残照日記

晩節を孤芳に生きる。

天災・運命

2011-03-31 19:34:31 | 日記

≪赤富士≫ (黒澤 明脚本)
6-1道
  私は群集の流れにもまれている。
私「どうしたんです?」
  誰も答えない。
私「何があったんです?」
  誰も答えない。
  荷物を背負ったり抱えたりした群衆はみんな何かに追われる様に
  黙々と急いでいる。
 (楽翁:群集をかき分けるように富士が一望に見えるところまで
  出ると富士の向こうの空が一面に原子雲の様に沸き返っている)
男「あの発電所の原子炉は六っつある。それがみんな次から次へと
  爆発を起こしてるんだ」
  …………………(中略)……………………
 (楽翁:二人の子供を連れた女が子供達を抱きしめて泣く)
男「放射能に冒されて死ぬのを待ってるなんて、生きてる事には
  ならないよ」
女「でもね、原発は安全だ! 危険なのは操作ミスで、原発そのもの
  には危険はない。絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした
  奴等は、ゆるせない! あいつら、あいつら、みんな縛り首にしな
  くちゃ、死んでも死に切れないよ!」 
  …………………(後略)……………………

∇上記は、黒澤明脚本監督の「夢」・赤富士のシナリオの一部。「夢」は、1990年に公開された全8話からなる作品で、黒澤明自身が見た夢をモチーフにしている。 そのうち第6話が「赤冨士」。<原子力発電所の事故で、富士山が真っ赤に焼けてゆくという悪夢である。こうしていまや自然は、破壊される。この特殊撮影は、アメリカのI・L・M社が担当した。>(「全集 黒澤 明 最終巻」巻末『そして(AND)』(梗概)」より)。──黒澤監督の下で長年記録係を務めた野上照代さん(83)から朝日新聞の「声」欄に投書があった。<監督がご存命だったら、さぞ激怒されることだろう>と。急ぎ近隣にある県立図書館から「全集 黒澤 明 最終巻」を借りてきて当該箇所を転載した次第である。20年も前の映画である。……

∇東京電力福島第1原発の深刻な事故原因となった大津波を伴う「東北関東大震災」については、09年の経済産業省の審議会で、約1100年前に起きた「貞観地震」の解析から、再来の可能性を指摘されていたという。又、今回のような全電源喪失のシナリオは、米国で30年前に既にシミュレーション済みだったそうだ。にも関わらず、「原発は安全だ」を妄信した東電や政府は不勉強だったり、専門家の指摘を軽んじて対策を先送りし、“想定外の津波”の事後処理に追われている。一段落した時点で、早期対応を促さなかった政府・東電共々これからその姿勢が厳しく問われることになる。そして原発問題は、それだけに止まらず、世界各国共通の“人類規模の大課題”として位置づけられ始めた。──かくして“有識者”たちは、こぞって<天災が暴いた人災>(3/30「天声人語」)と決め付けてしたり顔しているようだが、果たしてそんな単純な問題だろうか。三陸にあったギネス級の堤防でさえ“想定外”であっさり壊滅しているのだ。

∇天災は忘れた頃に突然、しかも思いがけない地域に勃発する。<米USGSのトム・パーソンズ博士らは、1979~2009年の世界の地震カタログを分析。マグニチュード(M)7以上の大地震が起きたとき、世界でM5~M7の地震が起きる頻度が変化するかどうかを調べた。 その結果、大地震の震源域の長さの2~3倍以内に当たる千キロ以内では、誘発されたと考えられる地震が増えていた。だが、それ以上離れたところではそうした傾向は見つからなかった。──即ち、世界で大地震が相次いだのは「偶然」起きた、といえそうだ。>という。(3/29朝日新聞) 大袈裟にいえば、大地震は予知不可能だ。又、仮に予知できたとしても完全に事故を回避できる可能性は低い。自然の猛威は決してその全貌を人前には晒さない。菅首相の原発視察が東電の初動の遅れを招いた云々等の“蝸牛角上の争い”を繰り返している人間共をあざ笑うように……。

