ、自分自身を守りながら他人を守り、他人を守りながら自分自身を守るのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、そしてどのように、自分自身を守りながら他人を守るのであろうか。熟練によるのであり、修習によるのであり、真面目に行なうことによるのである。向煩悩滅尽多学男たちよ、このように実に、自分自身を守りながら他人を守るのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、そしてどのように、他人を守りながら自分自身を守るのであろうか。忍辱によるのであり、非残酷によるのであり、聖慈愛の本質によるのであり、哀れみの本質によるのである。向煩悩滅尽多学男たちよ、このように実に、他人を守りながら自分自身を守るのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、『わたしは自分自身を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。『わたしたちは他人を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。向煩悩滅尽多学男たちよ、自分自身を守りながら他人を守り、他人を守りながら自分自身を守るのである。」
一九、セーダカ
あるとき、世尊はスンバ国にあるセーダカという名前のスンバ国の町にとどまっておられた。
そこで実に、世尊は向煩悩滅尽多学男たちに呼びかけられた。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、その昔、竹と鉄ボールの曲芸をする者が鉄ボールの曲芸のための竹を建てて、弟子のメーダカターリカーに呼びかけた。
『来なさい、君、メーダカターリカーよ、君は鉄ボールの曲芸のための竹に乗って、わたしの肩の最上部にとどまりなさい。』
『わかりました、大師よ。』
と、向煩悩滅尽多学男たちよ、実に弟子のメーダカターリカーは竹と鉄ボールの曲芸をする者に承諾し、鉄ボールの曲芸のための竹に乗って、大師の肩の最上部にとどまったのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、直ちに、竹と鉄ボールの曲芸をする者は、弟子のメーダカターリカーにこう言った。
『君、メーダカターリカーよ、君はわたしを守りなさい。わたしは君を守ろう。このようにわたしたちは、お互いに保護し、お互いに守り、種々の技芸を見せて、それのみならずそして利得を得て、それのみならずそして安全に鉄ボールの曲芸のための竹を降りよう。』
向煩悩滅尽多学男たちよ、このように言われたとき、弟子のメーダカターリカーは竹と鉄ボールの曲芸をする者にこう言った。
『大師よ、その場合においては、これはそのとおりではないでしょう。大師よ、あなたは自分自身をお守りください。わたしは自分自身を守ります。わたしたちはこのように、自分自身を保護し、自分自身を守り、技芸を見せて、それのみならずそして利得を得て、それのみならずそして安全に鉄ボールの曲芸のための竹を降りましょう。』
それがそこで正しい体系なのである。」
弟子のメーダカターリカーが、大師に言ったように、世尊は演説なさった。
「向煩悩滅尽多学男たちよ、『わたしは自分自身を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。『わたしたちは他人を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。向煩悩滅尽多学男たちよ、自分自身を守りながら他人を守り、他人を守りながら自分自身を守るのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、そしてどのように、自分自身を守りながら他人を守るのであろうか。熟練によるのであり、修習によるのであり、真面目に行なうことによるのである。向煩悩滅尽多学男たちよ、このように実に、自分自身を守りながら他人を守るのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、そしてどのように、他人を守りながら自分自身を守るのであろうか。忍辱によるのであり、非残酷によるのであり、聖慈愛の本質によるのであり、哀れみの本質によるのである。向煩悩滅尽多学男たちよ、このように実に、他人を守りながら自分自身を守るのである。
向煩悩滅尽多学男たちよ、『わたしは自分自身を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。『わたしたちは他人を守ろう』と、記憶修習述は用いられるべきである。向煩悩滅尽多学男たちよ、自分自身を守りながら他人を守り、他人を守りながら自分自身を守るのである。」