残照日記

晩節を孤芳に生きる。

血液型余話

2011-08-26 18:19:21 | 日記
≪血液型 就活で聞かれたら──シューカツで血液型を聞かれたらどうする? 就職活動で不況と東日本大震災のダブルパンチに あえぐ学生が悩んでいる。専門家は血液型による性格判断に科学的根拠はなく、面接で聞くことは 差別につながりかねないと警告している。 中部地方の女子学生(21)は面接で血液型を聞かれて戸惑った。B型だが、かつて「マイペースで 就活に不利な血液型だ」と言われ、気にかかっていたからだ。正直に答えたが、その会社は落ちた。 筆記も不調だったので、血液型が原因でないとは思う。しかし、被災地での態度が問題となり、7月に辞任した松本龍・前復興担当大臣が「B型だから」と言い訳していたのを見て 、「B型の印象が悪くなる」とため息が出た。…≫ (8/22朝日新聞)

∇≪ エントリーシートに記入させる企業もある。東日本にあるサービス業の採用担当者は 「あくまで参考程度の質問」「特定の血液型を排除しているわけではない」としたうえで、 「入社後に細かい作業をする部署もあるので、配置を考える上でも血液型を把握しておきたい」と説明する。 一方、ニセ科学に詳しい菊池誠・大阪大サイバーメディアセンター教授(物理学)は「いまだにそんな 会社があるんですねえ」とあきれる。菊池教授によると、性格と血液型の関連性は見つかっておらず、 「現代の迷信」という。「そもそも、自分の努力で変えられないことを就職の面接で聞くのはおかしい。 企業側に自覚がなさすぎる」 日本労働弁護団の常任幹事を務める中野麻美弁護士は「仕事への適応能力をみる採用の場で、 職務との関連性がない血液型の情報を求めるのは不合理だ。プライバシーを侵害し、いわれのない 差別にあたるおそれがある」と話している。≫そうだ。「いやはや」と言いたいところだが、かつて老生が現役の頃、能見正比古なる人物の「血液型でわかる相性」などが一時大流行して、大手人事部でも配置換えなどに利用されたことがあった。無論科学的根拠は無く効果もみられなかったので、その後解消された。就職時の選別になどに決して使うべきではない。

∇それを前提にして、あとは「血液型と政治家」余談を。──日本人の血液型はA型が最も多く39%、次にO型で29%、3番目はB型で22%、最も少ないのはAB型で10%。即ち、総人口に占めるA:O:B:AB型の割合はそれぞれ4:3:2:1であるとされる。血液型性格診断で一般的に言われるのが、A型は「生真面目で規律を重んじ、筋を通す。外面を気にする良い子ぶりっ子で“格好し”である。面子にこだわり、口うるさい。」、O型は「現実的で常識派かつ外交家。親分肌でバイタリティがある。人の好き嫌いや感情の起伏が激しい。物好きな面あり、あっさりして大らかな面がある。」、B型は「マイペースで、他人から行動を抑制されることを嫌う。周囲の影響を受けず、又気にしない。仕事師でアイデアマン。人は良いが、口はやゝ軽率で時に放言癖が出る。」、AB型は「人との応対は柔らかく親切人間。争いを好まない。プライドが強く、真面目で天才的な面をもつ。決断力に欠ける。人との付き合いに距離をおき、行動はやや消極的。一般的に分りにくい性格である。」──幾人もの学者により統計的差異分析が試みられたが、結局有意差を見いだせぬまゝ今日にいたっている。だが、通俗的には未だに「あの人は○○型だから」は罷り通っている。因みに老生はB型である。

∇菅首相が今日午後、≪国会内で開かれた民主党役員会で、退陣条件としていた特例公債法と再生可能エネルギー特別措置法が参院本会議で成立したことを受け、「約束したように代表の座を降りる。新代表が決まれば総理の座も辞す」と述べ、退陣を正式表明した。≫(読売新聞) 菅首相の後継を決める民主党代表選が愈々正念場を迎えたわけだが、趨勢は前原誠司前外相と、それを阻止する小沢・鳩山Gの動きに絞られてきた。誰が次の総理の座をしとめるか。因みに戦後総理大臣の血液型をネットで調べてみた。【A型】:佐藤栄作、三木赳夫、海部俊樹、宇野宗佑、小渕恵三、小泉純一郎、福田康夫、麻生太郎 【O型】:幣原喜重郎、東久爾宮稔彦、吉田茂、石橋湛山、岸信介、池田勇人、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、細川護煕、羽田牧、村山富市、森喜朗、鳩山由紀夫、菅直人 【B型】:田中角栄、竹下登、安倍晋三 【AB型】:宮沢喜一、橋本龍太郎 。以上から、戦後総理大臣の血液型比率は、A8:O16:B3:AB2なので、ABを1として換算し直すと、4:8:1.5:1となる。総人口に占めるA:O:B:AB型の割合はそれぞれ4:3:2:1であったから、“みかけ統計上”はO型総理が傑出して高い。

