残照日記

晩節を孤芳に生きる。

続 梅・桜雑話

2011-02-28 16:39:26 | 日記
○敷島の 大和心を 人とはば 
         朝日に匂ふ 山桜花  (本居宣長)

∇桜は日本固有の花木で、桜の品種には、ヤマザクラ、ソメイヨシノ、ヒガンザクラ、シダレザクラ、ヤエザクラなど非常に多く、桜はこれらの総称として呼ばれている。天平の宮人たちはヤマザクラをさして桜といった。万葉集でサクラは、桜の他に「佐久良」「佐具良」「作楽」の字が用いられている。「佐」は「助ける」、「作」は「為す」意だから「良きこと・楽しきことを助け・為す花」という寓意が籠っていたのかも。桜には優雅で清楚な気品がある。女流歌人・伊勢大輔の詠った「いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな」に代表されるように、当時桜は戸外で照り映え「咲き匂う」姿が主として人々の関心事であった。

∇桜が特に愛でられるようになったのは平安時代になってからで、宮中の紫宸殿に植えられていた梅が桜の木に代わって、所謂「右近の橘・左近の桜」となってからだといわている。(栗田勇「花を旅する」)「伊勢物語」「源氏物語」「枕草子」などに梅以外の草木や花が登場してきた。花といえば桜を指すようになった。就中桜好きの筆頭は西行で、「たぐひなき花をし枝にさかすれば桜にならぶ木ぞなかりける」と賛嘆し、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」とまで詠った。

∇平安時代は仏教的な無常観が浸透した時代で、奈良時代の人々に比べて桜の「咲き匂う」優雅と気品より、「咲いて散る」桜の“移り→散る”風情を歌に託したものが目だって多くなっていく。「花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」(小野小町)「久かたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」(紀友則) 宮人にとっては、ヤマザクラを自然の山野ではなく、身近な宮中や私邸で庭桜として見るものになり、桜は心象表現の抽象的対象であった。

∇他方で、一般庶民は早くから社会風習としての「花見」を行事化し、桜木の下で宴を催し、春の到来を素直に喜び楽しんでいたに違いない。それは宮廷貴族など貴人の遊びと異なり、江戸の花見で知られるように、庶民の間では「花より団子」で、身分を問わず飲んで食って大騒ぎしたようだ。江戸の文人は本居宣長等万葉調歌人以外は、森鴎外の「伊沢蘭軒」にその趣が垣間見られるように、隅田川に花見舟を浮かべて漢詩を作った。漢詩の世界では、桜は渓流の風景の一雅を添えるものに過ぎない。

∇“花は桜木人は武士”(仮名手本忠臣蔵)は戯作上のこと。桜が事実「潔く散るもの」の代表となったのは、恐らく幕末であろう。吉田松陰・梅田雲濱など主として安政の大獄・桜田門外の変などに於ける志士の作を収録した「歎涕和歌集」(岩波文庫版)にそれが如実に現れている。四編あるうちの初篇を一寸めくっただけでも随所に桜の「散る潔さ」が歌に託されている。それは第二次世界大戦で出陣する若者たちに受け継がれた。戦歌「同期の桜」は下掲・細谷忠斎の短歌と類を同じくする。

○色香よりめでこそ見ゆれなべて世に
          惜しまれて散る花の心に 安嶋帯刀
○桜田の花とかばねはさらすとも
          なに撓むべき大和魂   佐野竹之助
○散る時はしばしが程の早けれど
          同じ枝に咲く山桜かな  細谷忠斎

∇こうしてみると桜は万葉・天平のような大らかな時代は朝日に匂うが如く咲く花、庶民には華やかで花盛りを楽しむ花、悲哀や無常を観じ、死を賭す境遇にある人々には咲いてパッと散る花であった。華やかに咲き短時日に散る桜は、見る人ごとに感興と沈思そして決断を想起させた。──老生は万目の花盛りのみを観桜の粋と感ずる。願わくは見る人全てが万葉人や本居宣長そして江戸庶民の如き大和心を以て楽桜して欲しいものである。国花である桜は平和の象徴でなくてはならない。

