毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

高石友也さん逝く

2024-08-23 23:43:48 | 反戦平和

     

私の想う高石友也さんは若い青年の姿をしている。

1960年代末、私の高校(北海道の東の端にある高校)にギターとともに現れて

体育館で歌ってくれたあの姿だ。

当時、労音(全国勤労者音楽協議会)が斜里にもあって

動労(国鉄動力車労働組合)がその主軸を担っていたというかすかな記憶がある。

それまで歌声運動みたいな合唱団を呼んでいたらしいが、

私はさっぱり関心がなかった。

当時は、フォークブームが北海道の地の果てにも確実に影響を与えており、

兄がジョーン・バエズ、ブラザースフォー、アニマルズなどのレコードを

朝っぱらから目覚まし代わりに家の古い蓄音機で鳴らすので、

私も中学生の頃から「雨を汚したのは誰」「朝日の当たる家」なんか好きだった。

また、オールナイトニッポン、パックインミュージックなど深夜放送の電波が

北京放送局やロシア語放送などに混じって本州から切れ切れに届くのをほぼ毎晩聴いていた。

親はてっきり勉強しているとばかり思っていただろう。

いや、勉強も少しはしていたのだ。   

「オールナイトニッポン」月曜のDJ糸井五郎さんが面白いテープがあると言って

「帰ってきたよっぱらい」をかけたとき、たまたま私は寝ないでいた。

次の日は当然、中学校で「ちょっとあれ聴いた?すごいね」と

先進的(笑)な深夜族の友人と興奮して騒いだものだった。

フォーククルセイダーズも好きになった。

ずっと後の年、

中国帰国者の中でほぼ同年代の方本人から

同じ時期、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、

自分や兄弟姉妹の命を守るために必死で

学校どころじゃなかったと聞いて愕然としたことがある。

当時、中学生だった私にとって他国の争い事は

自分と関係ないよその国のできごとだった。

・・・・・・

1960年代末期の北海道の知床半島の根本にある小さな町の社会的ムードは

労音をして歌声からフォークへと招く対象に変化を与えた。

高石友也の名は町の中学・高校では音楽好きな子たちに知られており、

労音のポスターを見て私たちは色めき立った。

そういうことで当日の夜は夢のような時間を過ごしたという訳である。

それだけでも一生残る思い出だったのに、

高校三年の先輩にかき口説かれた高石さんは翌日、斜里高校にやってきて、

昼休みに体育館のステージで5時間目が始まるまで歌ってくれたのだ。

その時、そこにいた私たちは全員、

この度の高石友也さんの訃報を聞いてこのシーンを想ったはずだ。

 

その数か月後、労音は今度は岡林信康さんを呼んだ。

私の芯に歌を友とする人生が刻印された次第である。

 

「春を待つ少女」「私に人生と呼べるものがあるなら」「陽気に行こう」e.t.c.

高石さんの歌でよく口ずさむのはこんな歌だが、

今日はこれをハーモニカで吹いて高石さんを送りたい。

高石さん、本当にありがとう。

「ランブリング・ボーイ」元々はトム・パクストン(Tom Paxton)が1964年にリリースした曲。高石友也さんは彼の「学校で何を習ったの」なども和訳して歌っていました。

 

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