残照日記

晩節を孤芳に生きる。

ユダヤ式思考法

2011-08-11 18:07:28 | 日記
【タルムード的人間6則】
一、よく学べ
一、よく質問せよ
一、権威を認めるな
一、幅広い知識を持て
一、現実的であれ
一、対立を恐れるな
(M・トケイヤー「ユダヤ人の発想」徳間書店版より)

∇最近メディア全体が単なる「発表型ジャーナリズム」に陥っているという指摘が目立つ。きっかけは東日本大震災報道であった。「東電の発表によれば」「政府の発表によれば」なる報道が多く、記者が独自に足と汗を使って現場取材した記事や、国内外の有識者の知恵を総動員して多角的見地から考察・提案するという「事実訴求・提案型ジャーナリズム」の姿勢が希薄になっている。そんな批判に応えるために、朝日などでは「紙面審議会」や「報道と人権委員会」等を立ち上げて、幅広い外部人材の意見を紙面に活かそうという試みが始まっている。よいことだと思う。例えば、≪重大なときこそ、メディアは改めて権力との距離感を保つべきだ。「大本営発表」を批判的な目で追及し、別の見方があるという形で問題提起したり、反論したりしていくというメディア側の努力が不十分だった≫(本林徹日本弁護士連合会元会長)≪日本のメディアはヒューマンストーリーを好んで取り上げるようです。新聞をめくると、人の織りなす感動や喜び、悲しみが詳細に描かれています。ただ、国際報道でとくに注文したいのは、そもそも貧困や人権侵害を生み出す原因は何か、制度や社会のあり方のどこに問題があるのか、国際社会は何ができるのか、を考える材料を十分に提供してほしい≫(土井香苗「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」日本代表)。etc

∇今はどの新聞を読んでも、どのチャンネルをひねっても報道内容は殆ど同じだ。例えば、話材は被災地の変わらぬ惨状ぶり、被災者の苦労談・感涙話・ガンバレコールそして「原子力村」・「菅おろし」・昏迷政局ぶり等々を繰り返し伝え、TV画面では“有識者”・タレント・芸人が寄ってたかってワイガヤやっているだけ。「厚顔無恥」ぶりを平気で撒き散らしながら……。発生5ヵ月後の最近まで見られた現象だが、それらから一体何が生み出され、改善されたのだろうか。「世論調査」も同様だ。他社がやるからうちもやる。特に今する必要のない「世論調査」をたゞ紙面埋め・報道都合上やっているだけで、単なる数値羅列型の「調査発表記事」に陥っている。「世論」(潜在も含め)の発掘、或は世論形成のための問題提起の一かけらにもなっていない。「菅内閣の支持率 最低18%」→そんなことは今更調べなくても分っている。「首相は月内退陣すべきだ68%」→何度も退陣すると言っているではないか。「増税賛成と反対が拮抗している」「脱原発依存賛成、原発再運転再開は賛成反対が拮抗」→なら、どうなのか。又、何故そうなのか。一体「層別」に見た場合の中味はどうなのか。支持政党別の賛否集計だけでは意味がない。原発を抱える地域とそれ以外、或は福島と東京・大阪・九州等地区別・職業別・年齢別に見た場合はどうなのか etc。