∇桜はもともと日本の花。だから古来逸話が多い。思いつくまゝ幾つか述べておくことにする。先ず「古事記」から。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の話。──天照大神の命によってこの国を統治するため、高天原から日向の高千穂峰に降りてきたニニギノミコトは、ある岬で美しい乙女に出あった。「あなたはどなたか?」と問うと、「私は大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ=木花咲耶姫:日本書紀)と申します」「ごきょうだいは?」「姉の石長姫(いわながひめ)がおります」。ニニギノミコトは会話をしているうちにすっかり木花咲耶姫を好きになり求婚した。

∇姫が、父に相談して欲しいというのでミコトは早速、大山津見神のところに行き、姫を后にと願い出た。大山津見神はミコトからの申し出を喜び、姉の石長姫も添え、結納品を沢山持たせて嫁がせた。ところがミコトは木花咲耶姫ばかりを寵愛し、姉が醜女だったので親元へ返してしまった。父親曰く、「2人の娘をさしあげたのは、石長姫はどんな風雪でも岩のようにミコトをお守りするであろうし、木花咲耶姫は華やかに栄えらるようにと思ってのことです。木花咲耶姫だけをお気に召されたということはミコトの命は木の葉のように脆くはかなく散るでしょう」と。代々天皇の命に限りがあるのはこのゆえだ、と「古事記」は語っている。

∇この美少女・木花咲耶姫こそが、最も美しい”桜の精”であったとして「桜神話」の筆頭に掲げられてきたのである。桜の美は美人の形容とされるようになる。<花の色はうつりにけりな徒にわが身世にふるながめせしまに>と散る桜に色香の衰えを嘆じた、平安の美女・小野小町は、木花咲耶姫の再来とされた。古代の文献の中で「桜」という文字が初出するのは、「古事記」の履中天皇の治世を述べた箇所だそうで、仁徳天皇の第一皇子である履中天皇が、<伊波禮(いはれ=奈良県磯城郡)の若桜宮に座しまして、天の下治らしめしき>とある。そして「日本書紀」の「履中紀」に、次のエピソードが添えられた。

∇<治世3年(402年)の冬11月、天皇は両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いわれのいちしのいけ)に浮かべ、妃とそれぞれの船に分乗して遊んだ。臣下の者が御酒を奉ったときに、桜の花びらが散って盃に落ちた。天皇は不思議に思い、大臣を召して、「この花は季節はずれに咲いて散った。何処の花か探してきてくれ」と命じた。大臣はひとり花を尋ねて掖上の室山で花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とした。磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)と呼ぶのはこれがその由縁とか。この日、この大臣の本姓を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)とし、先に酒を献じた臣下の者を名付けて稚桜部臣とした>…

∇「日本書紀」の「允恭紀(いんぎょうき)」にもう一箇所「桜物語」が記述されている。履中天皇が没すると反正天皇が即位するが、僅か5年で崩じた。そのあとを継いだのが允恭天皇である。允恭天皇は慈悲深い天皇だったが、壮年になって病に冒され半身不随となった。そこで新羅へ使いを使わし名医を求めたら、その年の秋医者が来日し天皇の病は治癒したので、天皇は医者を厚遇して帰国させた。允恭は、和歌に秀でた、皇后の妹で絶世の美女である「弟姫」を愛した事でも知られる。当時弟姫は、容姿端麗でまばゆいばかりの肌の細やかさから、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)と呼ばれていた。皇后は天皇が妹に心奪われることがわかっていたので隠していた。允恭は、姉の心中を推し量って入宮するのをためらう衣通郎姫の元へ、再三使者を送り遂に妃になることを了承させた。

∇天皇は、皇后の嫉妬をおそれて宮中に迎える事はせず、藤原部を定めて新しく茅渟宮を造営しそこへ足繁く通うのである。治世の8年(419年)春2月、允恭天皇が藤原に御幸すると、それを知らぬ衣通郎姫は天皇を恋い慕って、「我が君が訪れてくれそうな宵である。巣を営む蜘蛛の動きが、今宵はせわしく目に付くことよ」と歌を詠んでいた。天皇は心を打たれ、「錦の腰紐を解いて、幾夜も寝たいが、そうもいかない。せめて一夜だけ共寝をしよう」と返歌を詠んだ。翌朝、天皇は井戸の傍らに咲く桜をご覧になって、「花ぐわし桜の愛で こと愛でば 早くは愛でず我が愛ずる子ら(美しい桜の花の見事さよ。同じ愛するなら、もっと早く愛すべきだった。早く賞美しないで残念なことよ。我が愛する姫よ)」と歌った。……

