残照日記

晩節を孤芳に生きる。

あたたかい心

2010-12-28 19:45:30 | 日記
○去年今年 貫く棒の 如きもの (高浜虚子)

∇家内の「宝箱」を整理していたらマザー・テレサの絵葉書が10枚ほど出てきた。生前、旅行先のインドで偶然お会いし、言葉を交わしたその感激を胸に、関係図書を蒐集したりして、生涯マザー・テレサに私淑していた。<たいせつなことは どれだけ たくさんのことや 偉大なことをしたかではなく どれだけ心をこめてしたかです><パンの飢えがあるように 思いやりや愛情を求める飢えがあります だれからも愛されず 必要とされない心の痛みです 与えてください あなたの心が痛むほどに><ほほえみや人とのふれあいを 忘れた人がいます これはとても大きな 貧しさです>。葉書に添えてある言葉の数々である。

∇生前たくさんの素晴らしい先輩・友人に恵まれ、医療・介護関係の方々に、手厚い看護と介護をして頂いた家内。亡くなる前、皆さんに「ありがとう」を言って静かに永眠した。老生も数多の方々から筆舌に尽くせぬ御厚情を賜った。本当に皆々様お世話になりました。有難うございました。年の瀬の我が書斎は温かく且つ深閑。老生にとって人生最高のパートナーだった家内を偲ぶと共に、マザー・テレサの“あたたかい心”を忘れずに晩節を清らかに生きていこうと思っている。ブログ読者の皆々様にも拝読頂いた御礼を! どうぞ皆々様良いお年を。

<あたたかい心>(マザー・テレサ )

親切で慈しみ深い人になろう
わたしたちに出会ったすべての人が
前よりももっと気持ちよく
明るくなって帰るように

親切で慈しみ深い人になろう
親切がわたしたちの表情に
まなざしに 微笑みに
声をかける言葉にあらわれるように

親切で慈しみ深い人になろう
子どもにも貧しい人々にも
苦しんでいる孤独な人すべてに
あふれんばかりの笑顔をむけよう

親切で慈しみ深い人になろう
わたしたちに出会ったすべての人に
かたちだけの世話をするのではなく
渾身誠意“あたたかい心”をあたえよう

(半田基子訳からの重訳)

前後際断の時

2010-12-28 08:25:50 | 日記

<独楽吟> (橘暁覧)
○たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出でありく時
○たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき
○たのしみはそゞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

<孟子が斉を去る時、随行の門人が道すがら孟子に尋ねた。「先生は先日来、どうも御機嫌斜めのご様子です。先生はかつてこう言っていられた『君子たる者は、どんなことがあっても天を怨まず、人を咎めぬものじゃ』と。どうもお言葉と矛盾しているように思われますが」。すると孟子曰く、「 彼も一時、此も一時なり(あの時はあの時、この時はこの時なのだ)」と。>(公孫丑下篇)

∇<彼も一時、此も一時なり>の解釈は諸説紛々であるが、ここでは、韓非子の<世異なれば則ち事異なる。事異なれば則ち備え変ず>の意にとって話を進めたい。更に言えば、道元禅師の「正法眼蔵」(現成公案)にある<生も一時の位なり。死も一時の位なり。たとえば、冬と春との如し。冬の春となると思わず、春の夏となるとは言わぬなり。>であり、<たき木(薪)灰となる。さらに返りてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰は後、薪は先と見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、先あり後あり。前後ありといえども、前後際断せり。>の「前後際断」の重要性を言いたい。諸事を人為的に前後際断しよう、過去のしがらみを捨てよう、と。