≪テレビで大津波が、山のように盛り上がり、猛獣のようにうなり声をあげて、一挙にあの美しい町をのみこみ、なつかしい町と風景をかき消していくのを見て、私は声もあげられず泣いた。人間の知識や進歩のはかなさと、自然の脅威の底知れなさに震えあがる。人間はいつの間にか思い上がり、自然の力を見くびりつづけてきたように思われる。宇宙を見極めたつもりで、無制限な大自然の一端も覗き得ていなかったのではないか。≫(3/31 朝日新聞への「瀬戸内寂聴さんの寄稿」文より) 

∇かつて世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 東方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。やがて 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合い、遂に「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と野望を抱くに至った。神は降りて来て、人々が建てた、塔のあるこの町を見て、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言って、全地の言葉を混乱させた。人々は統一言語を失い意思疎通ができず、この町の建設をやめた。「旧約聖書」・創世記に出る、有名な「バベルの塔」物語である。そういえばカミユのシーシュッポスもエンドレスな過酷の運命を背負わされた。──「運命」は神々が造り給うたものだ。理由は傲慢な人間どもを平和にしては、彼ら神々の存在を危うくするから! 


苦中有楽

2011-03-30 19:15:39 | 日記

 ≪六中観≫ (安岡正篤)
死中 活あり 今まさに死地にありて、背水の活計をはかるべし
苦中 楽あり 苦中なればこそ、独自の楽天地を見出せ、創れ
忙中 閑あり 忙しいときほど、雑務に忙殺されぬ閑適の工夫をせよ
壺中 天あり 俗世の煩瑣濁流の中にいて、悠々たる桃源郷を持て 
意中 人あり 心にいつも私淑する人物・伴侶、忘年の友を持て
腹中 書あり 腹中にずしりとした座右の書を、又、己が哲学を蔵せ

∇<震災と暮らし 一冊の本とボールの力を──被災した人に必要なものは。 水。食べもの。安心して眠る場所。暖房。医薬品。ガソリン……。 どれもまだまだ、十分ではない。全力で不足を埋めなければならない。それらを追いかけて、届けたいものがある。心を柔らかくしたり、静めたり、浮き立たせたりするもの。想像の世界へ誘ったり、考えを深めたり、元気がわくのを助けたりするもの――文化とスポーツだ。 被災を伝えるたくさんの写真の中で印象に残った2枚がある。1枚は、避難所のストーブを明かりにして本を読む子の落ち着いた表情。もう1枚には、サッカーをする少年たちの笑顔が並んでいた。一冊の本。一つのボール。それは子供たちが生きるための必須栄養素だ。もちろん、おとなにも。厳しい日々には、なおさら大切だ。(後略)> (3/30 朝日新聞社説)

∇賛成だ。被災者救援の第一は衣食住。そして物質面に先行きの安堵観が出てくると、次には肉体的・精神的渇望への要求が始まる。一冊の本とボールだ。──連日似たような震災関連の報道が続く。テレビにかじりついているだけでは、そろそろ飽きがきてもの足りない。時間と身体を持て余す。必要な情報をキャッチしたら、あとは落ち着いて何かを読むか、鈍った身体を動かしてみたい。被災者の中には、既にそういう心境に至っている方々も多かろう。“差し入れ”に、移動図書館方式による書物の貸与や、サッカーボール、野球道具一式などを考える頃合のようだ。<人はパンのみにて生くる者に非ず>(新約聖書「マタイ伝」)。被災者側に立って自分を置き換えてみたら、ふと上掲「六中観」と江戸時代中期の儒学者であり神道家であった、土佐南学派再興の祖・谷秦山の弟子宛の手紙と学談とを思い出した。

≪(貴君は昔日を思い出して、私の講義を聴かれず侘しいとて、田舎住まいを嘆いているようだが、)貴君の勤務している土佐の中村は確かに田舎ではあるが、高知も又“都”とは言い難い。五十歩百歩の事にて、羨ましく思うことなぞない。只少しでも精力があるうちに書籍を読習せず、道を悟らず、老人になって何の楽しみも無く、いたずらに死んでしまうというのは、所謂俗人の「大患」ともいうべきものである。「独を楽しむ」とか「閑に耐える」といった心得があれば、中村は申すに及ばず、沖島にても都となるであろう。一寸した工夫心さえあれば、一日一日を面白く暮すことがきっとある筈だ。くれぐれも油断有るまじく候。≫

