空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

きぼうのいえ

2006-12-22 00:24:44 | Tao
東京に山谷というところがあります。
日雇い労働者のドヤ街として有名ですが、
そこに山本雅基さんという方が
看護師の奥さんの美恵さんと私財を投じ借金をして
身寄りのない人のためのホスピスを創りました。

『きぼうのいえ』といいます。

きぼうのいえの屋上には小さな礼拝堂が造られています。
その壁に飾られているのは
『聖アッシジのフランシスコ』の言葉です。

<平和の祈り>

『主よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところに許しを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。
慰められることよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、許すから許され、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。』

この想いから山本さんはきぼうのいえを創られました。

先日うかがった時、
入居者のKさんとお話がはずみました。ふたりともよく笑いました。
Kさんは夜になるとからだがつらく、眠れません。
そんな時はTVを見ています。
「何を見てるんですか?」と尋ねると、笑いながら
「Dr.コトー。先週はまいったよ。初めから終わりまで泣かせっぱなし。あれはないよな。・・あんな先生にかかりたいよね。そうはいないだろうけど。」

わたしも毎週見ていました。
今日の最終回はKさんと一緒に見ている気分でした。
たぶんまたKさんは泣いているだろうな。

人は想像を絶する肉体の苦痛とともにありながらも
こんな風に人と穏やかに話し、笑うことができるのですね。

初めのうちはそこがホスピスであることが
実感として感じられませんでした。
思ったよりもずっと明るい印象だったからです。
けれどもお会いする人たちが
櫛の歯が抜けるように旅立たれてゆくことに
あらためてホスピスであることを感じさせられています。
けれども厳しく孤独な人生を歩んだ人が
人生の終わりに「ありがとう」と言ったり
安らかに旅立たれたエピソードを聞く度に
生きるとは、そして、死ぬとは
もっとおおらかでひろく大きいものではないか
という実感を得てきています。

死ぬということを超えて生きるのではないかと。

しあわせというのは
ただなんの苦痛もなく平安に長生きすることだけではなく
苦しみの中にさえもあるのだと。
何気ない会話の中に笑いとなってそれは現われます。

わたしはもう死が近いといわれた人が
死が近いとは思わなくなりました。
亡くなった方でさえ、死んだとは思っていません。
礼拝堂にはお墓のない方の遺骨がそのまま安置されていますが
手厚く送られたせいかとてもあたたかいです。
山本さんはおっしゃいました。
「ここを、よくある結婚式場のチャペルのような、
その場限りのようなところではなく
祈り込んでいきたいと思います。」
マザーテレサのしていた行動する祈りですね。
信念を持ち誠実な方ですが、
そこはかとないユーモアもにじみでた方です。
美恵さんもそうで、あたたかい方です。

毎月赤字で「無謀のいえ」と呼ぶ人もいます。
けれども、ここに、
ひとの現世の最後のあり方の
きぼうの灯を見るような想いで通っています。

きぼうのいえ
http://www.kibounoie.info/