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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

なせばなる

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
なせばなる
武田信玄(1521~1573)
4月12日に死んだ戦国時代の武将。甲斐国(山梨県)の領主。
経世、兵法、文筆などに見るべきものがある。上杉謙信との川中島の戦いは有名。

『なせばなる、なさねばならぬ、なる業をならぬと捨てる人のはかなさ』
(武田信玄)
『なせばなる、なさねばならぬ何事も、成さぬは人のなさぬなりけり』
(東京オリンピック女子バレー金メダル監督:大松博文)

人生の成功者と敗北者。一体どれだけの差があるのだろう。
「私には才能がないから」
と最初からあきらめている人もいるが、一口に能力才能の差と言えないものがある。

性格一つにしてもオッチョコチョイの人は今やっていることをしかりやれば、
活発な人と賞賛される。

のんびりした人も次にすべき仕事を用意してやれば、
落ち着きのある人格者として評価される。

要するにどれだけ活かせるかにかかっている。できないのではない。できるところまで自分を活かしていないだけ。

それも経験は最良の教師だが、あまりにも高い授業料を払い過ぎている。
経験を活かしてくれる素晴らしい人との出会い、教えとの出会い、これを大切にし、一度限りの人生、悔いなく生きたいものだ。

武蔵の戦法

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
武蔵の戦法
宮本武蔵(1584~1645)
1612年4月13日、武蔵と小次郎の「巌流島の決闘」は有名。二天流をあみ出した剣聖。
書や絵にも優れた作品を残している。『五輪書』は海外でもブームになっている。

武蔵は生涯六十数回、真剣勝負をしたが一度も遅れをとったことがなかった。
その決闘で吉岡一門と三度にわたる決闘は有名である。最後が一乗寺下り松の戦いだ。
相手は清十郎の嫡子又七郎を奉じた七十名余の門弟たちであった。

武蔵の戦法は凄かった。若干十才であったが、総大将の又七郎を一刀両断で
斬り捨てた。不意をつかれ呆然自失となった門弟達は武蔵の敵ではなかった。
阿修羅の如く振りかざす武蔵の剣の前に門弟達は次々、斬り倒されていったのだ。

彼の兵法は学ぶべきところがある。人生の中でやりたいことは多くあろう。
しかし、一番やるべき大問題を解決せずして、人生の勝利者と成り得るだろうか?
やりたいことをやっていても喜べないのは、やるべきことをしていないからだろう。
最大の敵を破らねば。

くれぐれも仇討ちをお忘れなく!

一期一会

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
一期一会
山上宗二(1544~1590)
5月31日に死す。安土桃山時代の茶人。号は飄庵。千利休に学び、秀吉に仕える。
天正十七年に茶事についての自分の意見、茶湯生活三十年の覚え書き『山上宗二記』を著す。

『一期一会』
一期とは人間の一生のこと、一会とは、ただ一度の出会いということ。
山上宗二が茶道の精神を端的に表現した格調高い名言である。
その心は“客を向かえて行う茶会は生涯の内に今日この一日しかないと考えて
最善をつくすこと”明日があると思ってはいけない。
もう一度同じ相手と茶釜でめぐり会うと思ってはいけない。
一度の出会いに全てを賭ける精神だ。

豊臣秀吉がある日、狩りに出た。余りにのどが渇いたので近くの寺の立ち寄り、
茶を所望すると、一杯目はぬるめのお茶が並々と注がれてきた。飲むと、のどの渇きも一度に癒え、二杯目を頼んだ。すると今度は少し熱めで茶碗に半分ぐらいのお茶だった。
これを飲むとやっとお茶の味も感じるようになった。そこで三杯目を頼む。今度は熱く茶碗に少しのお茶で、ゆっくりと味わいながら、飲むことができた。
秀吉は満足し、これだけの心遣いができる者は誰か、会いたくなり、その者を呼んだ。
その男こそ秀吉亡き後、関が原の戦いで東軍の総大将として戦った石田三成であった。

人間の一生で、もう一度ということはない。一度一度が勝負なのだ。
やり直しがきかないとすれば、大学四年間・就職も結婚も人生八十年のわずかな期間とは思えない。
人生の中で貴重な一瞬なのである。

じゃ、この一番大切な時に充実な日々を送れるだけの目的を持っているだろうか?
人生の目的をしっかり持ち、我々の最善を尽くして頑張ろう。
そうすれば日々が好日となる筈だ。健闘を祈る。

理性の限界

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
理性の限界
ブレーズ・パスカル(1623~1662)
8月19日に死んだフランスの哲学者。人間の矛盾が信仰によって解決されると
説いた。また科学者としては流体の圧力に関する原理が著名。『パンセ』など。

「最大の哲学者でも、自分の身を置くに十分な広さの板の上に乗って断崖のきざはしに座るとしたら、彼の理性がどんなに身の安全を保証しても、やはり想像に打ち負かされてしまうだろう。普通の人ならばこんな状態を考えただけで、色を失い、冷や汗を流すであろう」『パンセ』