∇以上が「記紀」に残る古代の「桜物語」である。もう一つ「万葉集」に残る「桜児伝説」を掲げておこう。巻16の巻頭歌「由緒ある並びに雑の歌」から。──昔娘子がいた。名を桜児と言った。その娘を妻にしようと競争した二人の男があったが、その命がけの覚悟で競うのを見た娘は、一人の女が、二軒の家の嫁となった例はない。今、この二人が心から融けあうということは難しい。私さえ死ねば、二人の争いも永久に消えうせるだろうと考えて、林の中に入り込んで、樹に下がって縊れて死んだ。二人の男は悲しみに絶えず、それぞれその気持ちを歌にして詠んだ。一人の男は「春去らばかざしにせむとわが思いし桜の花は散りにけるかも(3786)」と。もう一人は…(3787 略)と。


梅・桜雑話

2011-02-27 14:37:23 | 日記
<子曰く、予(わ)れ言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子 如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言うや。四時 行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや。>(孔子が「私はもう何も言うまいと思う。」と言った。弟子の子貢が「先生がもし何も言われなければ、私ども門人は何を述べ伝えればいいのでしょう。どうかお話し下さい。」と言うと、孔子曰く、「天は何か言うだろうか。何も言わない。なのに四季は巡っているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。何も言わないで、しかも教えを垂れている。」と。)「論語」陽貨篇

∇<精度競う桜予想民間3事業者 独自の工夫こらす──桜の開花予想をしている「日本気象協会」(東京)と「ウェザーマップ」(同)、「ウェザーニューズ」(同)の民間主要3事業者の新しい予想が、23日までに出そろった。いずれもおおむね平年並みかやや早い傾向だが、それぞれ独自の工夫をこらして精度を競い合っている。……気象協会は、花芽の成長に影響する前年秋からの気温に基づく独自の計算式を導入。Wマップは、気温と開花日の関係や今後の予想気温について1万通りのシミュレーションを実施。Wニューズは、同社会員から寄せられた開花状況のデータを加味したのが売りだ。>(2/23 共同通信 )

∇愈々桜の話題が出始めた。上記予測によれば、全国トップの早咲きは宮崎市と高知市の3月21日ごろ(気象協会)、高知市と熊本市で3月22日ごろ(Wマップ)、福岡市の舞鶴公園で3月21日ごろ(Wニューズ)。東京都心は3月25日~27日ごろ(Wニューズ、気象協会、Wマップ)、遅い青森市では4月22日~24日ごろ(Wニューズ、気象協会)。尚、気象庁は1955年から毎年続けてきた桜の開花予想を昨年から行わないことにしている。<開花日の誤差は、民間の予想でもほぼ同程度。国として行うべき業務かどうか 総合的に勘案して廃止を決めた。標本木の開花や満開の観測そのものは続ける。><最近は、民間気象会社が開花予想日を発表しており、国の 業務として続ける必要がなくなった。>、という理由から。(気象庁2009年12月発表)
 
∇桜開花予想の「桜」とは、周知の通り「ソメイヨシノ」である。又、一定の条件を満たした「標本木」のいずれかの木に三輪以上の花が咲いた状態を「開花」と呼ぶのだそうだ。たかが「桜の開花予想日」、と思ってはいけない。先年、気象庁の予想が3日遅れたばかりに数十件の苦情が殺到したそうだ。桜に関連するイベントが多く、日程が狂うと主催者側はオオワラワ。そこで気象庁は汚名返上へ向け、大型コンピューターを導入するなどして、過去30年分の膨大なデータの分析に取り組んでいた。開花予想を弾く推測統計回帰式は、かつての気象庁の例でいえば、{温度変換日数 =exp{(9.5×103×(日平均気温-15))÷((日平均気温+273.15)×288.15)}というものだそうである。「桜の開花予想日」に大騒ぎするのは日本ならではのこと。