∇一方、現在の首相有力候補者の血液型は以下の通りである。【A型】:前原誠司、鹿野道彦、仙谷由人、原口一博 【B型】:小沢鋭仁、野田佳彦、馬淵澄夫、 【AB型】:海江田万里 。因みに小沢一郎元代表はB型、岡田克也幹事長と自民党総裁谷垣禎一氏はO型 。今回岡田氏は立候補しないのでO型総理の可能性はなくなった。ところで、巷間≪政治家とバーのホステスにO型が多い≫といわれる俗説は、戦後総理大臣たちの比率からは当っているような面もあるが、個々の顔ぶれをじっと眺めても、所謂血液型性格なるものゝ正統性は見受けられない。又、地震予測と一緒で、仮に血液型O型の総理が確率的に多いとしたところで、だからといってイコール総裁になれるというものではない。諸般の事情や関係する人脈との関わり、、最終的には、人智では予測できない真の意味での“国家やその人の運命”がそれを決める。その運命学で最も信がおけそうなのが「四柱推命」といわれる仙術である。江戸時代有数の推命学者・桜田虎門は、「凡そ人一生の間の富貴、貧賤、賢愚、寿夭ならびにその性格形態疾病など、またはその年々の吉凶、父母妻子の禍福にいたるまで、みな四柱八字を以て本とす」と断じた。即ち、人生の禍福はその人の生年月日時刻に一切の運命が宿されている、というのである。生国・生誕日などは天与のものだ。すると人の一生は運命に操られた傀儡に過ぎないことになる。

∇運命まで鑑定するには相当の研究と実践を必要とするが、「性格」「資質」面に於いては、不思議なくらい適中する。以前かなりのめりこんで研究に耽ったことがある。事例を孔子にとってみよう。孔子は魯の国の陬(すう)で生まれた。そして「史記」によれば、魯の襄公二十二年〈紀元前五五一年〉、公羊伝等では襄公二十一年(五五二年)の「冬十月庚子の日に誕生した」、と記載されている。白川静「孔子伝」は、結論を「生年を紀元前五五二年、生月を十月、生日を二十一日」とした。これを干支に置き換えると、己酉年、甲辰月、庚子日生まれとなる。これを、四柱推命流に表すと下記になる。これを鑑定すると以下のことが推命される。

     命式          行運(大運)
   庚 甲 己      辛 庚 己 戊 丁 丙 乙 甲
   子 辰 酉      亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰

<生日の日主は「庚」で金を表し「義の人」、しかも辰酉は金、辰子で水そして甲己干合して働かず。すなわち強い「金水傷官格」で、まさに学問研究の人である。庚子日生まれの性格は以下の通り。──①男性的な風貌と几帳面な態度の男性。温和な人柄を思わせる対人的いたわりと、きめ細かい配慮を持った折り目正しい人である。②本来淡白で率直、白黒をはっきりさせる行動力ある男性である。③短気であるが凶暴性はない。徹底した努力家で、人間的にもその知恵才覚よりもむしろ誠意や努力を買うヒューマニストである。④思想的には穏健であるが、自尊心は強い。常に自主独立を旗印にわが道をいくタイプ。⑤権威に追随せず、社会に迎合する柔軟さもない。芸能面での才能にすぐれている。人生波動は以下の通り。──1.五歳位までは辰辰の「自刑」、及び水気過剰にして命式が冷え切って悲運。2.丙午は共に火、十五歳にして学問に志す。三十歳位までには優秀の評判。3.三十五歳未子の「害」に合い、母国を去り斉に遊学。4.四十歳に戊運めぐり吉運。四十五歳の申運で足元を固める。5.五十歳で重臣になるも甲己の干合(命式と両方)にあい失脚。6.五十五歳以上は金だらけそして水。学問を助長かつ自我強く放浪と啓蒙。7.69歳で母国に帰り教育に専心。七三歳で死去。>。当るも八卦、当らざるも八卦。だが、そう馬鹿にできないところもある。呵呵大笑。


書法展雑感

2011-08-25 19:30:42 | 日記
【重九】 魯淵
≪白雁南飛天欲霜/蕭蕭風雨又重陽/已知建徳非吾土/還憶并州是故郷/蓬鬢轉添今日白/菊花猶似去年黄/登高莫上龍山路/極目中原木荒≫(白雁南に飛んで霜降らんとす。蕭蕭たる風雨の中、今年も重陽の節を迎えた。故郷の建徳を去って并州にいるがこゝ又故郷かも知れない。今では乱れ鬢に白髪が混じる。変わらぬのは菊花の黄色。丘に登って龍山路を探す勿れ。中原は見渡すかぎり荒れた草木ばかりだ。)