∇今年ブレにブレて、崖っぷちに立ったまゝ年越しの公算が強い民主党政権だが、<菅直人首相は27日の党役員会で、小沢一郎元代表の国会招致問題に関し、「党の一体感もぎりぎりのところに来ている。いつまでも引きづると、モノを決められない党になってしまう」と述べて、衆院政治倫理審査会の議決による小沢氏招致への賛同を促した。>(産経新聞) 小沢一兵卒がそれでも従わぬ時は、小沢氏が強制起訴された段階で離党勧告を突きつける決意もしたようだ。鳩山前首相や小沢系議員が、「政権交代を成し遂げた功労者の一人である小沢氏に対し、証人喚問要求等をできるわけがない」などと寝ぼけたことを言っているが、小沢氏が功労者であったのも一時。現在、民主党デストロイヤー(破壊者)になりつゝある。これも一時である。

∇どうする? 民主党が分裂するならそれでもいい。“小沢切り”を断行すべし。多くの世論調査でも、7割以上の回答者がそう答えている。どうせこのまゝ放置するなら新年早々解散劇に追い込まれることは必定だからだ。来年こそつまらぬ政争をやめにして、国会が本来の政治課題を丁々発止する場に戻ってもらいたい。中国の三国時代、蜀の軍師・諸葛孔明は、重用していた臣下の馬謖(ばしょく)を泣いて斬罪に処した。馬謖が街亭という要所の山間の隘路を守るべく孔明の命を受けながら、自分勝手な判断で山の頂上に陣を張ったため、魏軍の名将・司馬仲達に周囲を囲まれ、蜀軍が水・兵糧を断たれて全滅したからだ。ましてや執行部命に従わず、己の保身のために現政権を批判している「元代表」を持ち上げる必要はサラ/\ない。──それにしても“歴史は繰り返す”ものだ。「海舟座談」に曰く、

∇<併(しか)し今度の内閣も、最早そろ/\評判が悪くなつて来たが、あれでは、内輪もめがして到底永くは続くまいよ。全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質が丸で違つて居る。板垣はあんな御人好し、大隈は、あゝ云ふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか、早晩必ず喧嘩するに極つて居るよ。大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人のやつて居るのを冷評して、自分が出たらうまくやつてのけるなどゝと思つて居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打つて見ると、なか/\傍で見て居た様には行かないものさ。> ごもっとも也。

∇<政治家も、理窟ばかり云ふやうになつては、いけない、徳川家康公は、理窟はいわなかつたが、それでも三百年続いたよ。それに、今の内閣は、僅か三十年の間に幾度代つたやら。全体、今の大臣等は、維新の風雨に養成せられたなどと大きな事をいふけれども、実際剣光砲火の下を潜つて、死生の間に出入して、心胆を練り上げた人は少ない。だから一国の危機に処して惑はず、外交の難局に当つて恐れないといふほどの大人物がないのだ。先輩の尻馬に乗つて、そして先輩も及ばないほどの富貴栄華を極めて、独りで天狗になるとは恐れ入つた次第だ。先輩が命がけで成就した仕事を譲り受けて、やれ伯爵だとか、侯爵だとかいふ様な事では仕方がない。世間の人には、もすこし大胆であつて貰ひたいものだ。政治家とか、何んとかいつても、実際骨のあるものは幾らもありはしない。>。──吉田松陰曰く、<大臣に貴ぶところは、才に非ず、学に非ず、たゞ大識見・大果断、大度量ありて、しかも国家の得失を憂うること、我家を憂うる如くなるにあり。>(「講孟余話」) もうひとつおまけに──

∇<男たる者、先ず“気”=気迫、気魂を養うことが一番大切だ。平時は虎のように猛々しく見える人も、いざという時になると鼠のように臆病になる者が多いが、そうあってはならない。 まして、チョロ/\流れる水のように、あっちへ付き、こっちへ付き、金権者に媚び諂うようであってはならない。常に歴史を読んで、古人の事跡を見るにつけ、“気”を持つことの重要さを痛感している。><古来、政治の中枢に居る者は、事を論ずるに当り、天下の大利害、生民の大休戚(休=喜び、戚=悲しみ。即ち、悲喜に関する事々)を以て本と為すべし。即ち、枝葉末節のことに走ってはならない。ましてや、或る地位にある一、二の人物を排撃する為の人身攻撃などに区々としているなどは、論外のことである。願わくば貴公にはそうあって欲しい!>(宋救国の宰相「李綱文集」某人への手紙) 今年は老生も色々あった。諸事を前後裁断して春風駘蕩、以て残照の中を悠々楽歩することにしたい。。