∇「層別」とは、マーケティングで言う「セグメンテーション」(市場細分化)」のこと。「世論調査」する際、調査方法は大抵コンピューターで無作為に作成した番号に電話をかけるRDD方式が採用される。先日のNHK・朝日・読売全てがそうで、有効回答者数はNHK・読売が約1000人、朝日が1800人だった。折角これだけのデータが収集できるのだから、「層別分析」を試みてみるべきなのだ。例えば、上述の如く地域別・特殊事情別(ex原発の有無)・地理変数別(ex海岸、高台、住宅地等)・使用率別(ex電力依存大・中・小)・性別・年齢別・職業別・勤務形態別(exアルバイ・正社員)・年収別・人生観&ベネフィット別(ex経済性・便宜性・プレステージ)・感応度別(品質・サービス・価格)等々に細分化して、各層ごとの意見の相違を比較するというような分析努力が見られない。「世論」というものを一律に<賛成数÷有効回答総数=X%>でしか捉えていない。「世論」を形成する人々に「顔」があることをすっかり忘れた調査でしかないのである。≪相手の立場に立たないで、人を判断するな≫(ユダヤのラビで大僧正・ヒレル)は、まさに「世論調査」をする際にも適用すべき金言である。相手の顔が見えないアンケート調査に、「世論」が見えるわけはないのである。又、利用価値も無い。統計学のイロハをジャーナリスト達が勉強し直すべきことを提案したい。

∇さて、ユダヤ5000年の知恵は、こんな格言を残している。≪多くの者は考えることをしたくないので、逃れるために本を読む≫≪神は、人間の建てた町と塔をごらんになるために、おりてこられた≫(M・トケイヤー「ユダヤ格言集」実業之日本社版)。ユダヤ人は世界有数の「読書の民」である。が、タルムードは、本を万冊読んでも、考えないのなら、ロバが本を背中に乗せて歩いているのと変わりない、と忠告している。それが前者の格言である。後者は「聖書」創世記に出てくる言葉で、神がわざわざ地上まで降りてバベルの塔を見にこられたのは、人間どもに「何かを行なう前には、必ず自分の目でしっかり確認せよ」という忠告だ、と古代のラビたちは読解したというもの。要するに、「何事も簡単に鵜呑みするな、自分の目で確かめ、自分の頭で考える人間になれ」が、タルムードを一貫する訓えで、標記「6則」がユダヤ人の生き方の習性になっている。老生もこの考えを「論語」で教えられ、人生訓にしている。≪子曰く、衆これを悪(にく)むも必ず察し(確かめる)、衆これを好むも必ず察す。≫(衛霊公篇)≪子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みて其の余を言えば、則ち尤(とがめ)寡(すく)なし。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎みて其の余を行えば、則ち悔い寡なし。≫(為政篇 ) 問:以下の8月8日付「天声人語」を読んで、ユダヤ方式で考えてみよう。鵜呑みすべからず! 明日又。

≪きょうは日本の民俗学の父とされる柳田国男の命日。名高い「遠野物語」に、津波で死んだ妻の霊に、夫が夜の三陸の渚(なぎさ)で出会う話がある。名を呼ぶと振り返って、にこと笑った。だが妻は2人連れで、やはり津波で死んだ人と今は夫婦でいると言う▼「子どもは可愛くはないのか」と問うと、妻は少し顔色を変えて泣いた。そして足早に立ち去り見えなくなってしまう。珠玉の短章だが、怪異な伝承に投影された、生身の人間の切なさを思えば胸がつまる▼柳田は三陸海岸をよく歩きもした。ある集落では、明治の津波に襲われた夜、助かった人は薪を盛大に焚(た)いたそうだ。闇に燃える火を目印に、呑(の)まれた海から泳ぎ着いた者が何人もいたなどと、見聞きした話を別の著作に書き留めている▼時は流れて、平成の大津波の犠牲者にはこの夏が新盆となる。救援の火ならぬ、霊を迎える火が方々で焚かれよう。門火(かどび)、精霊流し、茄子(なす)の牛。帰省しての一族再会。迎え火から送り火までの数日は、日本人の情念が最も深まるときだ▼人の生も、人の死も、自然や共同体という、人を包んでくれる世界の中でこそ完結する。しかし近年はそれを壊し、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏んできた。その功と罪を、震災後の夏はあらためて問いかけてくる▼「遠野物語」に戻れば、妻の霊を見失って帰った夫はその後久しく煩(わずら)った、と一話は結ばれる。時代は移っても、人の心は変わらない。かなしさの中に、汲(く)むべきものが見えている。≫