残照日記

晩節を孤芳に生きる。

終戦記念日Ⅱ

2011-08-15 17:47:47 | 日記
【戦没者追悼式、天皇陛下の「おことば」】
≪本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。 終戦以来既に66年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。 ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。≫

≪戦没者追悼式 参列者、一層の世代交代 「妻」1%未満──66回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。菅直人首相は約310万人の戦没者を哀悼し、不戦の誓いを新たにした。高齢化に伴い、戦没者の妻は参列した遺族の1%に満たない。  全国の遺族4817人のほか、天皇、皇后両陛下、横路孝弘衆院議長、各政党代表者らが列席。菅首相は式辞で、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」と、1993年の細川護熙首相(当時)以降引き継がれている加害責任に言及した。さらに東日本大震災にも触れ、「我が国は、戦後の廃虚から立ち上がり、困難を乗り越えてきた。被災地を、そして日本を、必ず力強く再生させる」と、復興を誓った。岩手、宮城、福島の被災3県からは計139人の戦没者遺族が参列した。 …参列者の世代交代は著しい。20年前は戦没者の妻が2700人余と全体の4割を占めたが、今年の出席見込み者は43人(0.9%)で過去最少を更新。父母の参列は2年ぶりになかった。一方、子どもは3180人と全体の3分の2を占める。孫を含む戦後生まれは過去最多の451人にのぼった。≫(8/15朝日新聞)

∇さて、当ブログは昨日の続きだ。日経社説は「8.15を思い、3.11後の日本を考える」と今後の日本にエールを送った。社説は先ず、≪今となってみれば、よくあんな無謀で、理不尽な戦争をしたものだ、といわざるをえない。なぜ、昭和20年8月よりもっと早くやめられなかったのか、といった悔いも残る≫として、戦争最後の局面を五百頭真著「日本の近代6 戦争・占領・講和」を主に引用しながら振り返る。記事から孫引きしてそれを箇条書きしてみる。──①20年8月14日午前10時50分、皇居で最後の御前会議が開かれた。陸軍を中心に軍部には、ポツダム宣言受諾への反対論が、なお渦巻く。②判断を求められた昭和天皇は「宣言を受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えてもらいたい」と言い切った。異をとなえるものはなく、宣言受諾が正式決定した。③天皇は、「日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」とつけ加えた。④午後一時から閣議。聖断の際の天皇発言をいかしながら、書記官長の迫水久常が用意し、陽明学者の安岡正篤が最終的な筆を入れた終戦の詔勅に、その夜自刃した阿南惟幾陸相を含む全員が副署した。

∇社説は、この「詔勅」の≪(昭和天皇が)「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び…」ポツダム宣言を受諾する意向を示したうえで、「総力を将来の建設に傾け」「世界の進運に後れざらんことを期すべし」として、国民に復興に力を尽くすよう求めた。…こゝに戦後日本の起点がある≫とした。国民は焼け跡闇市から抜け出し、懸命に上を向いて頑張った。その結果高度成長と「一億総中流」といわれる終戦直後を思えば、夢のような国ができあがった。その後バブルが発生して崩壊。右肩上がりを前提とした経済社会システムが行き詰った。そして今に続く「失われた20年」といわれる停滞期を迎え、下り坂のところに大震災が襲い掛かった、と回顧する。当に政府の復興構想会議の提言が≪「この国の『戦後』をずっと支えていた“何か”が、音をたてて崩れ落ちた」と書いた≫通り、戦後は終わった。日経社説は以上のことを縷々述べた後、≪震災後という新しい時代の始まりである。ここを日本再生の転機と、とらえたい。≫と復興提言するのである。≪戦後復興と同じように、震災復興を通じ新しい日本を創るという目標をかかげよう≫と。≪旗印は成長と連帯だ。今からでも遅くないからオールジャパンで取り組む態勢を築きあげねばならない。≫とも──。

∇では、而して「復興のバネ」はどこにあるか。社説は復興構想会議の五百頭議長が披露するエピソードにそれを見た。話はこうだ。戦後、廃墟の東京にやってきた元ハワイ州知事J・アリヨシ氏が、街角で少年に靴磨きをしてもらった。少年の心の籠った仕事に感激した氏が、兵舎に戻ってパンにバターとジャムをいっぱい塗って少年にプレゼントしようと引き返して、「これを君にあげるよ」と手渡しした。腹ペコ少年のこととて、すぐがぶりつくかと思ったら、その7歳の少年はそのまゝ風呂敷にしまった。「なぜ食べないの」と聞くと、少年は「家にマリコという3歳の妹が待っていますから」と答えた。≪この瞬間、アリヨシ氏は「物としての日本は壊れたが、日本人の心は失われていない。必ずや、日本民族はよみがえる」と確信した、という≫。 社説はこう締めた、≪今回の大地震で、少年の心を被災地の人々に見た。8月15日の原点を思いおこし、3月11日の破壊から創造となる震災後も、敗戦後と同じように復興バネを働かせよう。この国は必ずや、よみがえると信じて≫と。──尚、安岡正篤が朱筆を入れた≪万世のために太平を開かんと欲す≫は、中国宋代の碩学・張横渠の言葉≪天地のために心を立て、生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く≫からとったものであるが、≪太平を開く≫のは我々国民一人一人の責務だろう。久し振りに爽やかな社説に廻り合った。下に「終戦の詔勅」を原文の難読漢字を開き、ひらがな文に書き替えて掲載しておく。この「詔勅」を写経するように書写していたと伝えられるのが、最後の海軍大臣・米内光政だったことを蛇足でつけ加えておこう。負けるな日本!

【終戦の詔勅】

 『朕(ちん)、深く世界の大勢と、帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって、時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。朕は、帝国政府をして、米英支ソ四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。

 そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり、万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の挙々おかざるところ。先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。しかるに、交戦すでに四歳をけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局、かならずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ、まことに測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか。ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくむは、朕、何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。

 朕は帝国とともに、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に倒れたる者、及びその遺族に想を致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)するところなり。おもうに今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。汝臣民の衷情も、朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむくところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。

 朕はここに、国体を護持しえて、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共にあり、もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。』

 御 名 御 璽

  昭和二十年八月十四日
 (以下、内閣総理大臣・鈴木貫太郎はじめ、十六名の閣僚福署)