この暮らしが幸いな日々の暮らしなのだと分からせて貰うには、きっと幾曲がりかの嶮しい坂路を通らねばならぬ。考えると、ころびつづけの身ではあるのだが、実はころぶその所が、花の上なのである。立とうが、座ろうが、つまずこうが、倒れようが、どんな時でも処でも、悉くが花の中での出来事に他ならぬ。実は荒涼たる人の世は、万朶の吉野山であったのである。行くところ、花に受け取られる身であったのである。
冬ナクバ 春ナキニ
うららかな春を人は待ちわびている。しかし春は冬を経ずしては来ぬ。冬を経てこそ、春はいよいようららかなのである。花は春の光を受けて咲き乱れるが、それには準備の時があるのである。冬なくして春が来るのではなく、冬あっての春だともいえ、また春のために冬があるともいえ、逆にまた、春なき冬はないともいえる。だから花は早くも冬に咲き初めているのだともいえよう。人生のこと、またこの法を離れてはあるまい。暗さこそ光をつつみ、悲しみこそ嬉びを含む。否、これらの二つは、元来二つのものではあるまい。
冬キビシ 春ヲ含ミテ
冬が迫り、雪が降りしきり、寒さは烈しいのである。しかしこの烈しさは、そのうちに春を孕んでいるのである。雪の冷たさは、ただ冷たいのではない。春の訪れを含んでいるのである。お互に冬の厳しさの中に、春の望みを抱いて、耐え忍ぼう。否、この秘義を知れば、忍ぶことすら忘れて、悦びの中に、冬の厳しさを迎えることが出来よう。そうして自然の摂理の中にこの真理を見守ろう。決して吾々をうらぎらないその真理なのであるから。悟ってみれば寒さの中に、ぬくもりが宿っていよう。
カヲルヤ 梅の香 雪ヲエニシニ
「エニシ」は縁である。冷たい雪を縁として、梅ケ香は薫るのだという意味である。何もかも因縁であると見るのは、仏法の見方である。この縁を時としては悪縁とも考え、つらく想うこともあろうが、考え直せば、それが直ちに良縁の泉ともなろう。妙好人は他人から打たれて、どうしてそれに感謝が出来るに至るのか。打たれることを「えにし」に、自分のふつつかさを省みさせて貰ったその恩を謝したのである。梅は多くの花にさきがけて、春未だ浅い頃から香りを放つ。それは雪の季節を縁にして咲くのである。夏でもなく、秋でもなく、そこが梅の存在の意味ではないのか。
雪 イトド深シ 花イヨヨ近シ
雪が烈しく寒さが厳しい時こそは、花の季節がいよいよ近附いたと思え。この世のことは、ただ暗さのみではあるまい。丁度蔭が濃ければ濃いほど、反面に光も強いことを証拠立てているようなものである。暗は明に裏附けられる。雪の季節ともなれば、花は既に吾々を待っているのである。そのしんしんと降り積もる雪の中から、花の季節は刻々に近づいてくるのである。苦難の大は、希望の大を約束する。
蕗ノタウ ホホエム 雪ニモ メゲデ
深い雪の下から、ほほえみかけるのは、蕗のとうである。冷たい雪の衣をもたげて、その冷たさを忘れている如く、やさしく咲き出る蕗のとう。吾々もこれにあやかりたいではないか。人生は時として、深い雪の下に埋れる時があるからである。だが、蕗のとうは吾々をはげましてくれる。心が打沈んでは、この花にすまぬ。
―*―*―*―*―*―
柳宗悦『南無阿弥陀仏 付 心偈(こころうた)』岩波文庫より
柳宗悦が晩年に体が不自由になってから作った短文のうたである。それぞれに柳自身が注をつけた。心偈(こころうた)は短いものはわずか6文字。多くは10字前後である。この短い偈によっておりおりの心境を表現している。それはかれの長い心の遍歴の覚え書きという。『南無阿弥陀仏』は論理的な構成をもって信仰を述べたもので、長篇である必然性があった。これに対し、『心偈』は煮詰めた短いことばで心境を述べたいがために作ったうたである。しかも誰にでも理解しやすくするために、なるべく柳個人のことばを離れ、古語を多く取り入れている。『南無阿弥陀仏』と『心偈』と両方あいまって柳宗悦の思想と信仰と心とをよりよく知ることができよう。
(解説:今井雅晴)