貧乏格差

2010-12-27 06:37:10 | 日記
  
<貧に処す法>(「戦国策」・隠逸伝)

無事を以て貴に当て (無事なるを以て高貴な身分の代りとし)
早寝を以て富に当て (早寝するを以て富の代りとし)
安歩を以て車に当て (ゆっくり歩くを以て車馬の代りとし)
晩食を以て肉に当つ。(腹を減らして食べるのを以て肉代りとする)
これ窮に処するに巧みなるなり。(以上が貧乏に対処する妙法である。)

∇<生活保護 最多の141万世帯、生活保護を受けている人の数は195万人>。ことし9月時点での生活保護を受けた世帯とその人数である。内訳は、「高齢者」が1687世帯、「母子家庭」が1233世帯、「障害者」が1052世帯で、最も多かったのは、仕事を失った人を含めた「その他の世帯」で3538世帯だった。生活保護の受給世帯は、雇用情勢の悪化とともに急増し、この1年間でおよそ14万1000世帯、率にして11%余り増加しているという。(厚生労働省調査) 日本の総世帯数が約5000万世帯だから、凡そ2.8%の世帯、総人口比1.5%の人が生活保護を受けている勘定になる。──

∇昨日、午前の散歩を終えて昼のNHKニュースを見ていたら、日本橋三越百貨店で、束見本(つかみほん=本の出版に先立ち、刊行するものと同じ用紙やページ数で製本して、装丁のぐあいを確かめたり、宣伝に用いたりする見本=大辞泉)のチャリティ販売をやっていた。28日までだというので、急いで出かけた。選り取り見取り1冊が200円、とあって、飛ぶように捌けていた。老生が10冊入手した頃にはもうチャリティは終了。三越なぞ久し振りなので、店内をブラブラ冷やかしてみた。衣服、靴、バッグ、宝石類のある一階フロアは、日曜のせいもあって、顧客で溢れていた。驚いたのは、男女とも老人が圧倒的に多く、しかも高額商品をポンポン買っている。最近は、衣服類でせいぜい一着3千円がベースの老生にとっては驚きの風景だった。

∇高卒・大卒共に就職内定率は氷河期だし、生活保護受給世帯が急増するし、昨年末行なわれた「派遣村」と呼ばれる取り組みは今年は設けられず、仕事や住まいを失った人たちの相談に乗る弁護士や労働組合の関係者などがおおわらわの年末である。富める人と貧しい人がいるのはどの国でも変わらないが、貧しい中でも所謂平均並以下の貧乏人と極貧人との差が益々開いて、「経済格差」どころか「貧乏格差」を問題視せねばならないのが最近の日本ではないか。そんなことを考えながら帰路についた。それは統計上にはっきり表れている。例えば最近発表された金融広報中央委員会による平成22年度度「家計の金融行動に関する『二人以上世帯』調査」結果だ。

∇それによれば、預貯金・債券・株式・投資信託等、所謂「金融資産」を保有している世帯は全世帯の約8割で、その保有額は、平均値が1,542万円、中央値が820万円だった。へー皆、そんなに持ってるの、と思ったら大間違い。「平均値は少数の高額保有世帯に引き上げられる」傾向があることを考慮しなくては実態から反れてしまう。一般に、金融資産の分布、例えば貯蓄残高分布のような、右側の裾が長いヒストグラムを分析するには、統計値が、平均値>メディアン(中央値)>モード(最頻値)という傾向を特っていることを考慮しないと真実が見えない。中央値より最頻値を見た方がよい。貯蓄金額でいえば、貯蓄ゼロ世帯が約2割強、200万円未満世帯が一番多く(最頻値)、全国の3分の2が平均値以下である、というのが実態なのである。

