残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治改革Ⅴ

2011-06-30 17:58:58 | 日記
【福沢諭吉の勝海舟評】
勝氏は人傑なり。(しかし)独り怪しむべきは、氏が維新の朝(廷)に、さきの敵国の士人と並び立ちて、得々名利の地位に居るの一事なり。(「痩我慢の説」より)

【勝海舟の福沢諭吉評】
問:福沢は御存知なのですか。答:諭吉カエ。エー、十年程前に来たきり、来ません。大家になってしまいましたからネ。相場などをして、金をもうけることがすきで、いつでも、そういうことをする男サ。(「海舟座談」より)

∇≪<延長国会>1週間以上も審議進まず空転 被災地そっちのけ──8月末まで70日間の延長が決まった国会だが、延長を決めた22日から、審議は1週間以上も全く進まない状態が続いている。菅直人首相が自民党参院議員を政務官に引き抜いた人事に自民党などが反発しているためだが、被災地を置き去りにして重要法案の審議を放棄し、国会を空転させる与野党の姿勢にも批判が出そうだ。…3党の駆け引きばかりが先行する国会の状況に、共産党の穀田恵二国対委員長は29日の会見で「被災地と被災者そっちのけだ。政権与党だけでなく、自民、公明の野党側も大きな問題点をはらんでいる」と批判した。≫(6/30毎日新聞) 国会は相変わらず空転状態。その与野党対立理由が「一本釣り」問題に加え、「民主党も自民党も公明党も嫌い」と記者会見で発言した松本龍復興担当相発言を自公両党が国会で追及する構えだというから、もう呆れてものが言えない。「決着」は神のみの知る事実だが、新聞の投書欄では、<「議員たちにこそ、不信任案をつきつけたい。被災者のためにせめて首相が辞めるまでは審議に協力するべきだ」という指摘に賛同が集っている。>ようだ。(「6月の投書から」6/30朝日新聞)

∇さて、<政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない>。そこで老生は、「世論」形成に大きな影響を与えるマスコミにも、評論家・有識者たちや関係する科学専門家にも責任がある、として、前回はマスコミに対して、政府を単に批判・非難するだけの非生産的「評論」ではダメだ、とした。例題として産経・朝日の社説を「読み比べ」てみた。タイミングよく、今朝の朝日新聞「あすを探る」で、平川秀幸大阪大学准教授が「知のポートフォリオ」という発想の重要性を指摘する意見を述べていた。曰く、<この3ヶ月半の原発事故をめぐる報道で露になっているのは、何が正しいかが流動的で、政治的・経済的な利害関係や意図に対する専門家やメディアの「中立性」も疑わしくなっているということではないか。…知識・情報が不確定で政治的バイアス(偏り)も疑われる状況では、「知のポートフォリオ」という発想が重要だ。ポートフォリオとは、株式市場で安全性や収益性を高めるための分散投資の組み合わせのことだ。個人の情報収集にあてはめれば、論議が異なる複数の雑誌や新聞の情報を見比べることに該当する。その際重要なのは、どの知識・情報も多かれ少なかれ不確実性やバイアスを含み、過っている可能性(リスク)があるということだ。これを大前提にしたうえで比較的信頼できる知識・情報を多く集め、複数の可能性を考慮して誤りのリスクをヘッジ(低減)し、正しさの相場感を形成するのである。>と。

∇<どの知識・情報も多かれ少なかれ不確実性やバイアスを含み、過っている可能性(リスク)がある>という前提で、溢れる情報を可能な限り博く収集し、それを審らかに事実確認・比較し、自分の頭で冷徹に考え練った上で、情報の正否或は適否を弁別する。それを積み重ねて自分の意見や行動に反映させる。将に「中庸」の<博学・審問・慎思・明弁・篤行>こそが、「知のポートフォリオ」の実践である。「法句経」に<ひたすら非難をさるる人はなし。ひたすらに称賛さるる人もなし。いにしえも今も未来もしかあらん>(228)という名句があった。標記に掲げた福沢諭吉と勝海舟相互の評価を見比べてみればよい。福沢は「丁丑公論」で、西南戦争での“奸賊”の首領であった西郷隆盛を、政府横暴に対する抵抗であったと弁護し、「痩我慢の説」で、維新の際、幕府側にあって歴史的役割を演じた勝海舟を、その後、主家の廃滅をよそに、新政府で高位・富貴に安んじた三河武士の名折れだ、と非難した。一方勝海舟は、西郷翁を徹頭徹尾褒めたのは共通で、横井小楠、坂本竜馬らを認めていたが、福沢如きは「小僧っこ」「書生」程度くらいにしか見ていない。<十年程前に来たきり、来ません。大家になってしまいましたからネ。>と皮肉たっぷりに「人物評」している。あらゆることに関する評価、例えば関東大震災に於ける後藤新平論、阪神大震災と今回の大震災の政府対応比較評価、そして原発コストと他エネルギーの「安さ」の比較評価etc etcも然りである。マスコミ監視に関して、先ずは<論議が異なる複数の雑誌や新聞の情報を見比べること>を実践してみてはどうか。今日はこゝまで。