∇書にど素人の老生だが、有段者である友人S君から招待券を戴いて、サンシャイン文化会館会場の「読売書法展」を拝観してきた。上掲写真は彼の入選作「重九」の≪蓬鬢轉添今日白/菊花猶似去年黄≫部分をペイントで加工したもの。写真技術が拙く、実物の流麗なる筆致が歪んでいることをお詫びしておきたい。この部分を抜いたわけは、中国初唐の詩人・劉廷芝「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わる)の≪年年歳歳花相似/歳歳年年人不同≫を最近実感していた故である。劉廷芝は書道展の「定番」で、今回の会場にも某氏作の「代悲白頭翁」があった。≪洛陽城東桃李の花/飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ≫とあるように廷芝の詩は春。魯淵の「重九」は9月9日、菊の節句での詩で、≪蕭蕭風雨又重陽≫の寂しさが漂う。老生不敏にして作者を知らない。諸橋轍次「大漢和辞典」によれば、≪元、淳安の人。至誠の進士。新安守りを失い、賊に執えられたが、吟詠自若、予め祭文を作り、必死を誓う。賊平らぎてのがれ、淅江儒学提挙となり、ついで岐山下に帰隠し、春秋を以て学者に伝う。洪武の初、累りに徴されたが起たず。著に春秋節伝がある。≫と出る。何となく老生好みの隠士だった気がする。

∇さて、書法会事務局のパンフによれば、出品作品は、漢字、かな、篆刻、調和体の4部門で計約3万点にのぼるというから仰天だ。老生にはせいぜい漢字、かな部門がおぼろげに分る程度である。会場には所狭しとばかり陶淵明、李白、韓愈ら有名六朝・唐時代の漢詩は勿論のこと、「老子」「礼記」「菜根譚」等古典の言葉、そして蕪村、万葉集、会津八一etcの俳句・短歌、はては「方丈記」「平家物語」、更には土井晩翠の「荒城の月」、藤村の「初恋」「椰子の実」、又又、ニーチェやゲーテの言葉、「わしがやらねばたれがやる」等々、それはもう三万人三万様だ。先ずは、題材選びはどうやって決めるのだろうといつも思う。題材が決まれば、3ヶ月間くらいは納得のいくまで何度も何度も挑戦する。自己の潜在能力を引き出すための黙々たる闘い。その一幅の作品の裏に潜む研鑽の痕を思うと頭が下がる。「書道」は特に老人には掛け替えの無い典雅な趣味のように思われる。ただ、会場の作品を具に鑑賞しているうちに、素人ながら気になる点が幾つか浮かび上がってきた。端的に言えば、役員書家とか特選を受賞した作品より、入選作や無名公募氏のものに立ち止まる「何か」が見られたことである。特にお偉方の書がつまらない。上手く出来すぎて面白みや個性が感じられないのである。

∇例えば顧問・梅原清山氏の「乱雲飛」(夏目漱石)だとか今井凌雪氏「ゲーテのことば」。「役員作品鑑賞ガイド」に梅原氏は≪乱世の現今。この語句が思い当たった。会場効果を考え六朝楷書の大字とし筆意に、隷、行意を加味してみた。≫と注し、今井氏は、≪線の方向、文字の傾きに変化を持たせるとともに漢字との調和にも配慮しました。≫と述べている。要するに、≪会場効果を考え≫とか、≪線の方向、文字の傾きに変化を持たせる≫等に意識が散って、本来の「書道芸術」というより「筆墨アート」というに近くなっている。このような人が選者なのだから、勢いそれに添った作品が選ばれることになる「読売書法展」がそういう方向を目指す団体なら何も言う必要はない。だが、先述したように書道精神の「伝統」的作品を追求研鑽する逸材を見逃すことが危惧されないだろうか。会津八一が、戦時中、書道家たちまでが≪亜細亜の盟主≫気取りで、支那書道界を指導せんとしたことに、≪支那の歴代の書道には優れたものが極めて多い。…吾々の方から、もっと胸襟を開いて、そして従来よりはもっと熱心に、先ず彼等の書道を咀嚼し、玩味し、同化し、吸収して、吾々自身を、より高く向上させてかゝる必要があるのではないか。≫(「書道界に対する疑問」)と指摘していたのを思い出す。

