残照日記

晩節を孤芳に生きる。

国家と賢愚

2011-08-04 18:10:13 | 日記
【王様を求める蛙たち】(「イソップ寓話」)
≪蛙たちは、自分たちに支配者がいないのを不満に思い、ゼウスのもとに使者を送り、王様を授けてくれるようお願いした。ゼウスは、蛙たちが馬鹿なのを知っていたので、一本の丸太を池に落としてやった。蛙たちは、丸太のドボンという音にびっくりして、池の深みに潜り込んだ。しかし、彼らは、丸太が動かないことに気付くと、水面に出てきて、今まで怯えていたのも忘れて、丸太の上にあがったり座ったりしてそれを侮りはじめた。しばらくすると、蛙たちは、こんなデクノボウの王様を戴いているのは、面子に関わると思い、再びゼウスに使者を送って、別のもっと良い王様を授けて戴きたいとお願いした。そこでゼウスは、彼らに腹を立て、支配者として、コウノトリ(岩波文庫版では水蛇)を使わした。コウノトリは蛙たちの所に着くや、次々に蛙を捕まえて食べ始めた。…≫

∇≪ムバラク氏初公判:老いた元独裁者はベッドに横たわり入廷した。3日、エジプトの首都カイロ郊外で始まったムバラク前大統領の刑事裁判。檻(おり)の内部で白い被告服に身を包み、病み疲れたような姿は、かつての絶大な権力の完全な喪失を印象付けた。だが、ムバラク時代の残滓は消えず、今なお軍政も続く。国民は民主化実現にもがき続けている。…午前9時(日本時間午後3時)前、かつての権力者を乗せたヘリコプターが到着すると、群衆から相次いで声が上がった。「国民は死刑を欲している」「立派な指導者だった」。ムバラク時代との決別を求める人々と、強権下の「安定」を懐かしむ人々。対照的な叫びは、遅々として進まない民主化や改善しない生活環境にいら立ち、分極化した国民感情を象徴する。…≫(8/4毎日新聞)──このニュースは、人生については勿論のこと、政治上の複雑な事々を我々に問いかけている。例えば、指導者と国民の質による「統治の4形態」の選択を──。

∇上記報道から、或る人は、≪カイロで始まったムバラク前大統領の裁判は権力者の寂しい末路をまざまざとみせつけた≫として、人生論を語ることだろう。ただでさえ人の末路は寂しいものだ。現世に於いて、人には賢愚・貴賤・富貴卑賤・夭寿の差別があるが、病に襲われたり、老人になれば必ず誰かの世話になり、幾ら長寿を得たとしても、人はいつか必ず死ぬ。そして死ねば皆な骨と化す。だから名誉だとか権力だとか寿命の長短などに拘泥せず、悠々自適に暮らすがよいではないか。ましてや、独裁的権力者の末路が悲惨を極めることは歴史上明らかである。なのに…と。そして古くはドイツのヒトラー、ルーマニアのチャウシェスク、近年ではイラクのフセイン、リビアのカダフィ大佐、シリアのアサド大統領、チュニジアのベンアリ前大統領の他、バーレーン、イエメン、北朝鮮等々の指導者たちを挙げ、独裁権力者の末路、ひいては彼等によって支配される国家の行く末を案じ、国民による民主国家建立の急務たるを論じるだろう。

∇一方で或る人は、独裁者無き後の≪遅々として進まない民主化や改善しない生活環境≫への収拾・展望の難しさを指摘するであろう。そして強い指導者が必要だ、と。──ところで、イソップ物語の「蛙国家」ではないが、凡愚正直な王様が良いのか、“自己中”でもいいから、強い指導者のいる国家が望ましいのか。今、仮に指導者又は指導者群と国民の質が共に賢い場合を「賢賢」国家、逆を「愚愚」国家、リーダーが賢で、国民が愚の場合を「賢愚」国家、逆を「愚賢」国家としよう。言うまでもなく理想は「賢賢」国家だが、世界歴史上そのようなユトーピア国が存在した例はないし、今後もないだろう。すると次は「賢愚」国家がいいのか、「愚賢」国家なのか。イソップは物語のあとに必ず「教訓」を添える。「蛙王国」の場合は、曰く、≪この話は、掻き乱したり悪いことをしたりする支配者たちよりも、馬鹿でも悪くない支配者たちを戴く方が優っている、ということを明らかにしています。≫(岩波文庫)と。我が国ではどうだろうか?

∇我が国の場合、贔屓目に見ても「国民は賢なり」、と評価してよいだろう。政治指導者たちはどうか。午後のニュースにそれが見える。曰く、≪民主、自民、公明3党の幹事長・政調会長が4日昼、国会内で会談し、12年度から子ども手当を廃止し、代わりに児童手当を拡充して復活させることで正式に合意した。子ども手当にはなかった所得制限は年収960万円程度とすることで一致し、09年の民主党政権誕生で導入された目玉政策が早くも放棄されることになった。≫(8/4読売新聞) 自民党は「勝った!」と満面の笑顔だった由。即ち、現内閣及び民主党も、野党特に第一党の自民党も決して「賢」とは言えない。結局我が国は「愚賢」国家の範疇に入る。而して、我が国は政治指導者群は「愚」と雖も極悪人はいない。上記強権国家に比すれば≪善なりとは言えぬまでも、可なりとはいえる≫。(ヴォルテール「浮世のすがた」岩波文庫) さすれば、イソップの「教訓」に従うのが賢明のようだ。コウノトリに掻き乱されるよりは、凡愚の政治家たちでいい! 監視する国民が「賢」なのだから。

∇さて、報道によれば、≪住民弾圧を続ける他のアラブ指導者が、この裁判を「教訓」にさらに強硬姿勢を強め、住民に対する非妥協的な姿勢をとる可能性がある。≫という。居座るために手段を選ばない「あがき」の断行があり得るというのだ。その場合、≪死刑を欲している人々≫と≪強権下の「安定」を懐かしむ人々≫の相克は泥沼化する恐れがある。どうしたらいいのだろうか。独裁者たちがテレビニュースのムバラク前大統領の刑事裁判をしっかり眼に焼きつけ、“人生”について沈潜考察し、初心に戻って故国のために働くことを思い出すか、民衆の中から力量こそ並であっても、衆知を活かそうとする善良で真摯な政治家群が現れてくれるか、のどちらかしかない。米国他外国の内政干渉が、かつて有効打を奏したことがないことを国民は考慮すべきだ。孰れにせよ、二人目のムバラク氏を希求することは止めた方がいい。それにしても独裁政治家の諸兄よ、人生なんて以下の如くですぞ。ナム、アブラケン、ソワカ……。

【死ねば皆腐骨】(再録)    
≪十年なるも亦死し、百年なるも亦死す。/仁聖なるも亦死し、凶愚なるも亦死す。/生きては則ち尭舜なるも、死すれば則ち腐骨。/生きては則ち桀紂なるも、死すれば則ち腐骨なるは一なり。/孰(た)れかその異なるを知らん。(後略)≫(「列子」揚朱篇)

【強者もいつかは弱者になる】
≪超高齢化社会が来てよかったと思っている。かつて強者であった人も、最後には誰かに支えてもらわないと自分の生を全うできない。強者も、自分が弱者になる可能性を想像しなければならない社会だから≫(社会学者上野千鶴子氏の東大退職「最終講義」より)