≪西村某と学談している折、秦山曰く、<貴君はよく承知して、「死土産」をこしらえるようにされるが宜しい。貴君はとにかく博学多才だ。神道も天文も詩文・歌学も一様に達している。さて、世間一般をみると、それを以て人に誇り、奢り高ぶるものが多い。しかし、そのようなことではこゝ一番という時、大切な用には立たない。又、死ぬ時にあの世に持ってはいかれない。死ぬ時は皆が後に残り、自分は大いに苦しんで死んでゆく。そこでだ、貧乏で人前に出る事もならず、油もなくて夜分に書物一冊見ることもできない状態にあって、暗がりに黙然としていようが、少しも淋しくもなく、心面白くいられるという楽しみが無いようでは、いかほどの物知りでも大したことは無いのだ>と。≫(秦山語録)

∇孰れも、いかなる時でも「活計」すべし、「面白く過ごす」工夫をなすべし、という訓えである。子供はいざ知らず、我々熟年殊に老人ともなれば、秦山のこの語の如き心得を肝に銘じておくことが大切だと思う。災害に遭遇して支援待ちしている間、復旧途上にある無為の間、一人住まいを余儀なくされた際、長患いを耐えて生きながらえている間等々、已む無く何もできないのだが、その時こそ<一日一日を面白く暮すこと><少しも淋しくもなく、心面白くいられる>「楽しみ」を工夫しなくてはならない。秘訣のヒントは「六中観」の後半、即ち「壺中有天」「意中有人」「腹中有書」であろう。心腹の中に、思い人(愛人に非ず)、愛読書を日頃から蓄えておくことだ。そして「壺中有天」を。

∇「壺中有天」は、中国の正史「後漢書」・方術伝に典故がある。──時は「漢」の時代。江南地方で市場を取り締まる役人に費長房(ひ・ちょうぼう)という男がいた。ある日見張りの高殿から市場を眺めていると、薬売りの老人が、軒先に一つの壺をぶら下げており、市の終わった夕刻の誰も居らなくなった頃合をみて、ひょいと壺の中に跳びこむ姿を目撃した。それが毎日のことなので、不思議に思った。そこで、「この老人は只者にあらず」と睨んで、店に出向いて挨拶し、酒と乾し肉を贈ってそのわけを訊いた。老人「見られたからにはやむを得ない。明日もう一度きなされ」と。翌朝長房が老人を訊ねると、「他言は無用じゃぞ」と言って、長房を連れて壺の中に入った。
 
∇するとどうだ。そこは輝くばかりの荘厳な宮殿で、美酒佳肴に満ち溢れた別世界であった。長房は、日頃の俗世での毀誉褒貶・哀患苦憂を忘れ、清界浄土を心ゆくまで堪能した。── その後費長房は、仙界から来たというその老人に弟子入りし、老人が下界での期を終えて昇天する際、鬼神を支配する霊験あらたかな護符を貰って、たくさんの人々に善行を施したという。(中国の「正史」にこんな面白い話が載っている!) かくして「壺中の天(こちゅうのてん)」、或は「一壺天(いっこてん)」は、一つの小天地。別世界の意。一冊の愛読書、俳句・短歌・川柳・スケッチ、良質の(?)白昼夢etc etc。 いずれにせよ、自分なりの「独を楽しむ」とか「閑に耐える」工夫を、早速今から模索してみようではないか。


再建の希望

2011-03-29 18:38:08 | 日記

 子曰く、天何をか言うや。
 四時 行なわれ、百物 生ず。
 天何をか言うや。
 (「論語」陽貨篇)

天地は不仁なり。万物を以て芻狗と為す。
=自然は冷たい。万物を、祭りが終われば
 捨てられる芻狗(すうく=藁人形)の如く扱う。
 津波被害など知らんぷり。不仁なものだ。
 (「老子」第五章)

∇<東京で桜開花 気象庁発表──気象庁は28日、東京で桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。靖国神社(東京都千代田区)にある標本木に5、6輪以上の花が咲いているのを東京管区気象台の職員が同日午前、確認した。約1週間で満開を迎える見通し。東京の開花は平年並みで、昨年よりは6日遅い。>(3/28朝日新聞) このところ、東北関東大震災のことで頭が一杯の毎日だった。だが、人間が必死に未曾有の大震災と闘う営みとは無関係に、自然は何事もなかったかの如く平然と時を刻み続けていた。いつの間にか桜の季節だ。東京ではあと一週間もすればあちこちで桜が満開を迎える。今日は久し振りの温暖日和。1ヶ月ぶりに神田古本屋街を一日中冷やかし歩いてきた。……

