日々好日(12月9日 夏目漱石「今死んだら困る」)
1916年12月9日、大文豪夏目漱石が逝去した。
享年50歳であった。
夏目漱石は、明治時代に活躍した文豪である。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』など
数多くの名作を生み出し、
日本の近代作家として最高峰に上りつめた人物である。
それだけ人々に認められるのには、
やはり、理由があった。
漱石はいつも悩んでいた。
内容は千差万別だったが、一貫したテーマがあった。
それは「人間はどう生きるか」
人間は生きるに従って、自我が強くなり、
エゴで固まっていく。
彼はその現実に悩み、逃れようとし、
しかし答えは、なかなか彼の前に姿を現わさなった。
漱石文学の核とも言うべきこうした自我が、
漱石自身の中で明確に自覚されるのが、
イギリスでの留学体験であった。
漱石の留学生活は苦渋に満ちたものであった。
そして異常でもあった。
神経衰弱(ノイローゼ)に陥り、
被害妄想的状態が続き、それが因で胃弱にも悩んでいた。
漱石が神経衰弱に陥り、被害妄想や抑鬱症に苦しむのは、
これが初めてではない。
生涯に何度か体験している。
漱石は、この精神の危機を見事に克服した。
精神の危機が時に人生の転機となり、
次の人生のステップとなることは
よくあることである。
危機の経験なしに、その後の漱石の作品は
生まれなかった。
小説『行人』のなかで、
漱石は、登場人物にこう語らせている。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの3つのものしかない」
(行人)
自殺か、狂気か、宗教か。
真剣な人生の究極の生きざまは、
これしか選択の余地がない、という。
書くことで、徹底的に自己を追究した漱石は、
この3つの選択肢の間を揺れた。
自殺はできぬ。
狂気にもなりきれなかった彼は、
仏教、とりわけ禅宗に傾倒していった。
晩年、しきりに語った言葉「則天去私」は、
自我を捨て去り、安らかな宗教的境地を得たい
という彼の願望だろう。
晩年、漱石は友人へ次のような内容の
手紙を書いている。
「気に入らないこと、癪に障ること、
憤慨すべきことがたくさんある。
それを清めることは人間の力ではできない。
それと戦うよりも、それを許すことが
人間として立派なものならば、
できるだけそのための修養をしたいと思う」
漱石が最後にたどり着いた境地は、
許すことを理想とする立場であった。
それは最晩年に語った「則天去私」の思想に通ずる。
「個人の自我を超えた大きな存在(天)に
自分をゆだねる生き方である。
天にゆだねることで、人に寛容であり、
何ものをも包摂できるのである。」
イギリスで「個人主義」を発見した漱石は、
長い人生行路の末に、個人を超える
生き方を発見したように感じたのである。
亡くなる前年から、2人の若い禅僧と交遊し、
多くの手紙を送っている。
「変なことをいいますが私は50になって
始めて道に志す事に気のついた愚物です。
その道がいつ手に入るだろうと考えると
大変な距離があるように思われて
びっくりしています」
「私は死んで始めて絶対の境地に入ると
申したいのです。
そうしてその絶対は相対の世界に比べると
尊い気がするのです」
ところが死の直前、ひどく苦しみはじめた漱石は、
「今死んだら困る」
と言い放った。
やがて意識を失い、呼吸がとまった。
1916年12月9日
半世紀にわたる人生を終えた。
彼が今死んだら困る。やり残したものがある。
そのやり残したことこそが、
人生の目的。
則天去私ではなかったのだ。
1916年12月9日、大文豪夏目漱石が逝去した。
享年50歳であった。
夏目漱石は、明治時代に活躍した文豪である。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』など
数多くの名作を生み出し、
日本の近代作家として最高峰に上りつめた人物である。
それだけ人々に認められるのには、
やはり、理由があった。
漱石はいつも悩んでいた。
内容は千差万別だったが、一貫したテーマがあった。
それは「人間はどう生きるか」
人間は生きるに従って、自我が強くなり、
エゴで固まっていく。
彼はその現実に悩み、逃れようとし、
しかし答えは、なかなか彼の前に姿を現わさなった。
漱石文学の核とも言うべきこうした自我が、
漱石自身の中で明確に自覚されるのが、
イギリスでの留学体験であった。
漱石の留学生活は苦渋に満ちたものであった。
そして異常でもあった。
神経衰弱(ノイローゼ)に陥り、
被害妄想的状態が続き、それが因で胃弱にも悩んでいた。
漱石が神経衰弱に陥り、被害妄想や抑鬱症に苦しむのは、
これが初めてではない。
生涯に何度か体験している。
漱石は、この精神の危機を見事に克服した。
精神の危機が時に人生の転機となり、
次の人生のステップとなることは
よくあることである。
危機の経験なしに、その後の漱石の作品は
生まれなかった。
小説『行人』のなかで、
漱石は、登場人物にこう語らせている。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの3つのものしかない」
(行人)
自殺か、狂気か、宗教か。
真剣な人生の究極の生きざまは、
これしか選択の余地がない、という。
書くことで、徹底的に自己を追究した漱石は、
この3つの選択肢の間を揺れた。
自殺はできぬ。
狂気にもなりきれなかった彼は、
仏教、とりわけ禅宗に傾倒していった。
晩年、しきりに語った言葉「則天去私」は、
自我を捨て去り、安らかな宗教的境地を得たい
という彼の願望だろう。
晩年、漱石は友人へ次のような内容の
手紙を書いている。
「気に入らないこと、癪に障ること、
憤慨すべきことがたくさんある。
それを清めることは人間の力ではできない。
それと戦うよりも、それを許すことが
人間として立派なものならば、
できるだけそのための修養をしたいと思う」
漱石が最後にたどり着いた境地は、
許すことを理想とする立場であった。
それは最晩年に語った「則天去私」の思想に通ずる。
「個人の自我を超えた大きな存在(天)に
自分をゆだねる生き方である。
天にゆだねることで、人に寛容であり、
何ものをも包摂できるのである。」
イギリスで「個人主義」を発見した漱石は、
長い人生行路の末に、個人を超える
生き方を発見したように感じたのである。
亡くなる前年から、2人の若い禅僧と交遊し、
多くの手紙を送っている。
「変なことをいいますが私は50になって
始めて道に志す事に気のついた愚物です。
その道がいつ手に入るだろうと考えると
大変な距離があるように思われて
びっくりしています」
「私は死んで始めて絶対の境地に入ると
申したいのです。
そうしてその絶対は相対の世界に比べると
尊い気がするのです」
ところが死の直前、ひどく苦しみはじめた漱石は、
「今死んだら困る」
と言い放った。
やがて意識を失い、呼吸がとまった。
1916年12月9日
半世紀にわたる人生を終えた。
彼が今死んだら困る。やり残したものがある。
そのやり残したことこそが、
人生の目的。
則天去私ではなかったのだ。