空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

日本へのラブレター

2008-03-28 14:14:02 | art
 ブルーノ・タウト。ドイツの著名な建築家。伊勢神宮の美しさを初めて世界に伝えたのは・ブルーノ・タウトとされる。
「伊勢は世界の建築の王座である。芳香高い美麗な檜、屋根の萱、こうした単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬまでに、よく構造と融合している。形式が確立された年代は正確にはわからず、最初に作った人の名前もわからない。おそらく天から降ったものだろう」
と絶賛の嵐である。
 彼の名著「日本美の再発見」(岩波書店刊、昭和十四年)の巻頭には伊勢神宮のことを「最大の単純のなかに、最大の芸術がある」と記している。
 そして、唯一神明造とよばれる伊勢神宮に「日本固有の文化の精髄としての古典的天才的な創造建築を見た」とし、「実に原日本文化は伊勢神宮において、その極地に達した」としている。

 ―*―*―*―*―*―*―*―

 貿易商だった日向利兵衛の別宅として、この建物は相模湾を望む熱海の傾斜地に建てられた。地上2階、地下1階の地下部分がブルーノ・タウトの設計。
 伊勢神宮や桂離宮など日本の伝統的な建物と風土を強く意識したタウトは、別邸の社交室に竹材を、洋室の壁には絹織物を赤く染めて張るなど、和と洋の融合を積極的にはかった。洋室の正面にしつらえた5段の階段に腰かけて、海を眺めることもできる。
 戦後は民間企業の保養所として使われていたが、熱海市の所有となり、予約制で公開されている。

 日本へのラブレターのような建築である。ガラスや鉄などのモダンな「新素材」を駆使した建築でデビューし、モダニズム建築という新しいムーブメントを背負うドイツ建築界のスターであったブルーノ・タウトは、1933年、ナチスから共産主義との嫌疑をかけられ、ドイツ脱出を決意する。見ず知らずの日本の地を踏んだ。敦賀の港に上陸した翌日、53歳の誕生日に、桂離宮に案内され、突如、人々の注視の前で涙を流し始めた。ここに、自分の捜していたものがあった。自然を支配し、征服する西洋の建築ではなく、自然と調和し、心地よく溶けて流れていくような建築が極東の小さな島に実在していたのを知って、泣き始めた。

 異邦人の建築家に興味をもつ人があらわれ、熱海の崖の上の地に住宅の設計を依頼された。海と溶け合うやわらかで控えめな家を作ろうと、小さい住宅の中に、情熱と経験のすべてを注ぎ込んだ。
 海と建築とを溶かしあうために、畳を使って、人を低く座らせ、ドイツから特殊な金物をとりよせて、全開する特殊な窓をデザインし、目の前の海を室内に持ち込もうと試みた。床の間のかわりに奇妙な段をつけ、段に腰かけられる新しい和室を提案した。その繊細な表情にほれこんだ竹を編んで、漁り火を思わせる照明をデザインした。
 一言でいえば、桂離宮の思想を現代によみがえらそうとしたわけである。
 しかし、当時の日本人は、この「ラブレター」を酷評した。日本にこびた、陰鬱なゲテモノ建築だと批難した。西洋人なら、なんで当時の流行の白くシャープなモダニズム建築をデザインしないのかと、いぶかった。
 タウトは深く傷ついた。これだけ深く愛した相手から、無視され裏切られたからである。3年暮らした日本を立ち去って、イスタンブールに新しい天地を求めた。しかしわずか2年で病に倒れて、客死した。
 
 彼が最後の最後に設計した自宅がその地に残っている。瓦屋根と庇のついた、日本風の家である。裏切られてもなお、彼は日本を愛し続け、日本の建築のやさしさとやわらかさを愛した。そこに、未来の建築の可能性があることを信じて疑わなかった。ボスポラス海峡を見下ろす丘の上に、はるか日本の方を指して、まさに日向邸の方角へ目をこらすようにして、その控えめな家は静かに立ち続けている。
(建築家 隅研吾/朝日新聞)

『ブルーノ・タウト 桂離宮とユートピア建築』(オクターブ)に詳しい。熱海市の公式サイトに写真や観光情報が掲載されている。
http://www.city.atami.shizuoka.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1123583054086&SiteID=1116397943912&ParentGenre=1118284748830