∇さて、昨日3月28日時点で、この度の震災による被災者数は、残念ながら死亡・安否不明併せて約3万人、避難者が18万人強となった。(朝日新聞調査) 周知の通り、日本災害史上最大級の被害を与えたのは今から88年前の「関東大震災」だった。<大正12年9月1日午前11時58分44秒、関東地方一帯は突然マグニチュード7.9の大地震に襲われた。東京では地震と同時に市内百数十ヶ所から火災が発生し、本所・深川など下町は90%以上が灰燼に帰した。横浜も下町の大部分が壊滅した。死者・行方不明者は10万人以上(岩波年表では14万2800人)、被害世帯は69万余、罹災者は340万人以上に及んだ。>(「資料日本史」山川出版)現代にそれが起きたらその程度ではすまないだろう、とため息がでる。

∇ところで、今朝の朝日新聞文化欄に、作家で医師の加賀乙彦さん(81)が、昔にも東北関東大震災に比較される悲惨な出来事があったとし、<それは戦争中の都市爆撃の被害と残酷である。広島・長崎の原子爆弾の巨大な被害と、考えられる限りの苦しみと破壊を思い出す>と回顧されていた。因みに<都市爆撃の被害>とは東京大空襲のことで、特に規模が大きかった昭和20年3月10日に行われた空襲では、死亡・行方不明者は10万人以上、被災者100万人以上にのぼるとされる。又、原爆による死傷者数は、長崎大学資料によれば、広島で死亡者数約12万人、負傷者数約8万人、長崎では死亡者数、負傷者数共に約7万5千人前後とされる。(放射能障害による死亡者を含めれば、もっと多くなる可能性もある。) 加賀氏は今回の復旧活動を見てこうつぶやいた。

∇<原発の破壊を復旧し、救命活動にはげむ献身的な人々の活躍には感動を覚えた。またボランティアとして被害者のために働く人々の熱意にも感心した。こういうところは、戦争中の軍国主義の横暴とはまるで違って、日本の未来には明るい希望があると思った>と。そして彼はこう呼びかけた。<日本人よ、あわてふためかず、災害よりの復興を、少しずつでもなし遂げていこうではないか。放射能もれにも絶望せず、原子爆弾の惨禍から立ち直っていった過去を思い出そうではないか。食料品の買いだめに夢中になるよりも、おたがいに助け合って、この災禍を乗り越えようではないか。かつて、爆撃と原子爆弾の痛苦にうちまわった歴史を思い出して、冷静に津波の被害や故郷の町の喪失を再建しようではないか。日本には再建という大きな希望が残されている。そして全世界の人々が私たちに注目している>と。

∇然りだ。<再建という大きな希望>に向かって歩まねば。しかもこの大震災は、外国との交際に於いて「日本国憲法」の序文に帰れ、と教えてくれた。国際平和主義を貫くこと、従って<自国のことのみに専念して他国を無視してはならない>のである、と。この度の震災被害者を助けようと、世界中で日本支援の輪が広がっている。134ヶ国から支援の申し出があり、国々で募金活動やチャリティーコンサートが開かれ、支援物資が続々届けられている。米国や、中国、ロシア、韓国、欧州連合(EU)は勿論のこと、インド、タイ、インドネシア、ベネズエラ、パキスタン、フィリッピン等々からも毛布や缶詰、カップめんが。中国では、日本大使館のミニブログに、5千件もの支援の声が。ウクライナ、オランダからは千羽鶴が…と。未来永劫“自然の猛威”は、人間智では完全には防ぎきれない。この過酷な「運命」に立ち向かう為にだけでも、全世界の国々が結束すべきことを、東北関東大震災は人間に教示したのだと思うがどうだろう。

運命雑考

2011-03-28 19:01:22 | 日記
<薔薇二題>

薔薇の木に薔薇の花咲く 
ナニゴトノ 不思議ナケレドモ 
(北原白秋)

薔薇はなぜという理由もなしに咲いている
薔薇はただ咲くべく咲いている
薔薇は自分自身を気にしない
人がみているかどうかも問題にしない
(「シレジウス瞑想録」岩波文庫より)