第二次大戦中、ドイツのフィリップ工場に大変精密なプレス機械が入り、日本の特使が見学に行った。1ミリの誤差もなしにプレスしてゆくのを見て、特使は驚き「これは凄い。私の命にかけて、保証します」と誉め上げた。
これを聞いた工場長。
「では、あなたの懐にある懐中時計をこの上に置きませんか」という。
形見の品だが嫌とも言えず、しぶしぶプレス機械に置いた。
機械は見事に時計の真上で止まったのだ。

特使は前以上に誉めた。すると工場長、今度は手を乗せないかと言ってくる。
左手の一本ぐらいなら命に別状はないとやむなく置いた。
プレスが音をたてて降りてきた。この手ともお別れかと観念したが、プレス機械は
ギリギリの処で止まった。
これに特使も大喜び。ますます機械の性能を褒めたたえた。
すると冗談のお好きな工場長。再度こう言ったのだ。
「では、今度はあなたの頭を乗せてみませんか」

ここであなたなら、どうする?特使はその場をすごすごと退散していったが、
誰も特使を笑える者はいない。道徳理屈で納得したつもりでも、自分の命に
関わることになった時、理性など吹っ飛んでしまう。
「死なんか怖くない」というのも、その一例かもしれない。


日本は我が家の庭

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
わが家の庭
豊臣秀吉(1536~1598)
8月18日死す。尾張中村の水飲み百姓から身をおこし、織田信長の家臣として、数々の武功をたて、信長の亡き後は、関白になった。日本の歴史上、一番功なり、
名を上げた人であろう。

秀吉は屋敷にツルを飼っていた。ところがある日、一羽のツルが逃げてしまった。
鳥飼いの役人、ひれ伏して、言上すると、秀吉、
「ツルはどこまで飛んでいったのか」
「はぁ?」
「異国までいったか」
「いいえ、逃げても日本の内でございます」
「うむ、それで苦るしゅうない。所詮、わが家の庭のうちじゃ」
堂々たる自信ではないか。さずがは秀吉と思わせる話である。

しかし、秀吉も大阪城内に黄金の茶室を造り、天下の名器、珍宝を集め、
美女をはべらせて、威勢を張っていたが、聚楽第の湯殿や便所にまで隠し堀を引いて、舟を浮かべ、いつ襲われても、脱出できるようにしていたという。
少年時代の秀吉は、裸でどこでも、寝転んで平気であったが、権力を握り、
天下を取ると、得意の絶頂でありながら、内心は戦々競々としていたのである。

『おごらざる者も、また久しからず、
     露と落ち、露と消えにし我が身かな、
        難波のことも夢の又夢』(秀吉辞世の句)
 
彼の辞世の句はあまりにも哀れである。栄耀栄華の限りを尽くしても
所詮は夢の又夢だったのか?

二倍に生きる

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
二倍に生きる
井原西鶴(1642~1693)
8月10日に死んだ。江戸の浮世絵草紙作者。俳人。元禄期の色里をえがいた好色物、武家の義理をあつかう武家物、町人生活の町人物などに特色がある。
『好色一代男』など。

「私は年は四十七だけど、三十九が本当です。そのわけは、元旦に雑煮も祝わず、
晴れ着もこしらえず、松飾りなど思いもよらず、恵方が東やら、暦さえ持たずに
年齢をとらない年が八年続いたんですから、四十七ですが、三十九なんです。」
西鶴の名作『日本永代蔵』の中の一節である。

時計の針はいつも同じ速度で動く。一時間は常に一時間だが、私達が実際に感ずる
時間はそうではない。二日分くらいの一日もあれば、半日くらいの一日もある。
だから六十年を百ニ十年に生きる技術が大切なのだ。

入学したての新入生の諸君には無事に出て大学四年間が与えられる。考えてみれば大変な長い時間。四年で八年分の充実した生活をするか。八年かかって、四年分の勉強をやっと終えるか。
なにしろ一度限りの人生。二倍どころか、無限に楽しい人生にしよう。

それを決断せずに過ごした人生は
『世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散りゆく』(一休)
ナント芝居にもならない人生だ。

危険なリズム

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
危険なリズム
チャールズ・チャップリン(1889~1977)
イギリスの映画人。ドタバタの喜劇の中にヒューマニズムと社会批判を酌み入れるのに成功。多くの傑作を制作した。『モダン・タイムス』など。9月5日に亡くなる。

銃殺が行われようとしていた。銃殺は型どおりで行われる。「気をつけ」「銃をかまえ」「ねらえ」「撃て」のリズムである。
ところが指揮官が最初の命令をかけた時、死を待つ男が咳をした。
それが指揮官のリズムを狂わせた。意志に逆らう反逆の血がどこかで流れたようだ。
指揮官はそれでも、とぎれとぎれに第二、第三の号令を発した。
兵士は銃をかまえた。その瞬間、助命の使いがやってきた。
指揮官は叫んだ。「止め」と。しかし、銃殺隊はすでにリズムのとりこになっていた。
号令と同時に七つの銃は一斉に火をふいた。

人間はリズムに乗りやすくできているらしい。ロックのリズムにカラオケのリズム。
はたまた手拍子・足拍子。しかし、奇妙なリズムは、時には正しい判断をマヒさせる
ようだ。
「人生は食て、寝て、起きて、糞たれて、子は親となる、子は親となる」(一休)

人生は変なリズムに取り付かれているのではなかろうか?