政治改革Ⅳ

2011-06-29 20:20:44 | 日記
≪福沢諭吉は、あまり一方的になって、自分の精神の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っている。……(彼は、時事新報での論文)「社会の形勢、学者の方向」で、「日本国の人心は、動(やや)もすれば一方に凝るの弊ありと云うて可ならんか。其の好む所に劇しく偏頗し、其の嫌う所に劇しく反対し、熱心の熱度甚だ高くして、久しきに堪えず。…即ち事の一方に凝り固まりて、心身の余力を用い、更に他を顧みること能わざる者なり」と言っている。 要するに、ワーッとこっちのほうへ行って、他は全然かえりみない。かと思うと急に方向を変えて、こんどはこっちへワーッと行く、と。≫(丸山真男「福沢諭吉の哲学」より)

∇S・スマイルズが言うように、<政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない>。即ち“悪政”の責任は政治家自体、そして結局は、彼らを選んだ国民総てにあるのだが、「世論」形成に大きな影響を与えるマスコミにも、評論家・有識者たちや関係する科学専門家にもある。そして今、“一億総評論家”時代。現政府を批判・非難するだけでは、小林秀雄の指摘する<非難否定の働きの非生産性>を打開することはできない。つまり、何も生み出せない。だが、それは人間の心底に潜在する、「優越意識」のなせる業なのだろう。即ち、自分より優れていると位置づけられる総理や有名人に対して批判や非難を公然と行なうことは、「嘲笑」的快感を味わうことでもある。この手の「笑い」は、<人間の特性であり、優越感の虚栄的な表現、もしくは他人の劣等性の残酷な確認>(マルセル・パニョル「笑いについて」)でもある。まあ、何て彼らはバカなんだと、高位者・有名人のダメ具合を摘出してこき降ろすことにマスタベーションしている自分がそこにある。現状打開よりも自己の優越性に浸る愚かさよ。非難・誹謗だけの「評論」の流行は、イジメ精神と奥底でつながり、社会を腐らせる元凶にもなっていく。

∇それゆえにこそ、小林秀雄の次の文章は考えさせられる。<自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものには、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気付く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。>。「評論」に人生を賭けて七転八倒努力した人にして吐ける言葉である。 政治家、例えば菅直人首相を褒めろ、とは言わない。だが、小林批評精神で政局を見直すと、そこに少しは「生産的」要素を引き出すことは可能だ。「批評に於ける生産性」を課題として、今朝の産経新聞と朝日新聞の社説を比較してみることにしよう。両紙は共に昨日の民主党両院議員総会について論じている。産経は<民主党 「人災」の共犯になるのか>で、朝日は<退陣3条件―自民党よ大人になって>が標題であった。産経の主張の要旨は、<菅直人首相の首に鈴をつけるどころか、衆院解散・総選挙をちらつかされてしまった。…党内の造反勢力が拡大し、内閣不信任決議案が可決寸前までいったのは、首相の下では復旧・復興が困難だという判断が党内にも強まったからだ。だが、退陣を求める動きはその後、弱まっている。首相を批判しつつ、当面は与党にしがみつこうとする姿を露呈している。執行部も首相批判を具体的な行動で示すべきだろう>というもの。