∇彼は、随想「帝展の日本画を観て」でも、当時の役員や特選の作品を名指しで挙げて痛烈な批判をしている。そして曰く、≪観来たって私は帝展の日本画部に望む。…もっと謙虚な、もっと正直な、もっと真率な、もっと熱意のあるものを並べて見せて貰いたい。…吾々の持つべき美術は、放漫な大作よりも小品にあるとおもふ。小品といへばすぐ責塞ぎの投げやりものゝやうにおもはるゝのであるが、私のいふのは、感ずべきを感じ、捕ふべきを捕へて、隅々までも、余白にまでも、気と力との満ち/\たものをいふ。しかしことによると帝展あたりの画家の多くは、口には小品を軽んじながらその実は、引き締まった簡素な、芸術味の強い小品などは出来なくなって居るのではないかと私は危ぶむものである。≫と。良寛の如き融通無碍、自由奔放な書を見たいものである。≪おそらく良寛の書ぐらい筆者その人の主観の表現された書は古来甚だ少ないであろう。良寛の書は、実に彼の歌や詩と同じく、良寛その人の表現である。…良寛の書の美しさは決して形式美だけではない。それは常に生きている。常に歌っている。そこに良寛の書の独特性がある。(彼の書は)古来多くの人々によって賛辞が与えられている。併し何と云っても、やはり良寛の書に於いて何人も企及しがたしと思われる点は、それの表現的であり、内発的であるところにあると思う。身を以て書いた字、人格を以て書いた字──それが良寛の書ではないだろうか。≫(相馬御風「大愚良寛」)

∇≪禅師の書、これを強請すと雖も容易に諾せず。然れども興趣至れば筆を援りて縦横揮毫す。或る時、七日市山田氏に至り、如何なる機嫌にかありけむ、直ちに筆墨を借り、下女部屋の煤ばみたる明障子に、鉢の子の歌一首を書し、淋漓たる墨痕を眺め、会心の笑みを洩らして飄然立ち去れりと。≫(「沙門良寛全伝」)──要は“書は人なり”で、人間の面白さが書に表れるといっていいのだろう。「書聖」王羲之(321~379)は字を逸少といい、東晋時代の書家として古今に冠絶した。殊に唐の太宗・李世民が王羲之の書を悦び、「古今を詳察するに、善を尽くし美を尽くせるは、それたゞ王逸少か。…心慕い手追うは、この人のみ、その余区々の類、何ぞ論ずるに足らんや」と激賞した。そしてついに彼の「蘭亭序」を墓陵に殉葬せしめたという逸話が残るほどである。「蒙求」に王羲之の逸話が載っている。王羲之は13歳頃から常人にあらずとされ、成長すると弁舌に秀で、剛毅で硬骨漢として知られた。書を善くし、殊に隷書(楷書)に優れること「古今の冠たり」と。その頃軍部大臣に娘がおって、婿探しをしていた。叔父に王導という国務大臣をもつ王一族もその候補にあがり、子弟全員が面談させられた。そして王羲之がこの娘の婿に選ばれたのである。選ばれた理由が面白い。軍部大臣の使者の報告によれば、「王家の若者たちは流石名門の御曹司たち、いずれも立派な方々でした。礼儀正しく装いもしっかりしていました。ただその中に一人、便々たる腹を出して、平気で何かを食べていて、使者の存在などどこ吹く風の若者がおられた」と。それを聞いた大臣が「それこそよい婿じゃろう」といって王羲之を懇望したというのである。書家には、特選を狙うより、如何にも“その人らしい書”を書いて欲しいものである。


政局風雲

2011-08-24 18:11:12 | 日記
【議会主義制批判】(レーニン著「国家と革命」)
≪アメリカからスイスまで、フランスからイギリス、ノルウェーその他の国まで、どの議会主義制の国を取り上げても──これらの国々では、“国家”の実際活動は舞台裏で行なわれ、各省、閣僚、高級官僚によって遂行されているのだ。議会そのものは、“民衆”をだますという唯一の目的のために、おしゃべりに終始しているのだ。…≫(「語録人間の権利」ユネスコ篇 桑原武夫監訳 平凡社刊より)

≪国難乗り越える先頭に立つ…出馬表明で前原氏──民主党の前原誠司前外相(49)は23日、国会内で自らのグループの会合を開き、「挙党一致で日本の危機を救い、国難を乗り越えていく先頭に立たせていただきたい」と述べ、菅首相(代表)の後継を決める党代表選への立候補を正式に表明した。…前原氏は「全員野球」を強調し、「親小沢」と「反小沢」で党内対立が続いている現状について、「『小沢史観』からは脱却しなければいけない」と指摘した。元代表を含む代表経験者と個別に会談したいとの意向を示す一方、元代表の党員資格停止については、「現執行部が決定したことを尊重する」と見直し反対を改めて表明。3月に外相辞任のきっかけとなった在日韓国人献金問題については、時期を見て記者会見し、国民に説明する意向を示した。≫(8/24読売新聞)