冬ナクバ 春ナキニ
うららかな春を人は待ちわびている。しかし春は冬を経ずしては来ぬ。冬を経てこそ、春はいよいようららかなのである。花は春の光を受けて咲き乱れるが、それには準備の時があるのである。冬なくして春が来るのではなく、冬あっての春だともいえ、また春のために冬があるともいえ、逆にまた、春なき冬はないともいえる。だから花は早くも冬に咲き初めているのだともいえよう。人生のこと、またこの法を離れてはあるまい。暗さこそ光をつつみ、悲しみこそ嬉びを含む。否、これらの二つは、元来二つのものではあるまい。
冬キビシ 春ヲ含ミテ
冬が迫り、雪が降りしきり、寒さは烈しいのである。しかしこの烈しさは、そのうちに春を孕んでいるのである。雪の冷たさは、ただ冷たいのではない。春の訪れを含んでいるのである。お互に冬の厳しさの中に、春の望みを抱いて、耐え忍ぼう。否、この秘義を知れば、忍ぶことすら忘れて、悦びの中に、冬の厳しさを迎えることが出来よう。そうして自然の摂理の中にこの真理を見守ろう。決して吾々をうらぎらないその真理なのであるから。悟ってみれば寒さの中に、ぬくもりが宿っていよう。
カヲルヤ 梅の香 雪ヲエニシニ
「エニシ」は縁である。冷たい雪を縁として、梅ケ香は薫るのだという意味である。何もかも因縁であると見るのは、仏法の見方である。この縁を時としては悪縁とも考え、つらく想うこともあろうが、考え直せば、それが直ちに良縁の泉ともなろう。妙好人は他人から打たれて、どうしてそれに感謝が出来るに至るのか。打たれることを「えにし」に、自分のふつつかさを省みさせて貰ったその恩を謝したのである。梅は多くの花にさきがけて、春未だ浅い頃から香りを放つ。それは雪の季節を縁にして咲くのである。夏でもなく、秋でもなく、そこが梅の存在の意味ではないのか。
雪 イトド深シ 花イヨヨ近シ
雪が烈しく寒さが厳しい時こそは、花の季節がいよいよ近附いたと思え。この世のことは、ただ暗さのみではあるまい。丁度蔭が濃ければ濃いほど、反面に光も強いことを証拠立てているようなものである。暗は明に裏附けられる。雪の季節ともなれば、花は既に吾々を待っているのである。そのしんしんと降り積もる雪の中から、花の季節は刻々に近づいてくるのである。苦難の大は、希望の大を約束する。
蕗ノタウ ホホエム 雪ニモ メゲデ
深い雪の下から、ほほえみかけるのは、蕗のとうである。冷たい雪の衣をもたげて、その冷たさを忘れている如く、やさしく咲き出る蕗のとう。吾々もこれにあやかりたいではないか。人生は時として、深い雪の下に埋れる時があるからである。だが、蕗のとうは吾々をはげましてくれる。心が打沈んでは、この花にすまぬ。
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柳宗悦『南無阿弥陀仏 付 心偈(こころうた)』岩波文庫より
柳宗悦が晩年に体が不自由になってから作った短文のうたである。それぞれに柳自身が注をつけた。心偈(こころうた)は短いものはわずか6文字。多くは10字前後である。この短い偈によっておりおりの心境を表現している。それはかれの長い心の遍歴の覚え書きという。『南無阿弥陀仏』は論理的な構成をもって信仰を述べたもので、長篇である必然性があった。これに対し、『心偈』は煮詰めた短いことばで心境を述べたいがために作ったうたである。しかも誰にでも理解しやすくするために、なるべく柳個人のことばを離れ、古語を多く取り入れている。『南無阿弥陀仏』と『心偈』と両方あいまって柳宗悦の思想と信仰と心とをよりよく知ることができよう。
(解説:今井雅晴)
そうじゃなかったんですね。心境なんですね。
壁を乗り越えると、苦しみも恵みだったんだなあと思える一瞬もありますが、普段はまだまだそんな風には思えず。
それを、軽やかによろこびで歌っておられて、こちらまで心が軽くなりました。
今日は首がしんどいので(笑)、また今度、他の歌もじっくり読ませていただきます。