∇一方朝日はこうだ。<退陣3条件が整うめどが立たない。 自民党が、復興関連人事で参院議員を総務政務官に一本釣りされたことに態度を硬化させているのが一因だ。協調関係を求めておきながら、懐に手を突っ込んできた首相への批判が渦巻くのは当然のことだ。 だが、ここは自民党にもっと大人になってほしい。 国民は、菅首相にあきれるとともに、首相を批判するだけで止まったままの国会に失望しているのだ。 3条件は、どれも当たり前の内容だ。それを進めるために首相が進退をかけなければならないこと自体がおかしい。さらに与野党が足を引っ張りあうさまは、国民には見るに堪えない。 冷静に考えてみよう。3条件(そのもの)には自民党も異論はないはずだ。これらを止めて、自民党に何の利点があるのか。懸案を速やかに処理して、被災者やこれからの日本のために仕事をする。それで菅政権に終止符を打つ。それこそが長く政権を担ってきた自民党の本領ではないか。…きのうの民主党両院議員総会でも、早く退陣せよと求める声が止まらず、執行部からも首相への不満が漏れた。 こんな首相と自民党はいつまでいがみ合うのか。働いて歯車を回そう。 > ──菅首相の煮えきらぬ不可解な態度を批判しながらも自民党側への「政治の場に着く」重要性を訴えている。

∇時時刻刻と推移していのが政局である。今回の「民主党両院議員総会」はそのほんの一齣だ。だが、そこには、様様な事々が表裏渦巻き、次の変化へのターニングポイントが“啓示”されている。全国紙ともなればそれを読み込み、読者に示唆する使命感があって欲しい。なのに、産経の主張は相も変わらず民主党内の混乱と、首相の早期退陣不発にのみ目がいってしまっている。時局が移っているのを忘れて、「菅降ろし」に狂奔している。<執行部も首相批判を具体的な行動で示すべきだろう>などと、言い古された賞味期限切れの主張には、何の「生産性」も見られない。もう「賽は投げられている」。そう長くない時期に産経のキライな菅首相は退陣するのです! 自民党側も、朝日社説ではないが、いつまでもつまらぬことで<いがみ合う>ことをせず、正当に政治の場に着くべきなのである。第一、自民党に離党届を出した浜田和幸参院議員への“1本釣り”への批判は、寧ろ自民党自体の恥とすべきことだ。<新党改革の升添要一代表は「政権与党が多数派工作をするのは当たり前。引き抜かれる方にも油断があった」と自民党のわきの甘さを指摘した。>(6/29朝日) 一方、民主党議員諸兄は、<菅直人首相は民主党両院議員総会で、再生可能エネルギー促進法案成立などの課題を掲げて当面は続投する姿勢を示していることについて「私のことだけで言っているのではなく、次(の政権)に安定的に引き継ぐためだ。私個人が何かを得たいということではない」と述べた>。(6/29時事通信)をどう感じているのだろうか? 暑いので今日はこゝまで。


政治改革Ⅲ

2011-06-28 21:09:23 | 日記
【イエスと姦通の女】(「ヨハネ伝」)
イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。(7章53~8章11)

∇≪「風評被害」の元凶は誰か、政府の情報開示法は誤り――(前略)政府の情報開示の姿勢と日本のマスコミの報道には、不信感を持っている。…(中略)…危険を過小に見せようという政府の姿勢に、国の原子力政策にかかわった多くの専門家たちも加担し、テレビの報道番組で「安心です」と言い続けた結果、国民の信頼を失ったのではないか。気象庁や日本気象学会は、風に乗って広がる汚染を予測して避難を呼びかけるべきであった。しかし気象学会は学会員に対して、汚染情報を発表しないようにとの通達まで出した。学会の自殺行為だ。日本政府の情報開示に不信感を持った外国政府が厳しい態度を取り、外国からの観光客、留学生が逃げ出したのも無理はない。(後略)≫(深尾光洋・慶応義塾大学教授 6/28東洋経済オンライン)

∇現在手に入るどの雑誌でも、新聞でも、単行本でも、或はテレビ番組でもいゝ、この度の大震災で後手に回ったとされる「あらゆる不手際」に関する“元凶”や“犯人”の追究として、必ず上述の如き論調の主張に出くわす筈だ。要するに政府も、マスコミも、関係する科学専門家も、皆な信用が置けない、と。まさしくその通りなのだが、じゃあ、我々一般人は誰の情報・発言に信を置けばよいのか。筆者の深尾氏、貴方は悪くないのか。何故騒乱当時に声を挙げなかったのか、と反論したくもなる。昨日老生も指摘した如く、<「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」の<国民>とは、誰にも先んじて、その国のジャーナリストや評論家・有識者たち(深尾氏も、関係する科学専門家も)を指し>ていることは間違いない。結論をズバリ述べれば、「批評家もどき」が多すぎるからだ、と断言してよい。例のピアスの「悪魔の辞典」では、「批評家」を<自分の機嫌を取ろうとしてくれる者が一人もいないところから、おれは気難しい男だ、と自負しているやから。>(岩波文庫版)と定義しているが、<男>を<男女>とすれば見事に痛いところを衝いている。