∇それにしても、時節の変遷は速いもの。「梅便り」が聞かれ、各地での梅見の話題が先日まであったと思えば、もう「桜開花予想」へと話題が移っている。まさしく<天何をか言うや。四時 行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや>である。我が「21世紀の森と広場」では、南口の白梅・紅梅が咲き揃い、最後の“盛り”を納めんと、園内に訪れる人々のカメラのシャッターが忙しい。──ところで、千葉大教育学部・青木真由子さんの「日本における植物季節の推移」(02年度)という卒論を面白く読んだことを思い出した。1951~2000年の50年間の気象庁植物季節観測データを統計分析した研究である。それによると次の傾向がみられた。(1)一般的に冬~夏の植物季節は早くなっており、逆に夏~冬の植物季節は遅くなっている。両者を比較すると、夏~冬の遅れがより顕著である。 (2)「サクラの開花」や「サクラの満開」など冬~夏の現象で多くの種が早くなっているのは北海道、九州、四国である。(3)夏~冬の現象は多くの種が北海道から九州まで南下するにつれてだんだん遅くなる。

∇要するに、気温変化で表現すれば、春が早く到来して夏に至り、冬寒の季節になるのが遅く、春の到来は日本の南端・北端共に早く、南下するほど冬の期間が短くなっている、ということか。臆面なく言えば、日本列島全体が温暖化して、所謂季節感を表すはずの植物が、その役割を喪失しつゝある、と読んで大過なかろう。確かにその通りで、俳句の季語なども植物に限れば、実態にそぐわぬ場合が多く、過去の句をそのまゝ現代に適用させて鑑賞することが難しくなっている。桜開花予想は待たれても、梅の開花予想はあまり騒がれないので、遅ればせながら、青木さんの研究を紹介しておこう。梅の開花については、当然地域ごとにばらつきはあるものゝ、やはり全体的に早くなっており、回帰分析では、この50年間で関東・中部地方で開花日が平均8日程度早くなっており、関西~九州にかけては3日程度遅れているそうである。この10年間に限って分析すればもっと急速な変化が見られるような気がする。

∇さて、さて、春咲く花には色々あるが、万葉の昔、歌に詠まれたおもだった花は梅・桜・桃・山吹・菫である。松田修著「万葉の花」によれば、梅が119首で万葉集中萩に次いで第二位。中国から渡来したばかりで珍しさも加わったのであろう。「春されば先ず咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」。これは万葉集巻第五にある、大宰府の官人たち30数人を招いて、大伴旅人の宅で梅花の宴を催した際に詠まれた山上憶良の歌。この「梅花の歌」序文に、旅人は「時に初春の令月、空気は澄んで風和み、梅は鏡前の装いを開き、蘭香り、曙の峰に雲かゝり、…鳥林に迷い、庭に蝶舞い、空には帰雁飛ぶ、その天地を背景に客人たちが部屋で酒を酌み交わす。それはもう言語を絶した自由と自足の世界だ」と梅の宴を自讃している。花といえば当初は梅のことで、万葉人にまず愛されたのは梅だった。桜は42首で第八位。そして柳が30首、山吹17首、桃7首、菫2首と続く。(古今集では梅17首、桜41首)

∇梅はバラ科サクラ属で、元来中国を原産とする。万葉集には梅、烏梅、汗米、宇米、宇梅、有米などで詠まれている。(上同) かくして梅は、万葉時代に中国の文化に伴って輸入され、平安時代以降さらに香を愛でたり、詩歌に詠まれた。「東風吹かばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」(菅原道真) 当初梅は大衆的な花ではなく、貴族たちの鑑賞する珍しい美花で、上掲松田修によれば、万葉集に詠まれた梅は皆な「野梅」で白梅だったそうで、万葉に紅梅を詠んだものは一首もない、という。栗田勇「花を旅する」では菅原道真公の歌を紅梅としている。これは平安時代。──老生にとって梅は紅白いずれの趣も好きだが、季節感としては“寒梅”が最も相応しく思う。梅をこよなく愛した俳人はいうまでもなく与謝蕪村だが、その清楚さと雪に耐えて凛然と咲く梅花を愛した英傑が南洲・西郷隆盛である。南洲翁は漢詩を多く残してはいないが、「外甥政直に示す」に、西郷の託す「梅」が髣髴する。