▼愈々政局が動き出した。だが、問題を抱えたまゝの船出である。今朝の朝日新聞の調査「民主党47都道府県連幹部」取材記事に於ける反応を見るだけでも、「党内のゴタゴタ」を憤り、とにかく「党内融和」「挙党一致」を求める“悲鳴”が聞こてくるようだ。日経新聞を除く5大紙が、前原氏の出馬表明に対し、社説で民主党代表選に注文をつけた。要所を切り貼りして以下に掲げる。老生の愚見は不要だろう。──産経:≪前原氏出馬 外国人献金の説明がない。前原氏だけではない。小沢一郎元代表は政治資金規正法違反罪で強制起訴され、菅直人首相も外国人違法献金に加え、北朝鮮や拉致容疑者と関係の深い政治団体への巨額献金問題を抱えている。首相の巨額献金問題では、関係する政治団体から民主党国会議員のもとに6人の秘書が送り込まれていた。「クリーンな政党」を掲げながら、不透明かつ不適切なカネの流れが存在している。…前原氏は近く説明するとしたが、最高指導者を目指す上で、まずもって求められるのは、自らの疑惑払拭だ。…さらに不可解なのは代表選だ。事実上の首相選びを党所属国会議員だけで決めるやり方は問題だ。党員・サポーターをも巻き込んだ政策論争こそ、公党には最も必要なものだ。しかも、最大勢力を持つ小沢氏を代表選候補らが相次いで訪ねる「小沢詣で」が横行している。政策よりも、数合わせを優先してはいないか。≫

▼朝日:≪前原氏立候補──党代表や重要閣僚を歴任し、知名度のある政治家が名乗りをあげたことで、ようやく少しは代表選らしくなってきた。…すぐに政策論争を始めてほしい。立候補するなら現職閣僚であっても菅首相の正式な退陣表明を待つことなく、所信を発信すべきだ。 これまで、複数の立候補予定者が、党員資格停止中の小沢一郎元代表を訪ねたり、その処分解除を口にしたりしている。いつまで「小沢か脱小沢か」という内輪もめをさらし続けるのか。 小沢氏の処分は、党の機関が手続きを踏んで決めた。刑事裁判の判決も出ていないのに、見直す理由などない。そもそも、代表選の争点に浮上すること自体が見るに堪えない。 「小沢詣で」のより深刻な問題点は、グループの票を欲しさに、候補者たちが基本政策や主張をあいまいにする傾向がみられることだ。…候補者は首相になるという気構えのもと、堂々と政策の旗を掲げなければならない。そして議員は、一人一人が全国民の代表であることを深く自覚して、投票行動を決すべきだ。それなくして、この危機のさなかに、代表選をする意味はない。≫

▼読売≪民主党代表選 政策とその実現の道筋を示せ──民主党を支えてきた菅首相と鳩山前首相、小沢一郎・元代表のいわゆる「トロイカ」が出馬しない代表選となる。新生・民主党を築くきっかけとすべきである。…新代表が直面する課題は、内政、外交とも山積している。まず、東日本大震災からの復興を急ぐことだ。巨額の復興財源を増税によってどのように捻出するのか、明確な方針を打ち出す必要がある。このほか、電力危機を克服するエネルギー政策や人口減社会での成長戦略の策定、歴史的な円高への対応、環太平洋経済連携協定(TPP)参加の是非などがある。菅政権のように場当たり的な対応を繰り返してはならない。各候補は、早急に自らの政策を練り上げ、活発な政策論戦を繰り広げる必要がある。相互不信に陥っている政官関係も見直さなければなるまい。政策の実現に向け、野党とどう連携するかも極めて重要だ。ねじれ国会の下では自民、公明など野党との信頼を深めなければ、安定した政権運営はおぼつかない。懸念されるのは「小沢詣で」小沢氏に対する党員資格停止処分を見直すかのような発言さえあることは理解しがたい。票ほしさに処分を見直すというのでは国民から到底理解を得られまい。≫

▼東京:≪増税 民主代表選 霞が関改革をどうする──民主党代表選の大きな焦点は増税問題への対応だ。ところが、ここへ来て有力とされる候補は票欲しさからか言葉を濁す姿勢が目立っている。公務員制度はじめ霞が関改革への姿勢も問われる。…菅政権は東日本大震災の復興財源は所得税や法人税など基幹税の増税で償還し、社会保障財源についても「二〇一〇年代半ばまでに消費税を10%に引き上げる」との基本方針を決めている。いまになって現職閣僚があいまいな発言をするのは、いかがなものか。代表選の勝利を優先して、露骨な「増税隠し」に動いたと批判されても仕方がない。…増税論者の野田氏が急にかじを切り替えたのは、現実問題として増税環境が遠のいたという判断もあるだろう。だが、デフレを脱却していないのに、財務官僚の言いなりになって増税を決めた見通しの甘さこそ問われるべきだ。(又)霞が関改革をどう進めるのか。そこを聞きたい。民主党は「脱官僚・政治主導」を旗に掲げて政権を握ったが、いまや面影もない。日本経済の再建はもとより震災復興のためにも、霞が関の縦割り行政打破が不可欠だ。本音の論戦を避けているようでは、次の政権も期待できない。≫