∇宗教学者の山折哲雄氏が、被災者が生きていくために、<「無常」を受け止めよう>というメッセージを、先日の朝日新聞に送っていた。御自身の親戚縁者に連絡を取ろうとしているが電話がつながらない。覚悟を迫られる時が来るかもしれない、として曰く、<「なぜあの人は死に、私は生きているのか」と問うと、無常という言葉が浮かんできます。先人は自然の猛威に頭を垂れ、耐えてきた。日本人の心のDNAとも呼べる無常の重さをかみしめています。残念なことですが、私たちの力ではみなさんの悲しみを取り除くことはできません。悲しみを完全に共有することはできないのです。でも、みなさんに寄り添うことはできる。悲しみを抱えたまま立ち直っていくことはできるのです。それは、みなさんと「無常」を受け止めていくことだと思います>。これは「外的運命を諦念で受け入れる」“他力本願的”処世法といえる。

∇「『いき』の構造」という名著の著者で知られる九鬼周造の随筆集に、「偶然と運命」という短編がある。“自力作善的”処世法を推奨する一文である。ふと思い出して、書棚の隅からそれを取り出して、日永あれやこれや考えていた。──先ず、九鬼は運命を論じる前に、「偶然」について定義する。彼によれば、「あることもないこともできるようなもの、それがめったにないものならばなお目立ってくるが、そういうものがヒョッコリ現実面へ廻り合わせたのが偶然である」とした。例えば、双六を振って3が出たとする。サイコロには1から6までがあるのだから、3の目がでる可能性はあるが、3が必ず出るという必然性もない。だから振って3が出たのは偶然だといえる。そして3の目が5度も6度も立て続けに出る可能性は確率的には非常に小さいが、出ないという必然性は無い。もし出た場合、偶然性が高いという。

∇又、例えば、或る日或る病院に見舞いに行ったら、そこへ見舞いに来合わせた誰それに、思いがけなくバッタリ遇ったというような場合。二人はそれぞれ分かれて過ごしていたのに遇うというのは、遇わないことも可能であり、生きて動いているのだから遇うことも可能である。しかしその蓋然性(確率)は非常に低いので、それは偶然の出会いといえる。そしてまさに今回の東北関東大震災。千年に一度ともいわれる「貞観地震」に酷似した大津波型地震が襲来し、被災を受けられ死傷された約3万人に及ぼうとしている当事者本人・不明者そして膨大量にのぼる関係者及び避難された方々。警鐘は既に20年も前から鳴らされていたとはいえ、それが2011年3月11日である蓋然性は極めて低い中での偶然の惨事だ。このような場合を九鬼は、<偶然は必然の方へは背中を向け、不可能の方へ顔を向けている>と表現している。

∇もう一度まとめて九鬼の言葉で言えば、<あることもないこともできるようなもの、それがめったにないものならばなお目立ってくるが、そういうものがヒョッコリ現実面へ廻り合わせたのが偶然である>。そして、彼は<偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命という>と定義する。先の例でいえば、30年ぶりの恋人と偶然に出会って、その後何らかの人生上の変化が生じれば「運命的出会い」に発展するし、大地震遭遇の場合は言うまでもなく人生を左右する「運命的な大惨事」である。山折哲雄氏ではないが、「なぜあの人は死に、私は生きているのか」「何故懸命に人々を避難誘導した善い女性が濁流に呑まれ、10人だけが助かったのか」。九鬼は、運命には外面的なことと内面的なことがある、とする。津波に呑み込まれて死傷された方々は外面的な運命に、遺族やすべての関係者は内面的な運命に遭遇した、と考える。

∇「運命とは偶然のことなり」との定義どおり、マグネチュード9.0の津波型地震に遭遇することはめったにないが、しかし又、起こり得ることであるので、それに被災したのは偶然であり、被災者の外面的運命である。乾いた言い方をすれば「仕方ない」ことで済まされる。他方、生き残ってはいるが、この出来事で今後の人生が大きく影響する筈である避難者及び広く考えれば我々日本人、否、世界を含む人類のすべてが、内面的運命に遭遇した訳で、その処世法が重要になる。九鬼は山折氏の如く<悲しみを抱えたまま立ち直っていくことはできる。それは、みなさんと「無常」を受け止めていくことだと思う>とはしない。寧ろ「ツァラトゥストラ」のように、「意志が救いを齎す」とした。この未曾有の大惨事に遭遇したが、意志がその運命から救い出す。<この運命と一体になって、運命を深く愛することによって、溌剌たる運命を自分のものとして新たに造りだしていくことさえもできる>と。