∇ピアスの定義は、実は老生の言う「批評家もどき」のことである。「批評家もどき」とは、「他人より目立ちたい、世間の関心を引きたい、ゆえに手っ取り早く“相手の弱点”を衝けばよい、とする戦法をとる批判家のこと」である。例えばかつて当ブログで取り上げた、小池百合子議員や櫻井よしこ女史の「批評」を頭に浮かべればいゝ。さてこゝで、文芸評論家の小林秀雄が「批評」という短文を書いているが、次の引用文の「文学界」を「政界」と読み替えて先ず、読んでみて欲しい。曰く、<批評文を書いた経験のある人たちならだれでも、悪口を言う退屈を、非難否定の働きの非生産性を、よく承知しているはずなのだ。承知していながら、一向やめないのは、自分の主張というものがあるからだろう。主張するためには、非難もやむを得ない、というわけだろう。文学界でも、論戦は相変わらず盛んだが、大体において、非難的主張或は主張的非難の形を取っているのが普通である。…(そして)論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働きだろうが、主張する事は生産する事だという独断に知らず識らずのうちに誘われているものだ。……>。(「考えるヒント」) 非難否定だけの論戦は、非生産的で何の役にも立たない、そういうことだ。

∇そして小林秀雄は、この文をこう締めくくっている。<批評そのものと呼んでいいような、批評の純粋な形式というものを、心に描いてみるのは大事なことである。これは観念論ではない。批評家各自が、自分のうちに、批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと努力するという、その事にほかならないからだ。今日の批評的表現が、その多様豊富な外観の下に隠している不毛性を教えてくれるのも、そういう反省だけであろう。>と。<その多様豊富な外観の下に隠している不毛性>の“愚”に気付かねばならない。要するに、小林の言う<非難否定の働きの非生産性>をもっと真剣に反省しなければならない、ということだろう。小池・櫻井女史たちの「批評もどき」がどれほど今日の政治や社会に役立ったかを振り返るだけでそれは一目瞭然たる事実だ。そして、それは「批評」好きの老生を含めた、まさに「国民一人一人」に課せられた反省点でもある。相手の欠点を衝くのは簡単だ。幼児でさえ、大人の欠点を即座に探し出す能力を神から授かっている。<ある対象を批判するとは、それを正しく評価することであり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ──批評とは人をほめる特殊の技術だ、といえそうだ。>──ウーンその通りだが、<批評とは人をほめる特殊の技術だ>については次回以降の課題としよう。

政治改革Ⅱ

2011-06-27 21:00:18 | 日記
【学問の方法】
≪博学・審問・慎思・明弁・篤行≫ (「中庸」)

∇「21世紀臨調」の【現下の政治に対する緊急提言】で、老生が第一番目に取り上げたのが、項目≪国民の自覚≫に出る<破天荒な英雄>不要論であった。老生も「そもそも民主政治は英雄の存在を前提にしない制度である」と考えるからである。老生は、<政治に精通した“普通の政治家”で、願わくば「使命感」に溢れた、組織を束ねる力量を有した、職務に真摯で忠実な人であればいゝ>と考える。勝海舟の言葉を借りれば、<政治家の秘訣は、何もない。ただただ「正心誠意」の四字ばかりだ。この四字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民でも、これに心服しないものはないはずだ。>(「氷川清話」)と思うからである。企業にはどんな企業であれ、その企業にとってのプロが必要だし、芸術家、スポーツ選手等々あらゆる職業に於いて「その道のプロ」が必要であるのと同じく、常識的な意味でプロとしての政治家であればいゝ。政治の世界だけ、特段に<破天荒な英雄>を必要とすることは無い、という主張である。そして、「21世紀臨調」が提言している≪国民の自覚≫とは、我々が当ブログで取り上げた、サミュエル・スマイルズの「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」(「自助論」)をその根本思想としているが、それには全く同感である、と。