∇金融資産の目標残高の平均値は2000万円。「病気や不時の災害への備え」(7割弱)、「老後の生活資金」(6割強)が目的だ。何と実情とかけ離れた希望値だろう! もうひとつ統計値を示そう。平成21年度のサラリーマンの平均年収は国税庁統計等によれば、男子500万円、女性263万円、全平均は406万円だった。(冒頭のヒストグラム) それを見ると、女性は100万円台、男性は300万円台がモード(最頻値)である。海江田万里経済財政担当相が「年収1500万円は金持ではない、中間所得者だ」と発言したのは世間知らずのトンチンカン大臣もいいところだと分る。年収1500万円を超える給与所得者は全体の1・2%に当たる約50万人しかいない。一千万円給与取りは“高級取り”に分類されることを承知せよ。

∇世の中の大半は「平凡な一般人民」たち。上述したように、今流用語を以て経済的に言えば、平均以下の“負け組”が6割以上いるのが世の実態である。河上肇「貧乏物語」に引用されている英国某教授の言葉を借りれば、<経済学や政治の真の根本問題は、我々のうちのある者は平均よりはるかに善い暮らしをしており、他の者ははるかに悪い暮らしをしておるのは何ゆえであるか>、ということの理由追求と日本国憲法第25条実現への抜本的対応策である。「平凡な一般人民」が「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を増進することに焦点が当てられるべきである。“世界第二位の経済大国”というGDPのレッテルの裏側に潜む、「経済格差」否、「貧乏格差」の進行対策が緊急の政治課題である。

∇ところで貧困とは何か。河上肇は「貧乏物語」で、<食費のほか、さらに被服費、住居費、燃料費及びその他の雑費を算出し、それをもって一人前の生活費の最低限となし、これを根拠として貧乏線という一の線を描く。かりに名付けて第一級の貧乏人というは、貧乏線以下に落ちおる人々のこと、第二級の貧乏人というは、貧乏線の真上に乗っている人々のことである。しかしてこれら第一級及び第二級の貧乏人こそ、この物語の主題とするところの貧乏人である>(岩波文庫)として論を進めている。世界的定義としては、例えば世界銀行は一日当たりの所得が一ドル以下の人々を「極端な貧困層」とし、アマルティア・セン等は、貧困の定義を広げて、最低限の教育、医療、さらに政治への参加状況などに加え、文化面をも考慮して、貧困を議論するべきだという。

∇「貧困」や「格差」は、定義付け次第で様相も、原因も、従って対策も異なってくる。我々高齢者が「老後をどう過すか」が、自分の期待する老後像の定義次第で処方箋が異なるのと一緒だ。「解体新書」で知られる杉田玄白は、晩年好んで「九幸翁」又は「九幸老人」の号を用いた。「九幸」とは彼が、1.平和な世に生まれたこと、2.都で育ったこと、3.上下に交わったこと、4.長寿に恵まれたこと、5.俸禄を得ていること、6.貧乏しなかったこと、7.名声を得たこと、8.子孫の多いこと、9.老いてなお壮健であることだった。(立川昭二著「江戸 老いの文化」) 「幸せとは何か?」の原点に戻って、貧困・格差問題を再考し直す時かもしれない。


忠臣蔵雑話

2010-12-26 10:39:25 | 日記
<大石良雄辞世の歌>
○あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

∇テレビ朝日のドラマスペシャル「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」を見た。内蔵助を田村正和、吉良上野介を西田敏行が演じた。年末になると、必ずといってよいくらい「忠臣蔵」が放映されるので、もう何回見たか分らない。それでも朝日新聞「試写室」に、<単なる復讐の物語にせずに、田村はじめ豪華俳優陣が、内蔵助や周囲の人々の心情、とくに苦悩を正面から丁寧に演じたのが奏功した>などと持ち上げていたのにつられて、二時間半も見てしまった。残念ながら全くと言っていいくらい不出来で面白くなかった。ストーリー展開に新鮮味がなく、よく知られた“山場”の数々が、周知の事実をたゞ羅列的に追っていくだけ。殊に田村の内蔵助は、無表情過ぎて全体にメリハリがなかった。──そんな訳で、物語を楽しむというより、大石内蔵助の逸話だとか、当時の儒学者たちが喧々諤々やりあった「赤穂事件の賛否論」を思い出していた。思いつくまゝ書き出しておくことにする。

