道綽禅師⑪(安楽集)
人間が真の人間の実相を知るのは
命の消えゆくことに身ぶるいするところからであることを
仏教の先覚者達は体認していられる。
釈尊以来二千五百余年の
仏教の歴史上の高僧偉人を眺めても、
この念々に消えゆく無常を凝視し
驚かれなかった方はない。
釈尊に於いては阿含経の有名な四門出遊で
老苦・病苦・死苦の無常観を知らされ、
出家なされた。
生後七日にして母君に死別せられた釈尊には、
深刻な無常観があった。
真実の仏法に入られた動機は
無常刻々に迫る体験であった。
又道綽禅師の安楽集に
「譬えば人有りて空昿のはるかなる処に
於て怨賊、刀をぬき勇をふるいて
直に来りて殺さんと欲するにあい
此人直に走りて視るに一河を渡るべし、
未だ河に到らざるに即ち此の念を作さく、
我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、
衣を着けて浮むとせんや
若し衣を脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。
若し衣をつけて浮かばんには復首領全くし難きを畏る」
とある。
剣を抜いて追いかけて来るとは無常の嵐の激しさを
あらわされたものであり
衣を脱ごうとすれば
帯は堅くてとけないのは罪悪の深重にもだえていることだ。
道綽禅師の罪悪と無常観にせめたてられた
心の道を譬えられたものである。
この譬え話が善導大師の二河白道の喩えの
土台になったことは言うまでもない。
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人間が真の人間の実相を知るのは
命の消えゆくことに身ぶるいするところからであることを
仏教の先覚者達は体認していられる。
釈尊以来二千五百余年の
仏教の歴史上の高僧偉人を眺めても、
この念々に消えゆく無常を凝視し
驚かれなかった方はない。
釈尊に於いては阿含経の有名な四門出遊で
老苦・病苦・死苦の無常観を知らされ、
出家なされた。
生後七日にして母君に死別せられた釈尊には、
深刻な無常観があった。
真実の仏法に入られた動機は
無常刻々に迫る体験であった。
又道綽禅師の安楽集に
「譬えば人有りて空昿のはるかなる処に
於て怨賊、刀をぬき勇をふるいて
直に来りて殺さんと欲するにあい
此人直に走りて視るに一河を渡るべし、
未だ河に到らざるに即ち此の念を作さく、
我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、
衣を着けて浮むとせんや
若し衣を脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。
若し衣をつけて浮かばんには復首領全くし難きを畏る」
とある。
剣を抜いて追いかけて来るとは無常の嵐の激しさを
あらわされたものであり
衣を脱ごうとすれば
帯は堅くてとけないのは罪悪の深重にもだえていることだ。
道綽禅師の罪悪と無常観にせめたてられた
心の道を譬えられたものである。
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