∇そして、前回はジャーナリスト、先には政治評論家諸氏幾人かの意見を俎上に上げて、「しっかり評論して欲しい!」と発破をかけた。何故彼らを糺す必要があるのか。それは国民が、≪国民の自覚≫を形成する前提となる、「政治的事実」を客観的に知ろうとする際に、メディアを通じて媒介役を務める彼らに、「間違った事実や、偏見に満ちた見解」を垂れ流し続けられては甚だ迷惑するからである。政治の世界に関しては、我々国民には、メディアを通してしか知りえない事が多い。新聞・TV・雑誌・ネット等々から、直接或いは取材を通じての間接情報をもとに政府の方針や政治動向を知り、政局を垣間見ることができるのである。すると、誤解を恐れずに言えば、「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」の<国民>とは、誰にも先んじて、その国のジャーナリストや評論家・有識者たちを指し、彼らの質に「世論」は大きく依存している、とも換言できる。首相及び官邸の記者会見でさえ、その放映直後に「解説者」なる“評論家”“有識者”らが発言内容を噛み砕き、彼等の「自論」を主張するのが最近の一般的傾向である。気になるのが、非常に手前勝手で偏頗な解釈や、批判・非難に近い解説もどきばかりが横行していることである。

∇そこで、昨日引用したヘレン・トーマスさんの、<誰もがジャーナリストになれること、それが言論の自由と考えられる時代になった。しかし、自由には責任が伴い、報道の倫理を知らなければ大きな代償を払うことになる。いまジャーナリズムは重大な岐路に差し掛かっている。…ジャーナリストはいま、真実とは何なのかを見いだすことが極めて難しい、情報の無法地帯にいる>ことを認識し、かつそこから「国民の質」を論議する必要があるのではないかと考える。しかも、所謂それを業とする上記専門家は勿論のこと、現在我が国は、まさしく“一億総評論家”の時代である。どうすべきなのか。端的に言えば、何よりもものごとを正しく見、正しく「批評」することの原点回帰が欠かせない。即ち、情報を発信する側も、それをキャッチする我々の側も、「軽信しないこと」「鵜呑みしないこと」「妄信しないこと」、即ち、一旦キャッチした情報を自分の頭で反芻し、自分なりに検証する習慣を身につけることからスタートすべきだと考える。それについて、今後色々考究・提案していくわけだが、結局、「批評」するということに連結することなので、それについて考えてみることから始めてみたい。これについては、小林秀雄の名論「批評」という短文を参考にしてみよう。──これから見たいテレビがあるので、今日はこゝまで。


政治改革Ⅰ

2011-06-26 19:51:35 | 日記
【人は皆未熟者なり】
≪人は公私相半すれば。大変なものだ。釈迦や基督のやうな人は公ばかりだろうが、其の外の人は、なか/\公ばかりといふことは出来ぬ。公私相半すれば、余程の人だ。──何でも、己が為そう/\と云ふのが、善くない。誰が為してもいゝ。国家と云ふものが善くなればいゝ。≫(「海舟座談」岩波文庫より)≫

∇「21世紀臨調」の【現下の政治に対する緊急提言】で、第一番目に取り上げたいのが、項目≪国民の自覚≫に出る次の言葉である。曰く、<そもそも民主政治は破天荒な英雄の存在を前提にしない制度である。ないものねだりをしていればよい時代は過ぎ去ったのである。それほど日本の現実は厳しいことを肝に銘ずる必要がある。われわれ国民の側も、総理大臣の一挙手一投足をあげつらっては潰し続け、政権批判をしていれば物事が前進するかのような錯覚からそろそろ卒業すべきである。政党政治がこのような惨めな姿になった責任の一端は間違いなく国民にもある。>と。文章がやゝおかしいので、一寸訂正させて頂く。先ず、<破天荒な英雄>という珍しい表現をしているが、一般的には「破天荒な(誰もやったことのない)事業」「破天荒の(異例の)人事」「破天荒な事を(突拍子もない事を)提案する」等々の使い方をする。「緊急提言」では、「特段に秀でた不世出の英雄」とでも言いたいのだろう。老生はそこまで嵩上げせず、「破天荒な」を削って、単に「そもそも民主政治は英雄の存在を前提にしない制度である。」でいゝと考える。