∇先ず、後にこそ、その名を知らぬ者無き「大石内蔵助」だが、赤穂事件までは殆ど無名に近く存在感の無い人物だった。こんな話が残っている。<大石良雄が播州に居る時、ある人から掛物を借りたのだが、過ってそれを破いてしまった。大石は重々詫び言を言って返却した。当時の人は、皆、大石が家老であることは知っていたが、一身をかえりみず国家に尽くす程の優れた人物(国士)だとも知らず、貸した人も快く思わなかった。だが、討ち入りの功名があってからは、「これは大石の手の痕跡だ」と言って珍重し、誇って人々に見せびらかすようになった。──世人の眼なくして軽薄なること概ね此の如し。>(「想古録」) まぁ世の中大抵そんなもんだが、眼力ある人もいる。「論語古義」「孟子古義」「大学定本」「中庸発揮」「童子問」等で、日本のみならず本家の中国にまで名を残す大儒学者・伊藤仁斎である。

∇江戸時代は儒学にとって一大エポックがあった時代である。それまでは朱子学・陽明学等中国の学者による経書の解釈が専らであった。それに抗して、独創的見解を展開したのが伊藤仁斎であり荻生徂徠である。二人の学説の詳細は夫々異なるが「四書五経」を古来の原点に立ち戻り、直接読み解く立場を同じくし、「古学派」と総称される。山鹿素行を祖とする。この三者は皆、赤穂事件に関係する。討入り時の陣太鼓は山鹿流、大石が学んだ塾が仁斎の京都堀川塾(古義堂)、義士批判論の先峰が荻生徂徠だった。さて、<かつて大石蔵之助が堀川塾に入門して、聴講にきたことがあった。しかるに時々眠っていて聴いていなかった。聴講の者は笑いを押さえていた。講義が終わると皆は罵って言った。「怠惰な奴よ。あれじゃ、学びに来ない方がいい」、と。仁斎曰く、「皆の衆よ、みだりに謗るものではない。わしが見るに、彼は凡庸の人物とは思えぬ。後日必ず大事を為すだろう」と>。(「先哲叢談」)

∇大石の渾名(あだな)は“昼行灯”。<形容を以て人を取捨すれば人を誤ること少なからず。大石良雄は稀世の傑士なれども、その容貌動作は遅鈍にして愚人の如くなりし。然ればもし報仇のこと無かりせば、一愚人と見做され果てたるやも知るべからずと云へり。知るべし、人を見ることの難きことを>。“昼行灯”は敵の目を欺くための所作。<播州山崎領に医師がいて、その家に大石夫妻の書簡が多く残っている。その内容たるや皆、貧窮を訴えるものばかり。あるいは味噌が無いとか、僅か二百疋の金にも困っているとか、他人には見せられぬ程の困窮の条々だ。だが、大石は国許を離れる際に、莫大な貨財を持って江戸入りした筈なので、俄に困窮する筈が無い。なのにわざわざこんな醜状を書き送ったには、復讐心を隠蔽せんがための一策で、後日この医師に禍が及ばぬようにとの深意だろう、とそれを読んだ識者は言っている。──用心かくの如し。彼が本意を遂げたるも怪しむに足らず。>(以上「想古録」)

∇吉良邸討入りの「口上書」にも大石の細心なる配慮と遠謀が秘められている。現代語に要約すればこうだ。<(前略)高家歴々に対し、浅野の家来共が刃傷事件の鬱憤を晴らす、などということには憚りがありますが、”君父の讐は共に天を戴くべからず”と申しますように、黙止し難く、今日上野介殿宅へ推参致しました。ひとえに亡主の意趣を継ぐ志のみでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がおられましたら、お上にお見せ頂くようお願い致します。以上>。この「君父之讐共不可戴天之儀」の文章については、前日譚がある。<或る夜良雄は儒者・細井広沢に向かって、父の仇とは共に天を戴かずという語はあるが、君主の仇云々と書いていいのだろうかと相談した。広沢は一瞬躊躇一考したが、君父は畢竟同じもの、少しも差支えあるまいと解釈したので、大石は安心してその語を使った。>(「想古録」)彼の深謀とは何か。当ブログ読者の推論にお任せしたい。

