日々好日(11月29日 中国史上の三大悪女西太后)
1835年11月29日
現在の黒龍江省の満州族の一家に
蘭児という娘が生まれた。
これが後の西太后である。
中国史上稀代の三大悪女に
あげられる西太后。
すさまじいばかりの
権力欲と独占欲の
持ち主だと言われている。
彼女は、18才で後宮に入り、
権力の座に着いてから
実に半世紀もの長きに渡って
中国最後の清王朝に
君臨したのである。
この権力掌握の長さは
前代未聞である。
西太后は確かに
権力に固執したが、
従来の権力者とは異なっていた。
彼女の権力とは、
豪華な衣装を着飾り、
うんと贅沢をすることであった。
1908年、西太后は
74才で亡くなった。
その3年後の1911年、
湖北省の武昌で、革命派が
新政府樹立を宣言した。
いわゆる辛亥革命である。
革命の火の手は、
たちまち燃え広がり、
わずか1か月ほどで、
清王朝は雪崩のように
崩壊していった。
西太后が死んだ時、
二百数十年間続いた
大清帝国も同時に
死んだのであろう。
その後、西太后は、
北京の東にある
陸墓に葬られた。
そこは清王朝歴代の
皇帝が眠る陸墓だった。
ところが、20年ほどたった頃、
中華民国兵士による
墓荒らし事件が起きた。
北京郊外に駐屯していた
国民革命軍が、
副葬品として
埋められていた金銀財宝に
目をつけたのである。
確かにそれは
莫大な財宝だった。
なにしろ、すべてを
運ぶのに数十台の
馬車が必要であった。
その内訳は、金銀の仏像百体以上、
大粒の真珠1万2千粒、
4千の真珠を縫い込んだ
掛布団の他、
大量のヒスイ、宝石の山だった。
西太后の墓の一部を
爆破した兵士らは、
地下の墓室に侵入した。
西太后の木棺を
たたき壊して
こじ開けた兵士らは、
遺体を棺の外に引きずり出した。
西太后の遺体は、
まだ弾力が残されており
まるで眠るようであった。
兵士らは、西太后の口を
銃剣でこじ開けると、
まず、口の中に詰められている
含み珠を取り出した。
さらに、彼らは、遺体から服、
下着、靴に至るまで
すべて剥ぎ取って裸にすると、
身につけている宝石がないか
隅々まで捜し回った。
それが済むと、屍姦を
試みた者すらあったというのだ。
また、同時期、
乾隆帝の陸墓に
侵入した別な部隊は、
皇帝や皇后の遺体を
棺から引きずり出し、
金銀財宝をあまねく略奪したが、
行き掛けの駄賃とばかり、
帝の首を切り離して
地下水の汚泥に
打ち捨てたのであった。
この事件は、
清朝ラストエンペラーの
溥儀(ふぎ)に怒りの炎を
燃え上がらせた。
彼は、日本の誘いを
受け入れ、満州国皇帝として、
日本の傀儡政権として
利用される運命を
自ら選択したのであった。
1835年11月29日
現在の黒龍江省の満州族の一家に
蘭児という娘が生まれた。
これが後の西太后である。
中国史上稀代の三大悪女に
あげられる西太后。
すさまじいばかりの
権力欲と独占欲の
持ち主だと言われている。
彼女は、18才で後宮に入り、
権力の座に着いてから
実に半世紀もの長きに渡って
中国最後の清王朝に
君臨したのである。
この権力掌握の長さは
前代未聞である。
西太后は確かに
権力に固執したが、
従来の権力者とは異なっていた。
彼女の権力とは、
豪華な衣装を着飾り、
うんと贅沢をすることであった。
1908年、西太后は
74才で亡くなった。
その3年後の1911年、
湖北省の武昌で、革命派が
新政府樹立を宣言した。
いわゆる辛亥革命である。
革命の火の手は、
たちまち燃え広がり、
わずか1か月ほどで、
清王朝は雪崩のように
崩壊していった。
西太后が死んだ時、
二百数十年間続いた
大清帝国も同時に
死んだのであろう。
その後、西太后は、
北京の東にある
陸墓に葬られた。
そこは清王朝歴代の
皇帝が眠る陸墓だった。
ところが、20年ほどたった頃、
中華民国兵士による
墓荒らし事件が起きた。
北京郊外に駐屯していた
国民革命軍が、
副葬品として
埋められていた金銀財宝に
目をつけたのである。
確かにそれは
莫大な財宝だった。
なにしろ、すべてを
運ぶのに数十台の
馬車が必要であった。
その内訳は、金銀の仏像百体以上、
大粒の真珠1万2千粒、
4千の真珠を縫い込んだ
掛布団の他、
大量のヒスイ、宝石の山だった。
西太后の墓の一部を
爆破した兵士らは、
地下の墓室に侵入した。
西太后の木棺を
たたき壊して
こじ開けた兵士らは、
遺体を棺の外に引きずり出した。
西太后の遺体は、
まだ弾力が残されており
まるで眠るようであった。
兵士らは、西太后の口を
銃剣でこじ開けると、
まず、口の中に詰められている
含み珠を取り出した。
さらに、彼らは、遺体から服、
下着、靴に至るまで
すべて剥ぎ取って裸にすると、
身につけている宝石がないか
隅々まで捜し回った。
それが済むと、屍姦を
試みた者すらあったというのだ。
また、同時期、
乾隆帝の陸墓に
侵入した別な部隊は、
皇帝や皇后の遺体を
棺から引きずり出し、
金銀財宝をあまねく略奪したが、
行き掛けの駄賃とばかり、
帝の首を切り離して
地下水の汚泥に
打ち捨てたのであった。
この事件は、
清朝ラストエンペラーの
溥儀(ふぎ)に怒りの炎を
燃え上がらせた。
彼は、日本の誘いを
受け入れ、満州国皇帝として、
日本の傀儡政権として
利用される運命を
自ら選択したのであった。