残照日記

晩節を孤芳に生きる。

半知半解

2011-08-23 19:34:16 | 日記
【煩いを厭うな】
≪煩いを厭ふはこれ人の大病。これ人事の廃弛し、功業の成らざらる所以なり。朱子曰く、「学者常に細務をみずからするを要す。心をして粗ならしむなかれ」と。今の学者、往々にして煩いを厭ふの病あり。終に事をなさざる所以なり。≫(貝原益軒「慎思録」)

∇今朝の「天声人語」に筆者からの詫びが入った。先週土曜日(20日)付「天声人語」に、≪(人語子が)朝顔と夕顔を育てたら、酷暑にめげず花を咲かせている。朝の凜に夜の幽と言うべきか。…(中略)…双方を詠んだ句が蕪村にある。〈朝がほや一輪深き淵のいろ〉。この絶品の前では、数多(あまた)の朝顔の句は影が薄いという人もいる。〈ゆふがほや竹焼く寺のうすけぶり〉は、どこか楚々とした野趣が漂ってくる。…朝顔はヒルガオ科に、夕顔はウリ科に属する。云々≫と書いた。ところが、≪先週土曜日の小欄で、…育てている花を夕顔と書いたのは、正しくは夜顔でした。不明を恥じつつ、おわびします。この夜顔はヒルガオ科で、俗称で広く「夕顔」とも呼ばれている。種子も「夕顔」として売られることが多いが、江戸期の蕪村が〈ゆふがほや竹焼く寺のうすけぶり〉と詠んだ、古くからあるウリ科の夕顔とは別のものになる。…読者からのご指摘をいくつか頂戴して教えられた。感謝をいたします。≫というもの。こゝのところ天声人語子のミスが目立つ。老生も二、三当ブログで紹介したが、一言で言えば、朱子のいう≪細務をみずからするを要す≫を手抜きしていることに起因するのではないか。

∇朝日新聞の如き大新聞ともなれば、筆者の希望するあらゆる資料が社内にある。こんな名言、こんな句が欲しいとスタッフに頼めばたちどころに手許に揃う。毎日脱稿を迫られる書き手には、いちいち原典を当ったり、蕪村の句と人語子の育てている「ゆうがお」が、「夕顔」なのか「夜顔」なのかの区別まで気にしていられない。ところが読者にはあらゆる分野の「専門家」がいて、毎朝それを読んでいる。「半知半解」の筆者の“お里が知れる”ことになってしまう。百年も続いている看板コラムを担当する者には、一入≪細務をみずからするを要す≫所以である。又、それは“他山の石」として我々にも言えることである。先日来、面白いテレビ番組のない日は、ユダヤの経典「タルムード」にのめりこんでいる。その「格言集」に、「目には目、歯には歯」が載っていた。旧約聖書「出エジプト記」や、「山上の垂訓」に出る、イエスの言葉、≪『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい≫で知られている。

∇この旧約「出エジプト記」に出る「目には目、歯には歯」は、≪害を与えられたら、それに相応する報復をすることのたとえ。「同害報復」≫(広辞苑)と出るとおりの意だが、イエスがそれを否定して≪悪人に手向かうな≫云々と言ったことから、どちらかと言えば、老生には「報復するな」の意が強く頭脳に染みこんでいる。マックスヴェーバーでさえ、キリストの解釈を「悪しき者にはてむかうな」の道徳、旧約原典の意を「悪しき者にはさからえ」の教えとした。(「職業としての学問」) しかし、「格言集」にはこうある。≪「目には目、歯には歯」は、多くの外国人によって残酷なルールとして誤って解釈されている。ところが、けっしてそうではない。実際には、もし相手の自動車のヘッドライトを一個こわしたら、それに相当するものを返せ、という律法を説明しているのだ。いったん返しさえすれば罪は消える。これがユダヤの正義の観念である。古代では、床屋が間違って耳を切落としたら、相手の全財産を奪おうとすることが多かったので、補償が妥当であるべきことを説いた言葉なのである。これは復讐をすすめる言葉ではなく、血迷って復讐することを戒める言葉なのだ。≫と。(ラビ・M・トケイヤー「ユダヤ格言集」実業之日本社版より)

∇そう言われてみれば、と早速「出エジプト記」を読みなおしてみたら、21章のその部分が蛍光ペンでしっかり塗り潰してある。曰く≪もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。…彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。云々≫と。即ち「目には目、歯には歯」は、≪害を与えられたら、それに相応する報復をすることのたとえ。「同害報復」≫(広辞苑)であり、「同害報復」をしたら「格言集」の通り、≪罪は消える≫ことが述べられていたのである。

∇考えてみれば、「タルムード」によく引用される旧約聖書「レビ記」19章18の、≪あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。≫などを見ても、≪「悪しき者にはさからえ」の教え≫など元々なかったのだ。要するに「半知半解」者の犯す大罪だった。そう思ってついでに「コーラン」を調べてみた。原典にはこうあった。≪汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において(「聖戦」すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。そのような者と出くわしたらどこでも戦え。そして彼らが汝らを追い出した場所から(今度は)こちらで向こうを追い出してしまえ。…向こうからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの。しかし向こうが止めたら(汝らも手を引け)。まことにアッラーは寛大で情深くおわします。≫と。(「コーラン」岩波文庫版より)──イスラム人の「聖戦」「報復主義」についても独断を避けなくては。勉励、勉励。