∇さて、語れば尽きぬ「忠臣蔵」ではあるが、最後に赤穂事件の賛否論を。<泰平の世の中を震撼させた赤穂事件については、当時から儒学者の間で賛否両論があった。室鳩巣は浪士の行為を称賛して「赤穂義人録」を著し、大学頭をつとめる林信篤も「復讐論」で、主人の讐をうった浪士を義士として賛美している。大方の意見はこれに近かったが、これに対し荻生徂徠は、「擬律書」にみるように、主君の復讐というのも結局は、「私の論」であって、幕府の立場からすればその罪は許されないとしている。>(「笠原一男「資料日本史」) 結局この荻生徂徠の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。その後、義士否定論に対して再反論したのが浅見絅斎(あさみけいさい)である。<大法を以て云へば、自分同士の喧嘩両成敗の法なり。内匠頭大礼に科ありとせば、上野介の私意によってこのようになったのだから、上野介も成敗されるべきだ>(「絅斎先生四十六士論」他)。それに対して荻生徂徠の高弟・太宰春台が又反論……と続く。尚、赤穂浪士が葬られた泉岳寺では現在も毎年討入りの日(新暦で12月14日)に義士祭が催されている。

【荻生徂徠の「擬律書」】
 
<義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず。>


「竜馬伝」余話

2010-12-25 08:13:34 | 日記
○丸くとも一かどあれや人心 
    あまりまろきはころびやすきぞ  (坂本竜馬)

<年間ドラマ視聴率1位「龍馬伝」──今年1年、単発ドラマを含む年間のドラマ視聴率(年間平均視聴率ではなく単発の最高視聴率)が出揃った。1位は歌手で俳優の福山雅治が主演を務めた大河ドラマ「龍馬伝」(NHK)が24.4%で堂々のトップ。維新の立役者・龍馬の新たな魅力を引き出し、今年の日本を席巻した。そして2位は女優・松下奈緒と向井理主演の「ゲゲゲの女房」(NHK)。初回視聴率は朝ドラ史上ワーストを記録したが、回を重ねるごとに右肩上がり。最終話で最高視聴率23.6%をたたき出し、有終の美を飾った。尚、ランキングは、ビデオリサーチ社(関東地区)による12月23日までのデータ。>(12/24 オリコン) 

∇NHK大河ドラマは1963年の「花の生涯」をスタートに今年で47回目。ビデオリサーチの調査によれば、年間平均視聴率で最高を記録したのは、1987年放映の渡辺謙「独眼竜政宗」(39.7%)であり、翌年の中井貴一「武田信玄」(39.2%)がこれに続いている。逆に平均視聴率が最低だったのは、1994年の三田佳子「花の乱」(14.1%)、そして意外にも、1968年の司馬遼太郎作北大路欣也「竜馬がゆく」(14.5%)だった。この10年で20%以上の視聴率を稼いだのは、「篤姫」(宮崎あおい)「利家とまつ」(唐沢寿明、松島菜々子)「天地人」(妻夫木聡)「功名ケ辻」(仲間由紀恵/川上隆也))の4本で、「龍馬伝」は18.7%と年間平均視聴率では振るわなかった。従来の龍馬像を打ち破る“福山龍馬”として若者には人気を博したようであるが、老生にとっては直江兼続役の妻夫木聡と共に主役が今風過ぎて迫力不足の感がした。……

