パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「お上」に声を上げること

2015年10月08日 16時29分58秒 | あれこれ考えること

先週の日曜日、小牧市では図書館建設に関する住民投票があり
反対派が勝利をおさめたとテレビ報道があった
その中で「お上が決めたことだから仕方ないのではなく、
庶民から見ておかしいということは声をあげなくてはならない」
と発言した反対派の方がいたが、これはそっくりそのまま新城市にも当てはまった

それどころか、国の問題でも同じで、
安保関連法案は絶対的多数のお上が決めたことに関して
庶民が声を上げてデモを各地で行う事態となった

国内のあちこちで、この様なお上任せの進め方に関する
批判が多くなって来ているのではないかと想像される
そして、こうした活動を行った地域は、
その参加者は必然的に自治とは何か?民主主義とは何か?
と深く考えざるを得なくなった

市民が、あるいは国民が主役の(主権者の)政治
これはごく当たり前のように感じるが
これが現実的に如何に難しいか
いろんな本を読むとつくづく感じてしまう

そもそも政治とはある種の特殊な技術・知識・判断力を要する
専門職の行う行為であり、なんら特別の能力を持たない庶民が
果たしてちゃんとした方向性や法律を作成できるのか
という疑問が湧いてくる

庶民はいい意味でも悪い意味でも感情的になる可能性がある
こうした不安にポピュリズムが、ありネットで調べると

庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、
ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。
しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、
民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。

とある。
また生まれながらに人には自由が存在すると一概に考えると
これがなかなかそう簡単には行かず
フロムの「自由からの闘争」では

自由というものは本来はそれが与えられることに対しての孤独責任を受け止めるということが求められるわけであり、
[要出典]その覚悟を持った上で自由を希求して得た者によって構成される社会こそが望ましい社会の形態といえるわけである。[要出典]

孤独や責任を受け止める覚悟を持たずとも全ての人間に対して自由が与えられており、その時に自由が与えられていた大衆というのが自主的に孤独や責任を受け止める覚悟を持とうとすることもなく、自身の幸福を追求することのみの判断を行ったのがナチスを容認した活動
とされている

この自由に関する文学的な深い考察はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のなか
有名な大審問官の場面でも登場する
果たして人間に本当の意味の自由なんぞは必要なのか
自分で決めて自分で責任を持つそんな面倒なシステムは払い下げで
何かある方向を指し示してくれるに従うほうが楽で
本当の自由を解く救い主は今は必要とされない、、、云々 

アメリカが正義と口にする時、続いて出てくることば「自由と民主主義」
この自由も実はかなりぐらついた存在でしかあり得ない
そして、アメリカが自分たちのもっとも進んだシステムを世界に
広めることは決して悪いことではないと単純に思っていることでさえ
実は相対的な見方からすれば、ある時代、ある地方の考え方にすぎない

イスラムにはイスラムの、ヒンズーにはヒンズーの、また各地には各地の
必然的に沸き起こって運営されてきたシステムが有り、
それは欠点が多いために改良すべき点があったとしても
アメリカ流の自由・民主主義がゴリ押しされて受け入れるよならば
その時点で自由はなくなっている
(悪意はなかったとしても)

こうして自由は庶民にとって必要不可欠なものとされながら
実のところ自ら責任を追わなければならなかったりして
扱い難い概念になっており、普段は考えることをしないし
無関心になっていき、最後にはお任せになるしかないのかもしれない

話がまとまらないが、オルテガの「大衆の反逆」にも
大衆の政治活動は衆愚政治に繋がる危険性を説いている

しかしながら、ここまで悲観的な意見や見方がありながら
自分は現時点では、市民や国民が主人公のシステムは
(彼らが中心となって決めることのできるシステムは)
この日本においては必要なものではないかと考える

なぜならば、フロムやオルテガの心配する大衆の暴走は
まだ日本には起きておらず、その暴走の反省をするよりも
大衆の意見の盛り上がりさえなかったことに問題がありそうだからだ

雰囲気的に大衆の暴走に
戦前が当てはまるかもしれないと考えられそうでも
日本はどちらかと言えば上からの扇動に近いのではないか

今の、いや今までの日本人のよくなかったことは
冒頭にあげた「お上」の意見をそのまま受け入れてしまった
ということになりそう
それに対して「なにか違う」と声を上げ始めた
この事実から、この声を上げる連中が暴走し始めるまでには
まだ時間がかかりそう
ならばここで先人たちの知恵を借りて暴走しないシステムを
みんなで考えていくことが自分たちの知恵とか財産になりそうな気がする

少しばかりむずかしい問題に取り組みすぎたせいで
何が何だかわからなくなってきた
しかし、これはしっかり考えていかなくてはならない問題なのは
間違いない

機会があれば、すっきりまとまったところで再度挑戦(投稿)かな
 


 



 

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