残照日記

晩節を孤芳に生きる。

鵜呑みするな

2011-08-12 18:30:57 | 日記
【ユダヤ格言】
≪完全に愚かな者より、半分愚かな者のほうが愚かだ。≫
<完全に沈んでしまっている船は、他の船の航行の邪魔にならない。しかし、半分沈んでいる船は、他の船の妨げとなる。>(「タルムード」の解釈) 即ち、生半可な知識を振りまわすと、自分も、他人も怪我してしまうことになるのを戒めている。日本の諺「生兵法は大怪我の基」の意。どうすれば防げるか。≪答えるまえに考えよ≫(賢人7つの長所)

∇8月8日付「天声人語」をユダヤ方式で考えてみよう。先ず出だしの部分はこうだった。①≪きょうは日本の民俗学の父とされる柳田国男の命日。名高い「遠野物語」に、津波で死んだ妻の霊に、夫が夜の三陸の渚(なぎさ)で出会う話がある。名を呼ぶと振り返って、にこと笑った。だが妻は2人連れで、やはり津波で死んだ人と今は夫婦でいると言う。「子どもは可愛くはないのか」と問うと、妻は少し顔色を変えて泣いた。そして足早に立ち去り見えなくなってしまう。珠玉の短章だが、怪異な伝承に投影された、生身の人間の切なさを思えば胸がつまる≫と。そして明治の三陸海岸で津波に襲われた夜、助かった者が薪を盛大に焚いて、暗闇の海で迷う被災者を導いたという柳田の別作品をあげ、この度の大震災の被害者が新盆を迎えるという、文章の「転」に入る。そして②≪迎え火から送り火までの数日は、日本人の情念が最も深まるときだ。人の生も、人の死も、自然や共同体という、人を包んでくれる世界の中でこそ完結する。しかし近年はそれを壊し、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏んできた。その功と罪を、震災後の夏はあらためて問いかけてくる。≫と奇妙な文章を述べた後、「結」に移る。③≪「遠野物語」に戻れば、妻の霊を見失って帰った夫はその後久しく煩った、と一話は結ばれる。時代は移っても、人の心は変わらない。かなしさの中に、汲むべきものが見えている。≫と。

∇先ずこのコラムを云々する前に、ユダヤ人なら「遠野物語」の当該≪短章≫(第99話)を開いて読むことから始めるだろう。≪名を呼ぶと振り返って、にこと笑った。≫とある直後に柳田の原文はこう続く。≪男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯(つなみ)の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。≫と。そして≪男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。≫  もう既に気づかれたと思うが、亡妻の霊は二人連れだったが、その相手の男は、「自分」が婿入りする前のかつての恋人だった。子供は可愛くないのかと問うと少し顔色を変えて泣いたが、そのまゝ二人は足早に立ち退いた。そしてこの短章で重要なのが、≪ふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。≫の部分である。天声人語子は、飽くまでもこの小話を津波被害にことよせて≪生身の人間の切なさを思えば胸がつまる。≫としているが、読み違いしているように思う。

∇霧の深い夜、津波事故で亡くした妻の霊を見た男(自分)は入婿だった。かつて妻から相思相愛の人がいたと聞かされていた。が、なんと亡妻が連れ立っていたのがその恋人だった。嫉妬心からつい、「子供は可愛くないのか」の詰問調の問が口から出る。男は生き残った二人の子供と元の屋敷跡に小屋を立てて一年ほど暮らしていた。子供たちはきっと津波で海の藻屑と消えた母親を偲んで夜毎悲しんでいたのであろう。それなのに何故。それもこの問を発した背景にあると思われる。かつての恋人と連れ立つ亡妻。ふと気がつけば死霊へのやっかみ。≪夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。≫ この男は一晩中何を考えていたのだろう。生存中の夫婦・家庭、それは妻にとって本当に幸せだったのだろうか。婿入りが決まった当時の状況が脳裏をよぎる。何か事情があって相思相愛の相手と結ばれなかった。妻は不本意ながら自分と結婚した。仮面夫婦だったのだろうか。etc etc そんな事々を一晩中考えていたのではないか。男は≪その後久しく煩いたりといえり。≫ この「結」語は、天声人語子がいう≪生身の人間の切なさ≫では決してないし、≪時代は移っても、人の心は変わらない。かなしさの中に、汲むべきものが見えている。≫などという類いのものでもない。

∇要するに、この第99話は、男が入婿で、亡妻の連れ合いが婚前に恋人だったこと、そして生前の事々を夜明けまで道中で考えていたことが物語のキーワードで、≪生身の人間の切なさ≫が、津波や大震災の切なさに「牽強付会」されるべき筋合いのものではない。偶々物語の背景が津波事故だっただけのこと。極端な話が交通事故でも構わないのだ。それと②≪迎え火から送り火までの数日は、日本人の情念が最も深まるときだ。人の生も、人の死も、自然や共同体という、人を包んでくれる世界の中でこそ完結する。≫云々も先述した通り奇妙な文章である。殊に≪人の生も、人の死も、自然や共同体という、人を包んでくれる世界の中でこそ完結する。≫とはどういうことか。≪人を包んでくれる世界の中でこそ完結する。≫は独り善がりな美文だ。大震災で被災者が孤独のうちに死んでいったことを鎮魂する心情は分らぬでもないが、≪~でこそ完結する。≫は大袈裟すぎる。以前紹介した如く、「天声人語」は学生や社会人の文章の模範として尊ばれている。8月8日付「天声人語」はどう読まれ、読者は何を学んだのだろうか。小手先文章が“鵜呑み”されていたとするなら大罪を犯したことになる。それは、結局「遠野物語」を利用して達意の文章を作文するために、原文の重要箇所を外してまで我が田に水を引こうとした天声人語子の責任である。否、否、タルムードはこう言うだろう。「鵜呑みする方が悪い」と。