▼毎日:≪最も注目したいのは、震災復興にかかる費用の財源をどう考えているかだ。…ところが、候補者として名が挙がっている人たちの多くが増税には反対か慎重な立場だ。「復興に水を差す」「景気を冷え込ませる」という理屈は分かりやすいが、財源の裏付けがなければ、基本的に単なる国債の増発に過ぎない。…税と社会保障の一体改革に伴う消費税引き上げにしても、復興増税にしても、「まず景気をよくしてから」という主張が多い。だが、景気を言い訳にした先送りの結果が、国債の発行残高だけでも670兆円という借金の山ではないか。…都合の悪い話題は協調してあいまいに、では党として信頼を失う。互いに見通しの根拠や最悪のシナリオへの備えについて追及し合うような討論を披露してほしい。≫

参考:【毎日新聞が20、21両日に行なった全国世論調査】
≪首相は東京電力福島第1原発事故発生後、「脱・原発依存」を提唱してきた。しかし、再生可能エネルギー推進策の先行きは不透明。全国規模で広がった電力不足を受け、社会・経済活動への不安も反映し、今回の調査で7割強が段階的な原発削減を求めた。原発を「減らす必要はない」は13%だった。原発事故に関連し、放射性物質による食品汚染への認識を聞いたところ、「不安を感じる」との回答が「大いに」(27%)と「ある程度」(44%)を合わせて71%に達した。不安を「あまり感じない」は23%、「全く感じない」は4%だった。民主党が子ども手当など09年衆院選マニフェストの主要政策を見直すことで自民、公明両党と合意したことについては「賛成」が69%で、「反対」(27%)を大きく上回った。賛成と答えた人は、民主支持層でも68%に達した。野党が参院で過半数を占める「ねじれ国会」を抱え、新政権の運営は引き続き、野党との協力関係が焦点になる。自民党など野党の対応を聞いたところ、「新政権と政策ごとに協力する」という「部分連合」への支持が70%と最多。民主党と内閣を作る「大連立」を望む意見は17%にとどまった。民主党の支持率は13%。自民党の支持率は22%、「支持政党はない」と答えた無党派層は49%だった。≫

半知半解

2011-08-23 19:34:16 | 日記
【煩いを厭うな】
≪煩いを厭ふはこれ人の大病。これ人事の廃弛し、功業の成らざらる所以なり。朱子曰く、「学者常に細務をみずからするを要す。心をして粗ならしむなかれ」と。今の学者、往々にして煩いを厭ふの病あり。終に事をなさざる所以なり。≫(貝原益軒「慎思録」)

∇今朝の「天声人語」に筆者からの詫びが入った。先週土曜日(20日)付「天声人語」に、≪(人語子が)朝顔と夕顔を育てたら、酷暑にめげず花を咲かせている。朝の凜に夜の幽と言うべきか。…(中略)…双方を詠んだ句が蕪村にある。〈朝がほや一輪深き淵のいろ〉。この絶品の前では、数多(あまた)の朝顔の句は影が薄いという人もいる。〈ゆふがほや竹焼く寺のうすけぶり〉は、どこか楚々とした野趣が漂ってくる。…朝顔はヒルガオ科に、夕顔はウリ科に属する。云々≫と書いた。ところが、≪先週土曜日の小欄で、…育てている花を夕顔と書いたのは、正しくは夜顔でした。不明を恥じつつ、おわびします。この夜顔はヒルガオ科で、俗称で広く「夕顔」とも呼ばれている。種子も「夕顔」として売られることが多いが、江戸期の蕪村が〈ゆふがほや竹焼く寺のうすけぶり〉と詠んだ、古くからあるウリ科の夕顔とは別のものになる。…読者からのご指摘をいくつか頂戴して教えられた。感謝をいたします。≫というもの。こゝのところ天声人語子のミスが目立つ。老生も二、三当ブログで紹介したが、一言で言えば、朱子のいう≪細務をみずからするを要す≫を手抜きしていることに起因するのではないか。

