空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

ホテルルワンダ

2006-12-09 17:29:25 | 映画
泣いた。
映画が終わってしばらく外に出たくなかった。
目が真っ赤だったから。

わたしが一番泣いたのは、
白人の人たちがルワンダの人々を見捨てて
逃げてゆこうとする場面だった。
ルワンダ人のホテルマンが
雨の中出てゆく白人のカメラマンに傘をさした。
「ささないでくれ。恥ずかしい。」
そう言って彼はいたたまれない面持ちでバスに向かう。
まるで自分がその人であるようないたたまれなさを覚えた。

殺戮する者、それに怯える者、その場から逃げ去る者。
その全てが限りなく哀しい。
なぜならわたしはその全てだから。そのどれにもなりうるから。
人間の哀しさを何よりも一番感じたシーンだった。

これは実話です。
1994年、100日で100万人が大虐殺されたルワンダで、
1268人の人々を支配人である自分のホテルでかくまった
あるホテルマンの緊迫の日々を描いています。
ただこれを特別な場所の
ひとりの特別な人間の話で終わらせてしまっては、
ルワンダで払われた100万人の犠牲に対し申し訳ないし、
このホテルマンのポール・ルセサバギナさんの本意から
はずれるでしょう。
日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺から
まだ100年経っていないのです。

元々共存していたツチ族とフツ族を
あえて人為的に分裂させていった根深い西欧の強権的利権的エゴと、
それに助長された人間の奥深いエゴがこの悲劇をもたらしました。

とてもリアルだった。
心情を表現するために監督と主演のドン・チードルが
たましいをそそいだシーンがあります。
大量の虐殺死体を見た後にポールが着替えようとして
手がわなないてネクタイを結べず、
引きちぎって慟哭するシーンです。
その場ならおそらく、そうでしかないであろうというシーンです。
妻のタチアナが民兵に殺されそうになった後に
ヒリヒリするような取り乱し方をするのもそうです。

ここにあるのは、誰かを虐げることで鬱憤を晴らし
自分を優位に置こうとする“人の根源的なエゴ”で、
それはわたしたち自身の中に毎日、
毎瞬間のように浮上するものです。
マッチのような火が集まり、山火事になってしまったのです。
殺戮する者ではあり得ないと思い上がる自分を
まず観る必要があるし、
目をつぶり、いつも逃げたい自分であることも観る必要があり、
ここに横たわるものはまったく対岸の火事ではありません。
日本にも毎日のように虐殺は起こっています。
目には見えなくとも心は殺されます。
自分と人を分けて断罪してゆく自らのこの性(さが)を、
せめていつも自分の中に
白日にさらしていかなくてはならないのでしょう。
誰かを判断して悪く言う、攻撃するという、
我が少しでも人の上に立とうとする
空しい作業を断ち切ってゆかないと、
いつでもどこでもこれは起こるし、起きていることです。
判断・断罪ではなく、違うなら違うという識別に留め、
むしろ違いをこそ尊重してゆかないと
争いはなくならないのでしょう。
そしてそういったエゴを助長する行き過ぎた欲得は
手放さないと・・。

ただ、ひとつ印象的な救いを感じたシーンがありました。
ポールがスタッフに言います。
「あらゆるツテに電話するんだ。
現状を伝え静かにさよならを言うんだ。
けれどもその時、電話の相手と手をにぎりなさい。
その手を離されたらわたしは助からないと。」
取り乱すことなくとても、静かな口調です。
それは、助からないということを覚悟しながらも
最後まで状況も人間もあきらめないという
静かな決意が込められた言葉でした。
実際にそういったあらゆる努力で
ルセサバギナさんはこの難局を乗り切ったのでした。

*写真は実際のポール・ルセサバギナさん

ホテルルワンダ
http://www.hotelrwanda.jp