残照日記

晩節を孤芳に生きる。

続風評被害

2011-08-22 19:02:58 | 日記
【噂好きの弟子】
≪子貢、人を方(たくら)ぶ。子曰く、賜(=子貢)や、賢なるかな。夫(そ)れ我れは則ち暇(いとま)あらず。(憲問篇)≫( 切れ者の弟子・子貢が人の悪口を言った。先生は言った、「お前は賢しこいんだね。まあ私などにはそんな暇はない」と。)

∇昨日例示したとおり、政府当局の発表が≪極めて抽象的であり、舌足らず≫の場合、事実を知りたいと欲する人々にとって、≪要素と要素の間、知識の断片と断片との間に溝があり矛盾があって、到底それだけでは首尾一貫した報道として万人を満足させることが出来ないといふことが…流言蜚語の材料となる≫。清水幾太郎はそう指摘した。一橋大学商学部長の沼上幹氏も組織論の立場から、≪トップの側は、「余計な心配をしないで、従業員は自分の職場で仕事に熱中してほしい」と願っているのだろうが、むしろ情報不足の時の方が「余計な心配」は増えてしまう。「今、何が起きているのか」が分らないから、かすかな手がかりを使って各自が勝手に仮説的ストーリーを創り出す。≫≪「どうなっているのか分らない不安」は、「相当悪い真実」よりもかえって悪性である≫と言っている。(8/12朝日新聞) 今回の大震災、特に福島第一原発事故に関しては、政府の発表内容が≪極めて抽象的であり、舌足らず≫だった。しかも「情報公開の遅れ」が各方面から糾弾された。水素爆発やメルトダウンの可能性、放射能拡散の予測等々だ。それに対する憶測が憶測を呼び、過度の不安を煽った、と。

∇確かに、人の生命を左右しかねない“放射能被害”に関しては、清水幾太郎の表現を借りれば、人々は“事実”を知ることに≪飢え≫ている。問題は、事故勃発当初、原子炉内の様子が全く分らない状況下、現場担当者や原発専門家たちでさえ、逐次入手出来たデータからどうにか類推するしかなかった事故状況の“事実”を、正しく伝えることが可能だったか、又、それを逐次“実況報告”する意味があったのか、ということだ。「早く報せろ/\」と急かしたところで、“類推”を以て“事実”に代えることは出来ないし、絶対にやってはいけない。又、放射能漏れや水素爆発・メルトダウンが起きていることを“類推”はできただろうが、それを一刻も早く一般市民に報せることにどんなメリットがあっただろうか。外野席の学者やマスコミはいかにも尤もらしく責め立てたが、非当事者としての彼らの“無責任な煽り”が、実は≪「流言蜚語」の材料≫になっていたのではないか。政府は意図的に隠したとは思えない。今回の「流言蜚語」の背景には、事故が、“原子炉”“放射能”という極めて複雑で高度な科学的知識を必要とするものであったこと、しかも、それが壊滅的な事故を起こした際に想定される拡散モデルや人間・動植物への影響度合等の特殊データやシミュレーションが、「安全神話」の陰に隠れて研究されていなかったことが挙げられると思う。

∇「流言蜚語」とは≪根拠のないのに言いふらされる、無責任なうわさ。デマ。≫(「広辞苑」)だった。そして「風評被害」とは、≪根拠のない噂のために受ける被害。特に、事件や事故が発生した際に、不適切な報道がなされたために、本来は無関係であるはずの人々や団体までもが損害を受けること。例えば、ある会社の食品が原因で食中毒が発生した場合に、その食品そのものが危険であるかのような報道のために、他社の売れ行きにも影響が及ぶなど≫(「大辞泉」)だった。今回の「風評被害」が関東大震災と根本的に異なるのは、≪根拠のない≫報道というより、「根拠を特定できない段階の情報」がもとで起きた「流言蜚語」であり、「風評被害」ではなかったろうか。果して人体に有害なる限界放射線量は真実どれ位なのか。食用馬牛肉、野菜・海産物等の基準値はどうか。それは毎時量それとも年間浴びた総量? 避難指定の基準値となる、或はホットスポット地に置ける危険放射線量は、本当のところ何マイクロシーベルトなのか。しかも測定場所は地表なのか地上○○メートルなのか。放射線量測定機器にかなりバラツキが生じているという報告がある。誤差範囲±αの許容量αはルール化されているのか。etc 学者によっても諸説紛々で、基準値そのものに信が置けない。これでは「流言蜚語」が生まれ、「風評被害」が拡大して当然だ。

∇もう一つ見逃せないのが、吉村昭著「関東大震災」の記事を総括した際に挙げた、≪③市民は事実が知りたくて争って新聞記事を読み漁り、流言が事実だと信じ込んだ。④頒布禁止処分通告にもかかわらず、地方紙のみならず当時の大新聞までがそれに類した記事を掲載し続けた≫という部分だ。世の中には“事実”に飢え、情報を欲しがる人々と、それを当て込んで「デマ」や「類推」を平気で流したがる人々或はマスコミがいる。超高度に発展した“情報化社会”で悪弊となってきたのは、後者が大手を振って歩き回っていることである。例えばTVの「ワイドショー」を見たまえ。凡そ“ど素人”と断言して憚らない輩が、避難・警戒地区指定を否なりとし、メルトダウンは当然予測できたなどと専門家気取りで政府批判を繰り返した。新聞・雑誌然りだ。どの局、どの紙面を見ても「政府の初動ミス」「情報の隠蔽体質」で一色だった。現代の「風評被害」とは、「半知半解の有識者やマスコミが流す流言蜚語によって引き起こされる社会全体の被害」と定義できないか。表向きは正義面して、実は孔子の高弟であった子貢の如く、単に政府批判好きの偉ぶりたがり屋たちが、社会に混乱のタネを垂れ流しているのではないか。マスコミはショッキングな話題をバラ撒いて視聴率や部数稼ぎを狙い、有識者は自分たちの出番(評論・マスコミ出演)に有利なように振舞っているだけなのかもしれない。このテーマはさらに追求してみたい。今回はこゝまで。付録に岩波文庫「寺田寅彦随筆集」より随筆「流言蜚語」を──。

【流言蜚語】
≪長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯(ガス)の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。

「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化(かえ)らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。(又)大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。

この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所(ありか)を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない

考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更(なおさら)である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。≫
(大正十三年九月『東京日日新聞』)