∇朝日新聞の如き大新聞ともなれば、筆者の希望するあらゆる資料が社内にある。こんな名言、こんな句が欲しいとスタッフに頼めばたちどころに手許に揃う。毎日脱稿を迫られる書き手には、いちいち原典を当ったり、蕪村の句と人語子の育てている「ゆうがお」が、「夕顔」なのか「夜顔」なのかの区別まで気にしていられない。ところが読者にはあらゆる分野の「専門家」がいて、毎朝それを読んでいる。「半知半解」の筆者の“お里が知れる”ことになってしまう。百年も続いている看板コラムを担当する者には、一入≪細務をみずからするを要す≫所以である。又、それは“他山の石」として我々にも言えることである。先日来、面白いテレビ番組のない日は、ユダヤの経典「タルムード」にのめりこんでいる。その「格言集」に、「目には目、歯には歯」が載っていた。旧約聖書「出エジプト記」や、「山上の垂訓」に出る、イエスの言葉、≪『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい≫で知られている。

∇この旧約「出エジプト記」に出る「目には目、歯には歯」は、≪害を与えられたら、それに相応する報復をすることのたとえ。「同害報復」≫(広辞苑)と出るとおりの意だが、イエスがそれを否定して≪悪人に手向かうな≫云々と言ったことから、どちらかと言えば、老生には「報復するな」の意が強く頭脳に染みこんでいる。マックスヴェーバーでさえ、キリストの解釈を「悪しき者にはてむかうな」の道徳、旧約原典の意を「悪しき者にはさからえ」の教えとした。(「職業としての学問」) しかし、「格言集」にはこうある。≪「目には目、歯には歯」は、多くの外国人によって残酷なルールとして誤って解釈されている。ところが、けっしてそうではない。実際には、もし相手の自動車のヘッドライトを一個こわしたら、それに相当するものを返せ、という律法を説明しているのだ。いったん返しさえすれば罪は消える。これがユダヤの正義の観念である。古代では、床屋が間違って耳を切落としたら、相手の全財産を奪おうとすることが多かったので、補償が妥当であるべきことを説いた言葉なのである。これは復讐をすすめる言葉ではなく、血迷って復讐することを戒める言葉なのだ。≫と。(ラビ・M・トケイヤー「ユダヤ格言集」実業之日本社版より)

∇そう言われてみれば、と早速「出エジプト記」を読みなおしてみたら、21章のその部分が蛍光ペンでしっかり塗り潰してある。曰く≪もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。…彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。云々≫と。即ち「目には目、歯には歯」は、≪害を与えられたら、それに相応する報復をすることのたとえ。「同害報復」≫(広辞苑)であり、「同害報復」をしたら「格言集」の通り、≪罪は消える≫ことが述べられていたのである。

∇考えてみれば、「タルムード」によく引用される旧約聖書「レビ記」19章18の、≪あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。≫などを見ても、≪「悪しき者にはさからえ」の教え≫など元々なかったのだ。要するに「半知半解」者の犯す大罪だった。そう思ってついでに「コーラン」を調べてみた。原典にはこうあった。≪汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において(「聖戦」すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。そのような者と出くわしたらどこでも戦え。そして彼らが汝らを追い出した場所から(今度は)こちらで向こうを追い出してしまえ。…向こうからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの。しかし向こうが止めたら(汝らも手を引け)。まことにアッラーは寛大で情深くおわします。≫と。(「コーラン」岩波文庫版より)──イスラム人の「聖戦」「報復主義」についても独断を避けなくては。勉励、勉励。


続風評被害

2011-08-22 19:02:58 | 日記
【噂好きの弟子】
≪子貢、人を方(たくら)ぶ。子曰く、賜(=子貢)や、賢なるかな。夫(そ)れ我れは則ち暇(いとま)あらず。(憲問篇)≫( 切れ者の弟子・子貢が人の悪口を言った。先生は言った、「お前は賢しこいんだね。まあ私などにはそんな暇はない」と。)

∇昨日例示したとおり、政府当局の発表が≪極めて抽象的であり、舌足らず≫の場合、事実を知りたいと欲する人々にとって、≪要素と要素の間、知識の断片と断片との間に溝があり矛盾があって、到底それだけでは首尾一貫した報道として万人を満足させることが出来ないといふことが…流言蜚語の材料となる≫。清水幾太郎はそう指摘した。一橋大学商学部長の沼上幹氏も組織論の立場から、≪トップの側は、「余計な心配をしないで、従業員は自分の職場で仕事に熱中してほしい」と願っているのだろうが、むしろ情報不足の時の方が「余計な心配」は増えてしまう。「今、何が起きているのか」が分らないから、かすかな手がかりを使って各自が勝手に仮説的ストーリーを創り出す。≫≪「どうなっているのか分らない不安」は、「相当悪い真実」よりもかえって悪性である≫と言っている。(8/12朝日新聞) 今回の大震災、特に福島第一原発事故に関しては、政府の発表内容が≪極めて抽象的であり、舌足らず≫だった。しかも「情報公開の遅れ」が各方面から糾弾された。水素爆発やメルトダウンの可能性、放射能拡散の予測等々だ。それに対する憶測が憶測を呼び、過度の不安を煽った、と。