∇<一貫唯唯の諾/従来鉄石の肝/貧居傑士を生み/薫業多難に顕わる。/雪に耐えて梅花麗しく/霜を経て楓葉丹(赤)し/もし天意を識らば/あに敢えて自ら安きを謀らんや/。>。──要約すればこうだ。男児たらば、一旦諾(よし)と引き受けた以上は、鉄石の意志を以て、どこまでも貫き通す。貧乏が豪傑を生み、艱難に耐えて薫業が顕れるものだ。梅の花が麗しいのは雪に耐えたからだし、楓は霜を凌いでこそ真赤に紅葉する。この天の意とする所が分かれば、自分の安楽を謀ることなぞ、どうしてできようか。──梅に関係ある英傑をもう一人挙げよと言われれば、当然梅里・水戸光圀公だ。徳川光圀公は徳川将軍第三代・家光公の寛永五年(1628)に生誕。水戸徳川家二代目の藩主。18歳の時、「史記」の伯夷列伝を読んで感奮するところがあり、30歳の折、江戸駒込の屋敷で学者を集めて「大日本史」の編纂事業を始めた。

∇45歳に史局を小石川邸内に移し、「春秋左氏伝」から語を取って「彰考舘」と名づけた。元禄四年、水戸の西山荘に居を移し、事業を続けながら亡くなるまでの10年をこゝで過した。「大日本史」は水戸藩の継続事業として光圀公死後も書き綴られ、全巻約400巻が完成したのは明治39年。朝廷と臣民との「君臣の義」を明らかにし、君臣の名分を正さんとした。光圀公は「大日本史」編纂事業にあたり、公自身は全国漫遊をしていないが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求めた。儒学を中心とした広汎な学識と、西山荘で気さくに社寺民間の人々と交流した人柄の中から、自然と「世直し=勧善懲悪」の水戸黄門漫遊記が生まれたのであろう。光圀公が死去した際、江戸の町には次のような狂歌が広まった。<天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門>。 諡(おくりな)を義公、梅里と号した。梅雑話は話せばきりがない、明日は桜雑話を──。




2・26事件

2011-02-26 19:01:14 | 日記
   【示子弟】  西郷南洲

  才子元来多過事  才子元来多く事を過つ 
  議論畢竟世無功  議論畢竟世に功無し。
  誰知黙黙不言裡  誰か知る黙黙不言の裡
  山是青青花是紅  山は是青青、花は是紅なるを。

∇<2・26事件 処刑された中尉の遺言など展示 山口・下関──1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃し、高橋是清蔵相らが殺害されたクーデター「2・26事件」から26日で75年。事件決起人の一人で、死刑になった山口県下関市出身の田中勝陸軍中尉の、長男への遺言(複写)、写真など十数点を、下関市にある忌宮神社が初展示している。処刑を前に、田中中尉の家族を思う心情が伝わってくる。……田中中尉は下関市の旧制豊浦中(現県立豊浦高)から熊本陸軍幼年学校へ進み、陸軍士官学校を卒業。野戦重砲兵第7連隊第4中隊に所属した。軍用トラックなどを率いてクーデターに加わり、軍法会議にかけられ、25歳で処刑された。>(2/25 毎日新聞)

∇今、2・26事件勃発の原因を詳細に述べることは汗牛充棟なる文献に譲る。大雑把にいえば、当時陸軍の政治的比重が次第に大きくなっていて、それと同時に内部での対立が表面化していた。日本の貧しい窮状を救うには、天皇大権を以て軍部が実権を握り、政治・経済を革新すべきだとする、北一輝らが主張する「一君万民」思想に影響を受けた皇道派と、軍そのものを統制して革新を推進すべきだとする統制派とに分かれた。統制派では、為政者の人物・力量も重要だが、もっと重要なのは然るべき組織・機構を改めぬ限り社会はよくならない。それを軍全体が主導して革新すべきだと考えた。一方、皇道派は“組織よりも先ず、人”=即ち現在の日本閉塞原因は、政治の中枢を握っている首相、蔵相、内大臣、侍従長、教育総監等にある、彼らは<国体破壊の元凶なり>と決め付け、この奸賊は天誅されるべしと、テロ手段を正当化するまでに高潮した。──そして皇道派がクーデターを強行した。