∇既に大方が承知の通り、竜馬は「刺客」だった。大老・井伊直弼が桜田門外で、老中・安藤信正が坂下門外で暗殺された当時、佐幕派、開国主義者は刺客に毎日のように付け狙われた。参議・海軍卿の勝海舟も同様であった。千葉周作の甥・重太郎に誘われ、坂本竜馬も勝の刺客となった。二人が赤坂元氷川の勝邸を訪れ、腰元に案内された部屋はまさに穴倉。<せまい八畳ほどの日当たりのわるい間で、和漢洋の書籍がぎっしり積み上げられ、なげしに「海舟書屋」という、妹婿の佐久間象山の筆になる扁額がかかっている。>(司馬遼太郎「竜馬がいく」)。その「穴倉」で、深い見識に満ちた勝の話と彼の溢れ出る機知とで煙に巻かれた竜馬は、すっかり“ミイラ取りがミイラ”になった。その場で勝の門人になってしまったのである。母親とも慕う姉・乙女への手紙にこう書いた。(以下「龍馬の手紙」講談社学術文庫)

∇<此の頃は、天下無二の軍学者、勝林太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられて候て、先ず客分のようなものになり申候。近きうちには大坂より十里あまりの地にて、兵庫という所にて、海軍を教え候所をこしらえ、又四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子どもにも四五百人も諸方より集まり候。……少しエヘン顔してひそかにをり候。……エヘン、エヘン>。この変わり身はどうだ。勝海舟も又、竜馬を可愛がった。曰く、<坂本竜馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。>(「氷川清話」) 

∇竜馬は素っ頓狂な部分も併せ持っていた。ある時、政友と稲荷町に遊んで対酌談論、興に任せて外泊して帰ったことがある。妻のお龍は頗るご機嫌ななめで口をきかない。龍馬がほと/\困りはてゝていた時、偶々長府の一青年が尋ねて来た。龍馬はお龍に酒を出させ、咄嗟に都々逸を賦した。即座に床の間の三弦を執って弾き、且つ歌った。お龍もやっと破顔一笑、一件落着の由。その都々逸は次の如し。<恋は思案のほかとやら/長門のせとの稲荷町/猫も杓子も面白ふ/遊ぶ廓の春景色/ここに一人の猿回し/狸一匹ふり捨てゝ/義理も情けもなき涙/ほかに心はあるまいと/かけて誓いし山の神/うちにいるのに心の闇路/さぐりさぐりて/出でていく>。 「猿回し」は竜馬自身、「狸一匹」「山の神」は妻・お龍のこと。こう歌われてはお龍も苦笑いで許すしかなかったろう。自在闊達に発想し、しかも、<丸くとも一かどあれや人心>を持ったフェミニストでもあった竜馬。

∇竜馬は時勢の変化に機敏に捉え、それに即応した。長刀が流行っていた高知で、あるとき龍馬の旧友が龍馬と会ったら、龍馬は短めの刀を差していた。理由を質すと、「闘うなら短い刀のほうが実践的だ」と言った。納得した友人は短い刀を差すようにした。次に会うと、龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言った。納得した友人はさっそく拳銃を買い求めた。再び会った時、彼が購入した拳銃を見せたところ、龍馬は洋書の「万国公法」(国際法)を取り出し「これからは世界を知らなければならない」と言った。まさに進取気鋭の若者だった。世界を知った竜馬はやがて土佐の後藤象二郎を相手に、将来あるべき日本の国家構想を熱く語ることになる。それが有名な「船中八策」である。

∇明治元年(1868)3月14日、明治天皇は紫宸殿に於いて、政治の基本方針を示す五箇条を誓った。曰く、<一、広く会議を興し万機公論に決すべし。 一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし。 一、官武一途庶民に至る迄、各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す。 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。 一、智識を世界に求め大に皇道を振起すべし。 我国未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先んじ天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め万民の保全の道を立んとす、衆亦此旨趣に基き協力努力せよ>と。「万機公論に決すべし」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め」などという文言は、幕府治世下で言動を統制されていた人々には仰天の言葉だったに違いない。竜馬の「八策」思想が活かされていたことは言うまでもない。