∇確かに、人の生命を左右しかねない“放射能被害”に関しては、清水幾太郎の表現を借りれば、人々は“事実”を知ることに≪飢え≫ている。問題は、事故勃発当初、原子炉内の様子が全く分らない状況下、現場担当者や原発専門家たちでさえ、逐次入手出来たデータからどうにか類推するしかなかった事故状況の“事実”を、正しく伝えることが可能だったか、又、それを逐次“実況報告”する意味があったのか、ということだ。「早く報せろ/\」と急かしたところで、“類推”を以て“事実”に代えることは出来ないし、絶対にやってはいけない。又、放射能漏れや水素爆発・メルトダウンが起きていることを“類推”はできただろうが、それを一刻も早く一般市民に報せることにどんなメリットがあっただろうか。外野席の学者やマスコミはいかにも尤もらしく責め立てたが、非当事者としての彼らの“無責任な煽り”が、実は≪「流言蜚語」の材料≫になっていたのではないか。政府は意図的に隠したとは思えない。今回の「流言蜚語」の背景には、事故が、“原子炉”“放射能”という極めて複雑で高度な科学的知識を必要とするものであったこと、しかも、それが壊滅的な事故を起こした際に想定される拡散モデルや人間・動植物への影響度合等の特殊データやシミュレーションが、「安全神話」の陰に隠れて研究されていなかったことが挙げられると思う。

∇「流言蜚語」とは≪根拠のないのに言いふらされる、無責任なうわさ。デマ。≫(「広辞苑」)だった。そして「風評被害」とは、≪根拠のない噂のために受ける被害。特に、事件や事故が発生した際に、不適切な報道がなされたために、本来は無関係であるはずの人々や団体までもが損害を受けること。例えば、ある会社の食品が原因で食中毒が発生した場合に、その食品そのものが危険であるかのような報道のために、他社の売れ行きにも影響が及ぶなど≫(「大辞泉」)だった。今回の「風評被害」が関東大震災と根本的に異なるのは、≪根拠のない≫報道というより、「根拠を特定できない段階の情報」がもとで起きた「流言蜚語」であり、「風評被害」ではなかったろうか。果して人体に有害なる限界放射線量は真実どれ位なのか。食用馬牛肉、野菜・海産物等の基準値はどうか。それは毎時量それとも年間浴びた総量? 避難指定の基準値となる、或はホットスポット地に置ける危険放射線量は、本当のところ何マイクロシーベルトなのか。しかも測定場所は地表なのか地上○○メートルなのか。放射線量測定機器にかなりバラツキが生じているという報告がある。誤差範囲±αの許容量αはルール化されているのか。etc 学者によっても諸説紛々で、基準値そのものに信が置けない。これでは「流言蜚語」が生まれ、「風評被害」が拡大して当然だ。

∇もう一つ見逃せないのが、吉村昭著「関東大震災」の記事を総括した際に挙げた、≪③市民は事実が知りたくて争って新聞記事を読み漁り、流言が事実だと信じ込んだ。④頒布禁止処分通告にもかかわらず、地方紙のみならず当時の大新聞までがそれに類した記事を掲載し続けた≫という部分だ。世の中には“事実”に飢え、情報を欲しがる人々と、それを当て込んで「デマ」や「類推」を平気で流したがる人々或はマスコミがいる。超高度に発展した“情報化社会”で悪弊となってきたのは、後者が大手を振って歩き回っていることである。例えばTVの「ワイドショー」を見たまえ。凡そ“ど素人”と断言して憚らない輩が、避難・警戒地区指定を否なりとし、メルトダウンは当然予測できたなどと専門家気取りで政府批判を繰り返した。新聞・雑誌然りだ。どの局、どの紙面を見ても「政府の初動ミス」「情報の隠蔽体質」で一色だった。現代の「風評被害」とは、「半知半解の有識者やマスコミが流す流言蜚語によって引き起こされる社会全体の被害」と定義できないか。表向きは正義面して、実は孔子の高弟であった子貢の如く、単に政府批判好きの偉ぶりたがり屋たちが、社会に混乱のタネを垂れ流しているのではないか。マスコミはショッキングな話題をバラ撒いて視聴率や部数稼ぎを狙い、有識者は自分たちの出番(評論・マスコミ出演)に有利なように振舞っているだけなのかもしれない。このテーマはさらに追求してみたい。今回はこゝまで。付録に岩波文庫「寺田寅彦随筆集」より随筆「流言蜚語」を──。

【流言蜚語】
≪長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯(ガス)の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。

「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化(かえ)らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。(又)大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。

この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所(ありか)を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない

考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更(なおさら)である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。≫
(大正十三年九月『東京日日新聞』)