∇<二月二六日早暁、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊等の二二名の青年将校は、千四百余名の下士官、兵をひきいて反乱をおこした。これらの部隊は首相、蔵相、内大臣、侍従長、教育総監の官私邸、警視庁、朝日新聞社等を襲撃し、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎を殺し、侍従長鈴木貫太郎に重症をおわせた。元老院西園寺と牧野前内大臣も襲撃の目標とされたが、不成功におわった。岡田首相は秘書官の身代りで助かった。>(岩波新書「昭和史」)青年将校たちは熱烈な天皇信仰者たちであったが、天皇自身はこの反乱に激怒したといわれる。事件収拾は29日の払暁から開始され、陸軍当局が最終的に「反乱軍」として発表し、ビラや放送により説得したことから、下士官や兵が自殺或いは投降して鎮圧された。反乱は4日間で終焉した。死刑判決を受け、処刑されたのは19人。そのうち北一輝と西田税(みつぎ)元陸軍少尉は民間人。軍法会議にかけられた将校らは7月12日に処刑された。

∇<戦時中、陸軍生活を送った下関市在住の直木賞作家、古川薫さん(85)は「テロリズムは絶対否定しなければならないが、将校らには『疲弊する農村のための世直し』という志があった。今、北アフリカでは民衆のクーデターが国の在り方を変えており、改めて2月26日は『暴力』には両面があることを考えさせてくれる」と話している><獄中で妻の妊娠を知った田中中尉は「遺志」と称し、「万事努力せよ」「健康に注意せよ」「母の言を承ること 即ち父の言を承ると思ひ一念母の言に従ふべし」と長男への遺言をしたためた。辞世の句は「たらちねの親の恵みの偲(しの)ばれて只(ただ)先立って我は淋(さび)しき」。事件後、田中中尉の母親は地元の寺で、処刑された19人と自決した3人の菩提を弔っていた。>(2/25 毎日新聞))

∇半藤一利著「昭和史」(平凡社)から余談を。<この時、非常に立派だったのが、狙われた人たちの奥さんでした。>ということについて。──斎藤実夫人は、火を吐く機銃にすがって、殺すなら私を殺してから、と身をもって夫をかばい、高橋是清夫人は、来訪した新聞記者に向かって青年将校は卑怯に存じます、と言い放った。渡辺錠太郎夫人は、帝国軍人が土足で家に入るのは無礼、それが日本の軍隊か、と乱入した青年将校の銃前にはだかった。極めつきは鈴木貫太郎夫人談。<夫が四発撃たれて倒れたところへとどめを刺そうとする将校に、「武士の情けです。とどめだけは私に任せて下さい」と制した。これを指揮していた安藤大尉は「閣下に対し敬礼」と号令をかけて「捧げ銃」(ささげつつ)をしてそのまま引き揚げていきました。>(同上) 

∇鈴木貫太郎夫人の逸話は、事件後、夫人の「セイキ術」のお陰で九死に一生を得た鈴木貫太郎本人から、直接話を聞いた幣原喜重郎の「外交五十年」が出典と思われる。第二部「回想の人物・時代」に「鈴木貫太郎夫妻」として詳述されている中にある。遭難の一週間前、実は安藤大尉が鈴木のところへ訪ねてきた。<そして何か変な理屈をいった。鈴木は「十八史略」をよく読み、よく暗誦して、まあその専門家だから、「十八史略」のどの辺か知らんが、読んで聞かせて、「君ら若い人間だけれども、そういう気持ちじゃ、とても物にならん」と、一時間ばかりじゅんじゅんと説諭した。その若者(安藤)は顔を伏せて聞いていたが、「イヤ、よく判りました。ついては記念のために、座右の銘を書いて頂けませんか」という。鈴木は……筆を執った。(安藤は)喜んで鈴木の書を貰って行った。>

∇幣原は、そんなこともあって、安藤が個人的に鈴木に好感を持ち尊敬していた、故に止めを刺すに及ばず、となったに違いないと述べている。安藤大尉は奥さんにも最敬礼して出ていったそうである。──当時の政界のリーダーとその夫人たちの胆識の凄さに驚嘆する。誤って国賊となった青年将校たちにも名状しがたい畏敬の念を覚える。又、05年にも、軍法会議にかけられ処刑された17人の直筆の遺書が発見されていた。この時新たに見つかったという遺書には、「大君に 御國思ひて 斃(たお)れける 若き男乃子(おのこ)の心捧けん」「我を愛せむよりは 國を愛するの心更に大なりき」といった辞世の句や、刑務所の看守にあてた感謝の言葉などが毛筆でしたためられていたそうである。(05年 7月12日 朝日新聞夕刊) 冥福を祈る。


