スピリチュアル・ライフ by birch99

スピリチュアリズムを小脇に抱えて・・・スピリチュアルな視点で日常を綴ります。

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール著)

2016-09-14 15:51:16 | ◆スピリチュアリズム・本

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール著)

 

今年の2月、某会に出席した時に、この本を教えて頂きました。ちょうど年明けからヴィパッサナー瞑想にチカラを入れていた

ので実にタイムリーでした。出逢いとは本当に不思議なものです。

もし、紹介されなければ、この題名を見て、まず手に取らないだろうと思います。「さとりをひらく」が非常に安易に使われて、

私の今までの蓄積された先入観では、「かるい」としか思えないからです。

しかし、内容は実に濃く、分かり易く、スゴイ本でした。

(但し、この本に関してのamazonのカスタマーレビューを見ると意見も様々です。 知人からはこの本は「初心者には猛毒」

だと意見をもらっています。私的には、エレメンタルの研究→ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)から縁があって、

この本に出逢った感想です。)

覚書として、内容の一部を自分の言葉で抜粋しておきます。

 

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ブッダの定義
悟りとは、苦しみの終わりである。
悟りの正体は自分自身でで見つけ出すべきものである。

この本での「悟り」とは、
完全に強烈に「いま」という時に集中していれば「大いなる存在」を感じる事ができ、
「大いなる存在が、自分とともにある」という感覚を保ち続ける事が「悟り」である。

「大いなる存在」こそが「人間の本質」である。

自分の思考は、「本当の自分」ではない。
思考の騒音、暴走は不安や苦しみをこしらえる「にせの自分」をでっち上げる。

悟りを開くと、思考をコントロールできるようになり、思考に振り回されなくなる。
思考すると、レッテル、決めつけなどの歪んだ形で世界を眺めてしまう。
自分自身さえも、そのように眺めてしまう。自分を病気にさえしてしまう。

「思考」に振り回されるのではなく、「思考」を使いこなす。
「思考」は問題を抱えたがる。
「思考」のオンオフスイッチを持つ。
「思考」を客観的に眺める。
「思考」は意見する、推測する、判断を下す、比較をする、文句を言う、好き嫌いを言う、
といった事を休みなく行っている。
「思考」は過去というものさしを使って物事を判断し、現実を歪める。

思考を客観的に眺める、頭の中の声に耳を傾ける、思考を見張る。
すると、それを観察する本当の自分が居ると分かるようになる。

思考がおしゃべりを止めると「無心状態」が生まれる。心の平安を実感する。
経験を積めば積むほど平安の度合いは深まり、この度合いには限界はない。
この「無心状態」(無我の境地)=「大いなる存在との一体感」なのである。

「思考を客観的に眺める」以外にも、「意識を100%「いま」に集中させて、思考回路を
遮断する」無心状態を作る方法がある。(ヴィパッサナー瞑想・マインドフルネス)

「思考」を「ほんとうの自分」とみなすことを止める。
「思考」と「思考」の間に隙間を作る。
「思考力」は、あくまで「道具」である。
「道具」は仕事をするために使うものであり、仕事が終わったら片付ける。
しかし、人の思考活動は80~90%が堂々巡り、無駄、ネガティブな性質、快楽
の為にむしろ有害である。

「コントロールできない思考」は、中毒症状の一種である。

人は、思考力によって自分のアイデンティティを確立している。自分の存在価値を
測る尺度にしている。

「にせの自分」(エゴ)は、思考活動があることで、その存在が成り立っている。
エゴには、「いま、この瞬間」という時はない。
エゴにとっては、過去と未来が全てである。
エゴはいつでも、過去というメガネを通して、現在を眺めている。
それが原因で、現実をひどく歪めている。

思考は意識活動の中のひとつの側面である。意識は存在するために思考を必要としない。
悟りを開いてからでも、必要な時には、もちろん思考を使う。
悟りを開いた人は、目的がある時にだけ、思考を使う。
思考状態、無心状態を交互に経験しなければ、真に創造的なアイディアを着想する事はできない。
思考力は、基本的には、人間にとって情報収集、保管、分析、さらには他の思考に対する防御や
攻撃などの「サバイバルのための道具」である。


感情は思考の状態に応じた、からだの反応である。

思考と感情にギャップがある場合、思考が「ウソ」で感情が「ほんもの」である。
その時の感情は、その時点での本音である。表面的な思考と潜在意識の食い違いは多々ある。
感情の観察の仕方は、思考を客観的に眺める方法と基本的には同じだが、感情はからだの
多くの部分と密接に結びついているために、主にからだで感じられる。

感情を観察する事も思考を観察する事と同じぐらい大切である。
「いま、この瞬間、わたしの心で、何が起こっているのだろう?」と自問する習慣をつける。
分析せずに観察するだけでよい。感情は、たいてい思考がエネルギーによって膨れ上がり
表面化したものである。

感情は私たちを支配したがり、ほとんどの場合、それに成功する。ただし、自分が感情を
追い払えるだけ、「いまに在る」なら、話は別である。

思考の主な仕事は、感情的な「痛み」と闘い、それを取り除くことである。これが休む暇も
なく活動している理由のひとつである。
ところが皮肉なことに、思考が、「痛み」を取り除こうと奮闘すればするほど、傷口は広がる
一方である。
なぜなら、そもそも思考そのものが、「痛み」をこしらえている「張本人」だからである。
思考とひとつになり、それを「ほんとうの自分」だと思い込むのを止めない限り、「痛み」
から解放されることはない。

感情を超えた本物の「愛」「喜び」「平和」は、「大いなる存在」と繋がっている状態の三本柱である。
悟りを開いていない人が体験する「喜びのようなもの」は、永遠にうつり変わる「痛みー快楽」
サイクルのうちの、つかのまに「快楽」であることがほとんどである。
「喜び」は、自分の内面から湧き出るものであるが、「快楽」は自分の外側からもたらされた
ものである。