∇政治に精通した“普通の政治家”で、願わくば「使命感」に溢れた、組織を束ねる力量を有した、職務に真摯で忠実な人であればいゝ。但し、「21世紀臨調」が指摘する趣旨そのものについては大賛成だ。景気が極端に低迷したり、この度の如き大震災が勃発したりすると、傍で見ている側の一般国民や被災当事者たちには、思った通りに進展しないもどかしさに、つい、不手際ばかりが目に付く。そこで、必ずと言ってよいくらい政府・与党が野党、マスコミ、評論家たちの格好の餌食になる。そして決まったように「英雄待望論」が起こるのである。今朝の新聞広告欄に、早速「もし諸葛孔明が日本の総理ならどうするか─天才軍師が語る外交&防衛戦略」なる書物が某出版社から“緊急”出版されたり、25日の朝日新聞「政治考」(星浩編集委員)や「記者有論」(倉重奈苗政治グループ編集委員)等が「英雄」を持ち出して政府・民主党を批判している。星浩氏曰く、<(民主党政治に欠けているのは)与えられた任務を果たすフォロワーシップとも呼ぶべき「政治の作法」が欠けていることだと思う。「作法」にうるさかった竹下登元首相の語録を引きつつ、民主党の現状を考えてみよう。>として彼の幾つかの言葉を引用し、民主党の弱さを次々に指摘しているのである。

∇一寸待って欲しい。竹下登元首相は現況に即して「範たる宰相」だろうか。そうとは言えまい。たま/\時宜に当て嵌まる「言葉」を吐いた人物だった、というに過ぎない。又、倉重奈苗女史は、<国のトップリーダーの求心力低下は、外交力の低下に直結する>として、<2005年の郵政総選挙で小泉純一郎元首相の自民党が圧勝した直後、それまで協議に応じなかった北朝鮮が連日のように直接協議を日本に求めてきた。国民の圧倒的支持を得た小泉氏なら取引相手として信用できると思ったからだろう──。>と。だが、当時の日米中露韓対北朝鮮の関係はじめ世界全体の情勢、北朝鮮自体の現状(含首領継承事情)、我が国の抱える大震災問題他総ての点に於けるTPOが、05年当時と今とでは比較すべき土俵がまるで異なる。何度も言ったことだが、歴史に「IF(もし仮に~)」は無いが、仮に小泉元首相が現内閣を統率していたら、対中国・ロシア・韓国・北朝鮮との外交がどう上手く行っていたというのだろうか。現在日本の置かれた苦境は、国内外共に、単に一人の小泉元首相を期待すれば打破できるほど生やさしい状況ではない。朝日新聞でさえこんな程度だ。あとは推して知るべしで、まさに「緊急提言」が指摘する<それほど日本の現実は厳しいことを肝に銘ずる必要がある>。

∇23日の朝日「耕論」で、ケネディ氏からオバマ氏まで10人の米国の最高権力者である大統領を半世紀にわたって取材し続けたヘレン・トーマスさんが次のように語っていた。<いまはインターネットなどの情報通信技術が発達したことで、これまでになくニュースが増え、人々が様々な事実に触れ、取捨選択ができるようになった。…一方で、パソコンや携帯電話さえあれば、誰もが情報発信することができるようになった。つまり誰もがジャーナリストになり得る時代になった。言い換えれば、大量に発信される情報の洪水の中で、公平性や客観性が担保されなくなり、何が真実かを見極めるのが非常に難しい時代になったといえる。一本の記事が人を傷つけることもあるし、人の評価を台無しにすることもある。…記者は信頼される存在でなければならない。そうでなければ、人々は何を信じていいのか分らなくなる。…誰もがジャーナリストになれること、それが言論の自由と考えられる時代になった。しかし、自由には責任が伴い、報道の倫理を知らなければ大きな代償を払うことになる。いまジャーナリズムは重大な岐路に差し掛かっている。…ジャーナリストはいま、真実とは何なのかを見いだすことが極めて難しい、情報の無法地帯にいる>と。老生は、政治改革への第一歩は、「Watch Dog =番犬=権力への監視役」であるべきメディアこそが、<破天荒な英雄の存在>、しかも間違った<英雄>を引き出して、単に<総理大臣の一挙手一投足をあげつらっては潰し続け、政権批判をしていれば物事が前進するかのような錯覚からそろそろ卒業すべきである。>と考えている。