邯鄲の夢

2011-02-25 15:34:16 | 日記
<胡蝶の夢>(「荘子」斉物論篇)

昔者(むかし)荘周夢に胡蝶となる    
栩栩然として胡蝶なり      
自ら喩(楽)しみて志に適う   
周(荘子)たるを知らざるなり  
俄然として覚むれば、      
則ち虚虚然として周なり     
知らず、周の夢に胡蝶となるか、 
胡蝶の夢に周となるかを     
周と胡蝶とは、則ち必ず分あり  
これをこれ物化という
      
(春の日の真昼時、荘子うと/\まどろんだ/いつの間にやら、花から花へと舞い飛ぶ蝶に/ひら/\ひらり。あゝ愉快だ。自由自在だ/今は蝶。かつて荘子だったことを忘れて飛んでいる/──突然目が覚めた/「何だ、夢だったか」/あれ?俺が夢を見て蝶になったのかな/それとも蝶の俺が荘子になっているのか?/荘子と蝶には自ずから分限(相違)がある/物の変化(実態)とはこんなものなのかも

<関東地方で春一番、4月下旬並みポカポカ陽気──気象庁は25日、関東地方で「春一番」が吹いたと発表した。昨年の春一番も同じ日だった。同庁によると、千葉市で同日午前10時47分に最大瞬間風速17・0メートルを、横浜市ではその5分後に18・3メートルを観測した。関東地方は、南部を中心に南からの風が強まった影響で気温が上昇。東京・千代田区は、同日昼には20度となり、4月下旬並みの陽気となった。>(2/25 読売新聞)

∇春は眠くなる。猫は鼠を取るのを忘れ、人間は借金のあるのを忘れる。と、迄はいかないものの、ともかく「春眠暁を覚えず」の時節になってきた。

春眠不覚暁   春あけぼのの うすねむり
處處聞啼鳥   まくらにかよう 鳥の声
夜來風雨聲   風まじりなる 夜べの雨
花落知多少   花ちりけんか 庭もせに
(孟浩然「春暁」 土岐善麿訳)

∇中国唐の初期、邯鄲という町に一人の老人が昼飯の黄粱を炊いて休んでおった。そこへ虞という青年が野良着姿の汚い格好で馬を引いて立ち寄り、歎息して言うには、「あゝ、男として生まれてきながら、一生百姓で終わるとは」。老人それを聞いて穏やかに応えた。「あんたのように丈夫な身体を持った男が何を不幸ぞ」と。虞「いえいえ、世が世なれば私だって大将とか大臣になって、豪華で愉快に暮らせるものを」。老人はそうかそうかと頷いて側の袋から枕を取り出して青年に言った。「さあさ、これを枕にして寝てごらん。功名富貴意のままだ」。

∇青年はいつしかうとうとと眠入ってしまった。それからどうしたわけか、ともかく立派な邸宅に住む身になって、素封家の美人娘と結婚した。毎日不自由なく贅沢に暮らし、進士の試験には優等で合格して地方長官、知事へとトントン拍子で出世した。そして皇帝の命に従い、チベット軍を破り、勇躍して凱旋するやその名望は全土に聞こえた。ところが好事魔多し。大いなる功績を妬む輩共に中傷されて左遷の憂き目に遭った。悶々と過ごすこと三年余。時至り、誤解が解けて復た中央に返り咲いた。そして累々と実績を重ね、遂に宰相となった。実権を握ること十年。またしても同僚の讒言にあい、獄中の人に。

∇妻の懇願と周りの援助により皇帝の怒りを解き、再び大臣となり、位人臣を極めた。たくさんの子供達もその恩恵に浴し、九族一門栄えに栄えた。そうこうするうちに病に罹り、全土からあらゆる名薬が届けられたが効無く、息を引き取った。──とたんに目が覚めた。鼻にぷーんと黄粱の芳香。側には件の老人が座っている。虞「なんだ、夢だったのか」。老人笑って言うには「青年よ、よい夢を見たかね。人生とはこんなものだよ」。青年何か悟るところがあったとみえて、老人に深く謝してもと来た道を引き返していった。将に人生“邯鄲一炊の夢”。

