残照日記

晩節を孤芳に生きる。

書法展雑感

2011-08-25 19:30:42 | 日記
【重九】 魯淵
≪白雁南飛天欲霜/蕭蕭風雨又重陽/已知建徳非吾土/還憶并州是故郷/蓬鬢轉添今日白/菊花猶似去年黄/登高莫上龍山路/極目中原木荒≫(白雁南に飛んで霜降らんとす。蕭蕭たる風雨の中、今年も重陽の節を迎えた。故郷の建徳を去って并州にいるがこゝ又故郷かも知れない。今では乱れ鬢に白髪が混じる。変わらぬのは菊花の黄色。丘に登って龍山路を探す勿れ。中原は見渡すかぎり荒れた草木ばかりだ。)

∇書にど素人の老生だが、有段者である友人S君から招待券を戴いて、サンシャイン文化会館会場の「読売書法展」を拝観してきた。上掲写真は彼の入選作「重九」の≪蓬鬢轉添今日白/菊花猶似去年黄≫部分をペイントで加工したもの。写真技術が拙く、実物の流麗なる筆致が歪んでいることをお詫びしておきたい。この部分を抜いたわけは、中国初唐の詩人・劉廷芝「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わる)の≪年年歳歳花相似/歳歳年年人不同≫を最近実感していた故である。劉廷芝は書道展の「定番」で、今回の会場にも某氏作の「代悲白頭翁」があった。≪洛陽城東桃李の花/飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ≫とあるように廷芝の詩は春。魯淵の「重九」は9月9日、菊の節句での詩で、≪蕭蕭風雨又重陽≫の寂しさが漂う。老生不敏にして作者を知らない。諸橋轍次「大漢和辞典」によれば、≪元、淳安の人。至誠の進士。新安守りを失い、賊に執えられたが、吟詠自若、予め祭文を作り、必死を誓う。賊平らぎてのがれ、淅江儒学提挙となり、ついで岐山下に帰隠し、春秋を以て学者に伝う。洪武の初、累りに徴されたが起たず。著に春秋節伝がある。≫と出る。何となく老生好みの隠士だった気がする。

∇さて、書法会事務局のパンフによれば、出品作品は、漢字、かな、篆刻、調和体の4部門で計約3万点にのぼるというから仰天だ。老生にはせいぜい漢字、かな部門がおぼろげに分る程度である。会場には所狭しとばかり陶淵明、李白、韓愈ら有名六朝・唐時代の漢詩は勿論のこと、「老子」「礼記」「菜根譚」等古典の言葉、そして蕪村、万葉集、会津八一etcの俳句・短歌、はては「方丈記」「平家物語」、更には土井晩翠の「荒城の月」、藤村の「初恋」「椰子の実」、又又、ニーチェやゲーテの言葉、「わしがやらねばたれがやる」等々、それはもう三万人三万様だ。先ずは、題材選びはどうやって決めるのだろうといつも思う。題材が決まれば、3ヶ月間くらいは納得のいくまで何度も何度も挑戦する。自己の潜在能力を引き出すための黙々たる闘い。その一幅の作品の裏に潜む研鑽の痕を思うと頭が下がる。「書道」は特に老人には掛け替えの無い典雅な趣味のように思われる。ただ、会場の作品を具に鑑賞しているうちに、素人ながら気になる点が幾つか浮かび上がってきた。端的に言えば、役員書家とか特選を受賞した作品より、入選作や無名公募氏のものに立ち止まる「何か」が見られたことである。特にお偉方の書がつまらない。上手く出来すぎて面白みや個性が感じられないのである。

