毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「政治なんか自分と関係ないね、の心」No.3911

2020-07-02 23:45:09 | 反戦平和

   ↑2016年都知事選 得票数と棄権者数の比較

 

高校時代、つまり今から半世紀も前に、

苦手な漢文の教科書に書かれてあった中国の話が

最近何度も頭をよぎるのです。

〈老人がいて、腹鼓を打って歌いながら言う。「日の出とともに働き、日が没したら休むだけだ。井戸の水を飲み、田を耕して食べる。天下泰平、いい暮らしさ。皇帝の政治なんか自分と何の関係もないね。」と〉

平和な世で安寧な暮らしができているから

そういうことも言えるので、政治がめちゃくちゃだと

のんびり腹鼓なんか叩いていられない、という故事でしたが、

何十年間もすっかり忘れていたのに

なぜなぜ急に思い出したかと言うと、

この中国古代の政治に関知しないお爺さんと、

現代日本の人々の政治への無関心な有様

同じなのだろうか

という疑念が湧いたためです。

(・・・なんか、違う。

腹鼓を打って歌いたくなる幸せ感、満足感は

今の日本社会にはない)

私はそう思わざるを得ません。

実は、今まで約10年間、

夏休みと冬休みの年に2回、帰国するたびに、

空港に降り立った時の日本の空気、人々の表情が

中国のそれとは違い、

どことなく、沈鬱な雰囲気を漂わせているのを

感じ続けてきました。

静かだと言えばそうなのですが、

どうもそれだけではありません。

また、朝、出勤・通学のため街行く人々に

活き活きした力強さがなく、

どこかくたびれた印象を覚えるのです。

日本社会で暮らす人々は小さい子供を除いて

多くが疲れているように私には思われます。

その原因は、楽しくもない仕事や学習に

長時間拘束されているためとしか考えられません。

(中国でも長時間勉強させられている高校生たちの表情は

やはり暗いですが、それ以外の人々は目が輝いています)

 

では、十分に充足し、心から楽しく過ごしているわけでもないのに

なぜ多くの日本の人々は政治に無関心なのか?

これが問題です。

 

日本人として日本に生まれて育ち、

高校生の頃には社会を批判的に見る視点を持ち始めた私が

家のテレビニュースなどで政府批判の話をすると、

たちまち母が(父は議論に参加しない人でした)

「政治家はお前なんかよりずっとものを知っている。

政治は政治の専門家にまかせておけばいいんだ。

お上に盾突くものではない。

政府を批判するお前はどこの国の人間だ。アメリカ人か。

親に学問がないからと馬鹿にしてはいけない。

親の言うことを聞け。」

と言ったものです。

その時はたいがい泥沼の言い合いとなり、最後に母は

「頭が痛くなった」と言って

布団をかぶって寝るのがパターンでした。

 

それでは私は、

日本では例外的な反抗的人間なのでしょうか。

自分ではすぐに何でも信じやすい思慮浅い性格だから

色々な面から物事を見ないといけないと

常に自戒して生きてきたのですが……。

「お上の言うことに逆らってはいけない。

父母の教えを素直に聞かなければならない。」

まるで「自分の頭で考えるな」と言うかのごとき母の言葉は、

なんと江戸時代の寺子屋の教科書『実語教』の

「父母は天地の如く、師君は日月の如し」

 「父母には朝夕に孝せよ。師君には昼夜に仕へよ」

とそっくりです。

ひょっとして、多くの日本人の頭の中には

大正九年生まれの我が母と同様に、まだ、

「お上に逆らってはいけない」意識があるのでしょうか。

ただ、くたびれ過ぎて思考停止状態なのではなく……。

それか、政治に参加しないことで、

政治への不信感を表現しているのかもしれません。

でも、それでは今の政治への全権委任になるということぐらい

すぐに分かりそうなものですけど。

 

1945年の敗戦後、

日本中がこれからは民主主義の世の中だと活気づいていたのは

ただ一時の流行りに過ぎなかったのでしょうか。

私の思考はたまたま、その一時の古いダサい民主主義に

今も拘ってる超オールドファッションなのでしょうか。

いったい、民主主義とは、

流行りで片づけていいものなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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