∇九鬼の言葉で換言すれば、運命というものは我々の側にそういう選択の自由がなくていやでも応でも聞かされている放送のようなもの、ほかに違った放送が同じ時間に沢山あるのに、何故かこの放送を無理に聞かされているようなもので、他のことでもあり得たと考えられるのに、このことがちょうど自分の運命になっているということだ、と。そうだとすれば、人間としてなし得ることは何か。彼はニイチェの「ツァラトゥストラ」の教えを借りて、「意志が救いを齎す」と考えることが偶然や運命に活を入れる秘訣である、とした。未曾有の災害で、最愛の人、そして全財産を失った。それは過酷な運命だが、「意志」がその運命から救い出す。即ち「意志が引き返して意志する」ということが自らを救う道である、と。自分がそれを自分の意志によって自由に撰んだのだとせよ、そうすることによって、運命と一体になって運命を深く愛することを学ぶべきだ、と主張するのである。

∇この九鬼流の考え方は、仏教でいえば“自力作善的”な処世法である。「臨在録」・示衆篇に、「随所に主となれば、立処皆真なり」という言葉がある。その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件からも解脱できる、とする立場である。非常に強いまさにツァラトゥストラ的超人的処し方である。精神的強者はそれを能くすることができる。彼らの悟りの境地は所謂禅的解脱によって招来される。しかし先の震災被害者の家族・関係者や、只今癌の最終宣告を受けて、随所に主たりえない弱者はどうするか。老生は「歎異抄」的な“他力本願的”処世法を受容しないと、悲惨な運命に処していけないだろうと考える。「外的運命を諦念で受け入れ、今やるべきをやる」という「他力本願法+自力作善法」で臨むのが精一杯の運命処方箋であると考えるがどうだろう。

∇この稿の最後に、正岡子規が「病牀六尺」で、<余は今まで禅宗の所謂悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった><死生の問題などはあきらめて仕舞えばそれでよい。そして、あきらめがついた上でその天命を楽しんでというような楽しむという境域──病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない>と言った言葉と、プラトンの「ソクラテスの弁明」(岩波文庫)の最終末節にある、“死に逝くソクラテス”の名言を掲げて、一旦休憩としよう。<しかしもう去るべき時が来た──私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がない。>


防災意識

2011-03-27 18:43:44 | 日記

≪前事を忘れざるは後事の師なり≫
=以前のことを心に留めておくと、後日きっと役に立つ。
(「史記」秦始皇本紀・太史公賛)

∇「早く逃げてください! 高台に避難してください!」──街全体が津波に呑み込まれ、約1万7000人の人口のうち、1万人以上の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町で、津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけていた女性職員がいたそうだ。南三陸町危機管理課職員の遠藤未希さん(25)だ。地震後も役場別館の防災対策庁舎に残り、町民への無線誘導放送を続けたという。TV朝日の取材報道を見て知った。画面では町役場や防災対策庁舎は跡形もなく壊滅していた。難を逃れた某職員によると、助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。「未希さんが流されるのを見た」という話を聞いたそうだ。……

∇又、大地震発生時、岩手県大槌町にある観光ホテル「健康亭」で、老人会のツアー客ら47人は地下一階のホールで観劇中だった。「避難!」。停電で真っ暗になった館内に、従業員の徳田ひろ子さん(60)の声が響いた。約20人いた従業員は、浴衣にはんてん、スリッパのままの宿泊客を、やぶをかきわけて高台へ誘導。足が悪くて歩けない客は、車に乗せて逃げた。振り返ると既に津波はホテルの二階部分まで呑みこんでいた。──47人全員が難を逃れたのは、社長の山崎龍太郎氏が、日頃から従業員に厳しく安全管理を説いていたからだという。残念ながら社長と料理長は流されて不明。宿泊客等はその恩返しにと、避難時と同じはんてん姿で街頭に立ち、義援金集めを続けているという。(3/5朝日新聞)

