法華経と浄土三部経(無量義経の四十余年未顕真実とは)
法華経の開経とされる無量義経に
「四十余年 未顕真実」
と書かれてある。
これには2通りの読み方ができる。
●四十余年、未だ真実あらわさず。
このように読むならば意味は
釈迦が仏の覚りを開かれてより40年、
真実を説いてこなかったが、
今から真実説くぞと仰言って
説かれたのが法華経。
だから法華経だけが真実の経で、これ以前に説かれた
一切の経典は方便であり、ウソだ。
浄土三部経は方等時のお経であるから
浄土真宗の教えは皆ウソばかりだから、
何の利益もないということになる。
ところが「未だ真実あらわさず」と読んで
よいのだろうか。
法華経が説かれるまでの経典がウソとすれば
これまで説かれてきた因果応報の教えも
三界六道輪廻の教もみなウソになる。
では法華経でのみ、初めて明らかに
なった真実とは何か。
法華経が他の経典と異なるところといえば、
2点である。
①仏弟子達に記別を授けていること、
記別とは、仏が弟子達に対し、来世にこれこれの
存在になると予言されることである。
舎利弗には百千劫の後、華香如来となるであろうと
記別を授けておられる。
②釈迦自ら、自身の久遠の成仏を告白された。
釈迦如来がこの世で初めて仏の覚りを
開かれたのではなく、久遠劫の過去に
すでに仏の覚りを開かれていることを
告白しておられる。
これは経典の全体を知るものならば
釈迦如来が告白されて当然のことだ。
大宇宙にまします十方諸仏は
皆、阿弥陀仏の本願によってのみ
仏になれることは経典でも明らかである。
般舟経には
「三世諸仏、念弥陀三昧、成等正覚」
と、全ての仏方は一向専念無量寿仏の身に
なって仏になっておられるとある。
阿弥陀仏に救われなければ
誰一人、仏になることはできないのだ。
釈迦おいても例外ではない。
釈迦如来も塵点久遠劫の過去において、
弥陀一仏を信じて、仏になっておられるのだ。
極楽へ往かれ、弥陀同体の仏になられた方は
極楽で八功徳水の温泉につかって、
百味の御飲食を食べて、のんびりとは
しておれない。
衆生済度の為に娑婆世界にとんぼ返りで
戻ってこられるのである。
釈迦往来八千遍とはこのことを
いわれる。
法華経にしか説かれていない真実は
以上の2つ以外には見当たらぬ。
「方便品」に説かれている諸法実相こそ
法華経の中心だと主張する学者もいるが、
諸法実相の教えなら、すでに般若経や華厳経にも
説かれているから何ら珍しいものではない。
では四十余年、未顕真実はどう読めばいいのか。
◎四十余年、未だ真実あらわれず。
釈迦如来は35歳、成道後、四十余年、
真実の教えを説いてきたが、衆生の上に
真実を体得するものが現れなかったと
いうことである。
因果の道理は大宇宙の真理、ウソは一つもない。
だから廃悪修善の教えになるのだ。
お釈迦様は仏の覚りを開かれて、
涅槃の雲に隠れられるまで、
大宇宙の真理を命がけで伝えて
下されたのである。
しかし、釈迦如来のような真実を体得された
方は現れなかったということである。
この読み方こそ正しい意味になる。
そうなると無量義経の
「四十余年、未顕真実」の真実は
法華経だけが真実の経典であると
いうことにはならない。
「出世本懐経は法華経」という意味には
ならないのである。
法華経の開経とされる無量義経に
「四十余年 未顕真実」
と書かれてある。
これには2通りの読み方ができる。
●四十余年、未だ真実あらわさず。
このように読むならば意味は
釈迦が仏の覚りを開かれてより40年、
真実を説いてこなかったが、
今から真実説くぞと仰言って
説かれたのが法華経。
だから法華経だけが真実の経で、これ以前に説かれた
一切の経典は方便であり、ウソだ。
浄土三部経は方等時のお経であるから
浄土真宗の教えは皆ウソばかりだから、
何の利益もないということになる。
ところが「未だ真実あらわさず」と読んで
よいのだろうか。
法華経が説かれるまでの経典がウソとすれば
これまで説かれてきた因果応報の教えも
三界六道輪廻の教もみなウソになる。
では法華経でのみ、初めて明らかに
なった真実とは何か。
法華経が他の経典と異なるところといえば、
2点である。
①仏弟子達に記別を授けていること、
記別とは、仏が弟子達に対し、来世にこれこれの
存在になると予言されることである。
舎利弗には百千劫の後、華香如来となるであろうと
記別を授けておられる。
②釈迦自ら、自身の久遠の成仏を告白された。
釈迦如来がこの世で初めて仏の覚りを
開かれたのではなく、久遠劫の過去に
すでに仏の覚りを開かれていることを
告白しておられる。
これは経典の全体を知るものならば
釈迦如来が告白されて当然のことだ。
大宇宙にまします十方諸仏は
皆、阿弥陀仏の本願によってのみ
仏になれることは経典でも明らかである。
般舟経には
「三世諸仏、念弥陀三昧、成等正覚」
と、全ての仏方は一向専念無量寿仏の身に
なって仏になっておられるとある。
阿弥陀仏に救われなければ
誰一人、仏になることはできないのだ。
釈迦おいても例外ではない。
釈迦如来も塵点久遠劫の過去において、
弥陀一仏を信じて、仏になっておられるのだ。
極楽へ往かれ、弥陀同体の仏になられた方は
極楽で八功徳水の温泉につかって、
百味の御飲食を食べて、のんびりとは
しておれない。
衆生済度の為に娑婆世界にとんぼ返りで
戻ってこられるのである。
釈迦往来八千遍とはこのことを
いわれる。
法華経にしか説かれていない真実は
以上の2つ以外には見当たらぬ。
「方便品」に説かれている諸法実相こそ
法華経の中心だと主張する学者もいるが、
諸法実相の教えなら、すでに般若経や華厳経にも
説かれているから何ら珍しいものではない。
では四十余年、未顕真実はどう読めばいいのか。
◎四十余年、未だ真実あらわれず。
釈迦如来は35歳、成道後、四十余年、
真実の教えを説いてきたが、衆生の上に
真実を体得するものが現れなかったと
いうことである。
因果の道理は大宇宙の真理、ウソは一つもない。
だから廃悪修善の教えになるのだ。
お釈迦様は仏の覚りを開かれて、
涅槃の雲に隠れられるまで、
大宇宙の真理を命がけで伝えて
下されたのである。
しかし、釈迦如来のような真実を体得された
方は現れなかったということである。
この読み方こそ正しい意味になる。
そうなると無量義経の
「四十余年、未顕真実」の真実は
法華経だけが真実の経典であると
いうことにはならない。
「出世本懐経は法華経」という意味には
ならないのである。