∇例えば顧問・梅原清山氏の「乱雲飛」(夏目漱石)だとか今井凌雪氏「ゲーテのことば」。「役員作品鑑賞ガイド」に梅原氏は≪乱世の現今。この語句が思い当たった。会場効果を考え六朝楷書の大字とし筆意に、隷、行意を加味してみた。≫と注し、今井氏は、≪線の方向、文字の傾きに変化を持たせるとともに漢字との調和にも配慮しました。≫と述べている。要するに、≪会場効果を考え≫とか、≪線の方向、文字の傾きに変化を持たせる≫等に意識が散って、本来の「書道芸術」というより「筆墨アート」というに近くなっている。このような人が選者なのだから、勢いそれに添った作品が選ばれることになる「読売書法展」がそういう方向を目指す団体なら何も言う必要はない。だが、先述したように書道精神の「伝統」的作品を追求研鑽する逸材を見逃すことが危惧されないだろうか。会津八一が、戦時中、書道家たちまでが≪亜細亜の盟主≫気取りで、支那書道界を指導せんとしたことに、≪支那の歴代の書道には優れたものが極めて多い。…吾々の方から、もっと胸襟を開いて、そして従来よりはもっと熱心に、先ず彼等の書道を咀嚼し、玩味し、同化し、吸収して、吾々自身を、より高く向上させてかゝる必要があるのではないか。≫(「書道界に対する疑問」)と指摘していたのを思い出す。

∇彼は、随想「帝展の日本画を観て」でも、当時の役員や特選の作品を名指しで挙げて痛烈な批判をしている。そして曰く、≪観来たって私は帝展の日本画部に望む。…もっと謙虚な、もっと正直な、もっと真率な、もっと熱意のあるものを並べて見せて貰いたい。…吾々の持つべき美術は、放漫な大作よりも小品にあるとおもふ。小品といへばすぐ責塞ぎの投げやりものゝやうにおもはるゝのであるが、私のいふのは、感ずべきを感じ、捕ふべきを捕へて、隅々までも、余白にまでも、気と力との満ち/\たものをいふ。しかしことによると帝展あたりの画家の多くは、口には小品を軽んじながらその実は、引き締まった簡素な、芸術味の強い小品などは出来なくなって居るのではないかと私は危ぶむものである。≫と。良寛の如き融通無碍、自由奔放な書を見たいものである。≪おそらく良寛の書ぐらい筆者その人の主観の表現された書は古来甚だ少ないであろう。良寛の書は、実に彼の歌や詩と同じく、良寛その人の表現である。…良寛の書の美しさは決して形式美だけではない。それは常に生きている。常に歌っている。そこに良寛の書の独特性がある。(彼の書は)古来多くの人々によって賛辞が与えられている。併し何と云っても、やはり良寛の書に於いて何人も企及しがたしと思われる点は、それの表現的であり、内発的であるところにあると思う。身を以て書いた字、人格を以て書いた字──それが良寛の書ではないだろうか。≫(相馬御風「大愚良寛」)

∇≪禅師の書、これを強請すと雖も容易に諾せず。然れども興趣至れば筆を援りて縦横揮毫す。或る時、七日市山田氏に至り、如何なる機嫌にかありけむ、直ちに筆墨を借り、下女部屋の煤ばみたる明障子に、鉢の子の歌一首を書し、淋漓たる墨痕を眺め、会心の笑みを洩らして飄然立ち去れりと。≫(「沙門良寛全伝」)──要は“書は人なり”で、人間の面白さが書に表れるといっていいのだろう。「書聖」王羲之(321~379)は字を逸少といい、東晋時代の書家として古今に冠絶した。殊に唐の太宗・李世民が王羲之の書を悦び、「古今を詳察するに、善を尽くし美を尽くせるは、それたゞ王逸少か。…心慕い手追うは、この人のみ、その余区々の類、何ぞ論ずるに足らんや」と激賞した。そしてついに彼の「蘭亭序」を墓陵に殉葬せしめたという逸話が残るほどである。「蒙求」に王羲之の逸話が載っている。王羲之は13歳頃から常人にあらずとされ、成長すると弁舌に秀で、剛毅で硬骨漢として知られた。書を善くし、殊に隷書(楷書)に優れること「古今の冠たり」と。その頃軍部大臣に娘がおって、婿探しをしていた。叔父に王導という国務大臣をもつ王一族もその候補にあがり、子弟全員が面談させられた。そして王羲之がこの娘の婿に選ばれたのである。選ばれた理由が面白い。軍部大臣の使者の報告によれば、「王家の若者たちは流石名門の御曹司たち、いずれも立派な方々でした。礼儀正しく装いもしっかりしていました。ただその中に一人、便々たる腹を出して、平気で何かを食べていて、使者の存在などどこ吹く風の若者がおられた」と。それを聞いた大臣が「それこそよい婿じゃろう」といって王羲之を懇望したというのである。書家には、特選を狙うより、如何にも“その人らしい書”を書いて欲しいものである。