∇類似の“感涙の佳話”が続々報道される。当該者は皆な無名者ながら、その「尽分立用」振りが際立っている。<百工は、肆(し=仕事場)に居て以て其の事を成す>と「論語」にあるが、百工(職人)は百工なりにその分を尽くせという訓戒である。まさに危機管理課職員の遠藤未希さんや、ホテルの従業員徳田ひろ子さんは、夫々が捨て身で己の任務を忠実に尽くされた。「分を尽くして役用に立つ」、その実践に尊敬おく能わざる気持ちで一杯だ。老生に何ができるか、銀行で僅かばかりの義援金を振り込ませて頂いた後、自分なりの「尽分立用」を考え続けている。そして又、この報道から学ぶべき教えを考えてみた。<高台に避難してください!><宿泊客を、やぶをかきわけて高台へ誘導><社長が日頃から従業員に厳しく安全管理を説いていた>についてである。

∇1854年の安政南海地震も津波被害が甚大だった。その紀州・和歌山県広川町で起こった出来事と、1896年三陸地震津波をヒントに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、献身的な活動で村人を津波から救った感動的な物語「A Living God 」を創作した。それが後に教材化され、「稲むらの火」という題で「国語読本」に採択され、小学校で教えられた。概要はこうだ。──ある村の庄屋が、地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見つけた。津波襲来にまつわる先祖代々の言い伝えを思い出し、「これはきっと津波が来る」と考えた。しかし、村人全てに事情を説明して回るいとまはない。そこで、即座に、村で収穫された稲の束に火をつけ、これに気づいた村人たちを高台に誘導した。この迅速な判断と行動によって、村を襲った津波から、多くの村人を救うことができた。

∇先の「スマトラ沖大地震」でも「稲むらの火」に似た例があった。インドネシアのシムル島では、甚大な津波被害にもかかわらず、7万8千人の住民のうち、死者は7人にとどまった。島は百年前、大きな津波に襲われた。「地震の後、波が大きく引いて、魚がぴちゃぴちゃと打ち上げられた。それを村人が拾っている時、大きな波がやってきて、何千人も死んだ。だから水が引いたら、山に逃げなさい」という「村の教え」があり、海岸沿いの住民がこぞって高台に逃げたからだ、と。──もう一つ以前ネットサーフィンをしていて見つけた蛇足話を付け加えておこう。JR紀勢本線・湯浅駅近くに浄土宗・深専寺というお寺があって、その山門入り口の左側に「大地震津なみ心え之碑」という津波心得があるそうだ。実体験に基いた貴重な「教え」なので以下に記載しておく。(防災研究所HP参照)

∇碑文に曰く<嘉永七年(1854)11月5日当地に強い地震が発生し、「南西の海から海鳴りが三、四度聞こえたかと思うと、見ている間に海面が山のように盛り上がり、「津波」というまもなく、高波が打ち上げ、……家、蔵、船などを粉々に砕いた。其の高波が押し寄せる勢いは「恐ろしい」などという言葉では言い表せないものであった。この地震の際、被害から逃れようとして浜へ逃げ、或いは船に乗り、また北川や南川筋に逃げた人々は危険な目に遭い、溺れ死ぬ人も少なくなかった。又、この地震による津波から百五十年前の宝永四年(1707)の地震の時にも浜辺へ逃げ、津波にのまれて死んだ人が多数にのぼった、と伝え聞くが、そんな話を知る人も少なくなったので、この碑を建て、後世に伝えるものである。…今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること。 恵空一菴書>。 

∇後で考えれば当たり前な事のように思えるが、「津波がきたら高台へ逃げろ」の教訓を、咄嗟の場合判断し行動できるか。日ごろから災害への備えを怠らないことに加え、災害についての知識や教訓を常に頭に入れておくことが大切であろう。津波に限らず天災或は火災等の脅威は日頃深く認識しておく必要がある。しかも条件反射的に機敏に対応できるように。──“明日は我が身”だ。まさに<前事を忘れざるは後事の師なり>をお互いに噛み締めようではないか。喉元を過ぎないうちに、遅ればせながら、寺田寅彦の随筆「天災と国防」「災難雑稿」「津波と人間」「台風雑俎」、そして昭和7年12月に起こった、はじめての高層建築・東京白木屋の火災をもとに、科学的火災訓練の導入を提唱し、そのきっかけ作りとなった「火事教育」などを読み返しているところである。