春眠不覚暁   春眠暁を覚えず
處處聞啼鳥   處處啼鳥を聞く
夜來風雨聲   夜来風雨の聲
花落知多少   花落つる知る多少

給料泥棒

2011-02-24 22:19:07 | 日記
<【伐檀(きこり)】──お偉ら方さんよ、植えもせず、取り入れもせぬのに/なぜ稲を三百軒分も取得するのか。/狩猟も一向にしないのに/なぜあんた等の庭を見ると獣や鶉がぶらさがっているのか。/君子というものは/ただ飯を食わぬはずだが。>(「詩経」魏風・伐檀)

∇<日本経団連の米倉弘昌会長は21日の記者会見で、最近の与野党議員が予算審議などより政局を優先して行動しているように見えるとして、「給料泥棒」と酷評した。>(2/22 毎日新聞 )──米倉会長、よくぞ言ったり、<与野党議員は給料泥棒>と! 自民党は“衆院解散”一点張りの追及のみで、国民の生活や国益を無視した行動だ。予算関連法案の審議を尽くしたうえで、政局化するならすればいいではないかと述べ、一方、肝心の与党民主党も予算案や関連法案等を何が何でも通さなくてはならないこの時期に、小沢一郎元代表に近い衆院議員16人の会派離脱の動きがある等、与党の一員として無責任極まりない。こういう局面でこそ与野党の協力が必要なのに、今は国民のために何も仕事をしておらず、与野党とも給料泥棒のようなものだ、と不快感を示した、というもの。

∇<子夏曰く、百工、肆(し=店)に居て以て其の事を成す。君子、学びて以て其の道を致す。 =(孔子の弟子の)子夏が言った、人にはそれぞれ仕事がある。百工(もろもろの職人)には百工の仕事、君子には君子の仕事、と。>(「論語」子罕篇) 世の中、どんな職業に就いても、己の為すべき仕事をキチンとやって初めて“給料”がもらえる。まして国民の税金で食んでいる国会議員たちに於いてをや。「日本国憲法」前文を国会審議に入る前に、議事堂内で全員唱和させたらどうか。前文に曰く、<そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。>と。

∇こんなのも「給料泥棒」ではないか。<「二酸化炭素(CO2)の削減効果は年間400万トン」。政府がそううたって 2009年5月から進め、家電の買い替えを促した家電エコポイント制度。 その根拠となったCO2削減予測値の算出方法が、実態とかけ離れたものだったことが分かった。算出に関する資料の廃棄が昨夏判明し、環境省が当時の担当者に 聞き取り調査する中で明らかになった。 家電エコポイント制度は、対象品の購入で、商品券や地域特産品などと交換できるポイントがもらえる。 1点は1円相当。2011年3月までに約7千億円の税金が使われる見込みだ。 環境省は制度開始の際、家電1台あたりの消費電力の削減率は50~60%に 達すると試算。その結果「400万トン削減」をうたった。 しかし昨年3月に同省が実際の販売データに基づき行った試算では、削減率は エアコン23%、冷蔵庫46%、テレビ14%。削減総量も69万トンと当初予測の 約6分の1だった。>

∇こんなのも「給料泥棒」だと思う。<人間関係が希薄で、孤独死が増える日本。この現状をリポートするNHKのドキュメンタリー企画「無縁社会」の取材手法に批判が相次いでいる。番組にかかわった複数の出演者が、意図的に「無縁」を演出されたとして、過剰演出と不満を募らせているのだ。>(2/17 夕刊フジ)<NHKは21日、NHKがビデオリサーチ社から有償で提供を受けている視聴率データを、契約に反して、08年12月以降断続的にインターネットの掲示板に投稿していた。掲示板に投稿した大津放送局の27歳のディレクターを諭旨免職とする処分を発表した。>──今日はダブルヘッダーで食事会と飲み会。縁戚者にとって、老生が生きているかどうかを確認するのも当ブログの目的の一つなので、毎日書かねばならない。今日はこゝまで。(大丈夫、叔父さんは生きているよ!)