ぶっつけ本番

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
ぶっつけ本番
バシル・ホール・チェンバレン(1850~1935)
イギリスの日本学者。明治の初期に来日。日本文化に親しみ、これを海外に紹介すると同時に欧米の言語学を紹介。日本文法の体系化に大きな功績を残した。
2月24日死亡

「人生とは稽古する時間もなしに、我々が役割を演じなければならない芝居だ」

だいたい生まれ落ちた時からそうだ。
女役をやりたかったの、親孝行の役を演じたかったの、つべこべ注文するわけにはいかない。
いきなり“ハイ本番” 年頃になれば初恋だ。何時どうやってキッスをすれば分からない。

なにしろ監督も演出家も全てド素人の自分。信じられないほど演出が欠けている。
出てくる筈の場面が遅れて、いっこうに現われない。結末は気抜けがしている。
立派な役者になれたと思った頃が、老いぼれのヨボヨボで、もう痛烈な人生評論家にしかなれない。全く悲しい運命だ。
 
恋愛一つ例にとっても映画のようにはいかない。初めてのキッスはギョウザを食べた後ときている。恋仇が大の親友で、彼女との駅のホームでの劇的なお別れは『ホームでの送迎を禁ず』でオジャン。

また、一生一代の名演技をしたところで時代の流れという奴が邪魔をする。
大根役者がオモシロイと人気者。名俳優が古臭いと嫌われる。
はてさて、どうすればいいのやら?君は人生の主人公なのにね。

シャボン玉

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
しゃぼん玉
野口雨情(1882~1945)
明治15年5月29日に茨城県で生まれる。童謡作歌。日本全国を旅し、多くの童謡、民謡を書いている。[赤い靴]「十五夜お月さん」「七つの子」など。

雨情の書き残した童謡は数多い。
『童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩である』と詩を愛し、詩は言葉の音楽であると作り続けた。しかし、彼の詩にどことなく淋しさを感ずるのは何故だろう。
彼の童謡の名曲『しゃぼん玉』には、こんな秘話が隠されていた。
【しゃぼん玉】
 シャボン玉 飛んだ。 屋根まで飛んだ。 屋根まで飛んで壊れて消えた。
 シャボン玉 消えた。 飛ばずに消えた。 生まれてすぐに壊れて消えた。
 風 風 吹くな。 シャボン玉 飛ばそ。

明治41年3月、ひろ夫人との間に長女をもうけるが、7日で亡くなっている。
その時に作られたのがシャボン玉の歌だ。

一番目の歌詞は普通の子供の成長を喜ぶ親の気持ちを読んだのだろう。
ストローの先にシャボンをつけて、やさしくシャボン玉をふくらませる。
可愛い小さな玉は幼少の子供のこと、愛らしい。
大きくなったシャボン玉は、中学生、高校生の子供だろう。
しかし、大きくなったシャボン玉はいつまでもストローにしがみついているのではない。離れてゆき、屋根の鬼瓦まで飛んでゆき、パチンと消える。
これは大学にいけば、子供は親元から離れ、他県へ。
そこで就職、結婚。
「嫁をもらうと息子はあなたに尻をむける」の諺のごとく、
お母さんからみた息子の嫁は鬼嫁に違いない。
鬼瓦の嫁のところへ飛んでいった息子は親からは消えてゆくシャボン玉のよう。
上手く歌ったものと感心させられた。

しかし、このシャボン玉の歌は2番目の歌詞こそ、雨情が伝えたかった内容だったに違いない。

シャボン玉 消えた。 飛ばずに消えた。 生まれてすぐに壊れて消えた。
 風 風 吹くな。 シャボン玉 飛ばそ。

生まれてすぐに消えたシャボン玉が雨情の子供であることは察しがつくだろう。
では風とは何か。この世に吹きすさぶ無常の嵐のことだ。
信じたものに裏切られた時、人は苦しみ悲しむ。
信じれば信ずるほど裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなる。
無常なものは野口雨情の子供だけではないだろう。
咲き誇った花が散るときが来るように、死の巌頭に立てば、必死にかき集めた財宝も名誉も地位も、すべて我が身から離散し、一人で地上を去らねばならぬ。
これほどの不幸があるだろうか。
しかし、「無常の風、やんだかな?」