人間の実相を語る歴史人11(ローソクとランプの自慢話)
私は顔の色は黒いけど
鼻が高いからよかろう。
色も黒いし鼻も低いが、
口が小さいから可愛いだろう。
口は大きいけれども色白だ、
と自惚れる。
オレは学問はないけど、
働きもんだと言われている。
しまいには、何にもできんもんだけれど
「素直な奴」と皆から言われているからと、
自分のことはすべて良いことにしている。
これら七つの自惚れ心から、
私たちはもう離れることができない。
こんな愚かな自己の姿は、
仏教という法の鏡によらなければ、
絶対に知ることはできないのだ。
或る山の一軒屋にローソクが
自分程明るいものはなかろうと
自慢している処へ
ランプがフラリと降りて来て
同じように威張った。
「ロウソクよ。お前が明るいといっても
俺の方がもっと明るいぞ」
そこへ電気が遊びにきて
「何を言っているランプ君。
私の方が断然、明るいだろう。
部屋の隅々にまで見えるように
なったろう。
この世で一番明るいのは私です」
と自惚れると、ローソクもランプも
光を失って電気の前に平身低頭した。
やがて東の空から太陽が顔を出したので、
あたりは薄明るくなって来た。
「あれは何万ワットの電球だろう」
と驚いていると
太陽が一切の闇を破って光明界としたので
ローソクもランプも電気も一切が光を失って
暗くなり、自慢話は絶えた。
これはイタリアの童話である。
闇に対すればローソクは明るいし
ローソクに対すればランプは明るい。
ランプに対すれば電気は
もっと明るいのは事実である。
これを相対という。
しかし、一度太陽という絶対の光が
東天に輝くと、どんな明かりも
絶対の光に映奪されて
皆が暗いというより外はないことになる。
我々は御都合主義な他人の言葉や、
自惚れ根性で自己を眺めている時は他人よりは
善人だろうと信じているが、
真実絶対の仏の法鏡の前に立った時
如何なる相が映し出されるだろうか。
私は顔の色は黒いけど
鼻が高いからよかろう。
色も黒いし鼻も低いが、
口が小さいから可愛いだろう。
口は大きいけれども色白だ、
と自惚れる。
オレは学問はないけど、
働きもんだと言われている。
しまいには、何にもできんもんだけれど
「素直な奴」と皆から言われているからと、
自分のことはすべて良いことにしている。
これら七つの自惚れ心から、
私たちはもう離れることができない。
こんな愚かな自己の姿は、
仏教という法の鏡によらなければ、
絶対に知ることはできないのだ。
或る山の一軒屋にローソクが
自分程明るいものはなかろうと
自慢している処へ
ランプがフラリと降りて来て
同じように威張った。
「ロウソクよ。お前が明るいといっても
俺の方がもっと明るいぞ」
そこへ電気が遊びにきて
「何を言っているランプ君。
私の方が断然、明るいだろう。
部屋の隅々にまで見えるように
なったろう。
この世で一番明るいのは私です」
と自惚れると、ローソクもランプも
光を失って電気の前に平身低頭した。
やがて東の空から太陽が顔を出したので、
あたりは薄明るくなって来た。
「あれは何万ワットの電球だろう」
と驚いていると
太陽が一切の闇を破って光明界としたので
ローソクもランプも電気も一切が光を失って
暗くなり、自慢話は絶えた。
これはイタリアの童話である。
闇に対すればローソクは明るいし
ローソクに対すればランプは明るい。
ランプに対すれば電気は
もっと明るいのは事実である。
これを相対という。
しかし、一度太陽という絶対の光が
東天に輝くと、どんな明かりも
絶対の光に映奪されて
皆が暗いというより外はないことになる。
我々は御都合主義な他人の言葉や、
自惚れ根性で自己を眺めている時は他人よりは
善人だろうと信じているが、
真実絶対の仏の法鏡の前に立った時
如何なる相が映し出されるだろうか。