残照日記

晩節を孤芳に生きる。

終戦記念日Ⅲ

2011-08-16 17:57:17 | 日記
【ユダヤの格言】
≪ボートをこいで前に進むためには、後を見ていなければならない。(前進する為には過去を学ぶことが必要の意)≫≪人は転ぶと、まず石のせいにする。石が無ければ、坂のせいにする。そして、坂が無ければ、はいている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない。≫(「タルムード」)

∇以下は、「戦後60年目」の終戦記念日に、友人8人と活発発地に意見交換していた「楽友会」なるメーリングリストに投稿した記事である。今回と同じように、当時の新聞社説をもとに老生がまとめ、その後メンバーと侃々諤々やりあった記念の文章である。偶然手許に残っていたので、戦争による被害状況や戦争終結を遅らせた「戦争責任」、そして当時の新聞社説の片鱗も窺える貴重な資料ということで、再掲しておくことにした。ユダヤの格言ではないが、前進するためには、真剣に過去を学ぶ必要がある。この度の大震災も5ヶ月にしてはや忘れかけはじめている感がする。石のせいや坂、靴のせいにしないで、根本的な部分を忘却することなく、歩一歩前進してゆきたいものである。

【終戦記念日・社説を読む】(その1)

∇今日8月15日は、60回目の終戦記念日であった。日本の歴史といえば、幕末・明治維新史のみに傾倒していた老生であったが、昨年還暦を迎えたことがきっかけとなって、遅ればせながら「昭和史」を繙くことになった。思えば自らが“生存”した時代を何も顧みることなく、よくものう/\と生きてきたものである。さてそう思って文献を渉猟し始めたら文字通り「汗牛充棟」。読んでも読んでも果てしなく、殊に先の戦争に関する流れを理解するには日清戦争以前に迄舞い戻る必要があり、事実確認を多角的に検討し始めたはいゝが、諸説紛々に惑わされ、定たる自論を確立できる迄には至っていない。──

∇日本が還暦を迎えた今日、早朝から駅の売店に出かけて、現在手元にない新聞を購入して、現時点での各紙の主張をまとめてみようと思い立った。予想通りどの新聞も色々の角度から切った膨大量の情報で盛りだくさんだ。参考になる資料も入手できた。とりあえず今回は、新聞の顔ともいえる「社説」を概観してみたい。取り上げたのは「朝日」「読売」「毎日」「産経」「東京」「日経」の六紙である。尚、引用文は< >で示し、その文末に括弧で括って新聞名を入れる。紙面の関係上、気になった幾つかの箇所のみを取り上げて、資料を補足した後、最後に老生の意見を添えることにする。

∇先ず当然のことながら、全紙それぞれ表現の仕方は異なっても次の思いは変わらない。<あの敗戦の日から60年を迎えた。南洋のジャングルで、南海の孤島で実に多くの将兵が悲惨な最期をとげた。空襲や原爆、沖縄戦で多くの非戦闘員も犠牲になった。日本人の犠牲者の総数は310万人に達する。多くの人々が癒やしがたい傷を負い、廃虚に立ちつくした。中国は日本の侵略による犠牲者が2000万人に達するとしている。改めてすべての戦争犠牲者に哀悼の意を表し、厳粛な思いを込めて平和国家、民主国家への誓いを新たにしたい。>(日経) 犠牲者数について以下に若干補足しておこう。

∇現在一般的に認定されている旧厚生省資料によれば、日本人戦没者は約310万人で、内訳は、空襲や原爆で亡くなった市民が約80万人、軍人・軍属が約230万人とされる。犠牲者数を地域別にみると、中国での戦没者が最も多く、中国本土47万人、中国東北部(旧満州)が25万人で合計約72万人。次いでフィリピンの52万人、中部太平洋地域が25万人、沖縄が19万人、ミャンマー14万人となっている。この他、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、ロシア(モンゴル含む)、西イリアン、インドネシア、インド、樺太・千島、硫黄島、タイ・マレーシア等、北ボルネオと続いている。

∇一方各国の犠牲者数では中国が最も多く、日経新聞では2000万人としている。この数字は江沢民総書記時代の1995年以前に中華人民共和国が発表していた数字で、東京裁判直後は320万人とされた。秦郁彦氏ではないが、被害者数が中国ではどん/\“インフレ化”して、3500万人とも称された。一般的には1000万人~2000万人。次に多いのがインドネシアで約400万人、ベトナム約200万人、フィリピン約100万人、韓国・北朝鮮約20万人で、ミャンマー、シンガポール・マレーシア、タイが続く。(8・7東京新聞等参照)アジア全体で犠牲者が少なくとも約2千万人いたことになる。

∇そこで、第一に理不尽にして残虐無謀な戦争を引き起こした「責任」を問う問題が論じられる。<しかし、当時も開戦に反対した人たちは、政・軍・官・民の各界にも少なからずいた。それなのに、なぜ、あのような無謀な戦争に突入してしまったのか。対米英蘭戦争の責任は、東条英機内閣だけにあったのか。その前の近衛文麿内閣は、どうだったのか。対米英蘭戦争につながることになった日中戦争は、どういう人たちの責任なのか。……開戦後も、戦局の悪化にもかかわらずいたずらに早期講和への道を阻んで、内外の犠牲を増やし続けていった責任はどうなのか。>(読売) 鋭い指摘といえよう。

∇一般的には、<日本軍に命令を発し続け、見ようによってはもっと早く戦争終結が可能だったのを続行に全力を傾注し、国際的に認められていた戦争捕虜の権利を兵に教えず、「生きて虜囚の辱めを受けず」と玉砕を強要し、数百万人以上の死にかかわる決定を下し、そう行動した東条英機元首相ら戦争指導者>(毎日)の責任であることは明白だが、「もっと早く戦争終結が可能だった」時点についてはあまり論じられていなかった。読売はそこを衝いている。8・14朝日社説も、<日本人の戦没者は310万人にのばるが、…その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万人近い。> こゝに目を注ぐべきだ、と。

∇「朝日」はもう一年間早く終結できなかったか、と疑問を投じる。(岡田啓介らの重臣による)昭和19年7月の政変で東条内閣は総辞職した。そして昭和20年2月<近衛文麿・元首相は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。>と。確かに東京大空襲で死者約10万人、沖縄が19万人、そして広島・長崎の原爆で約30万人強で合計60万人と、戦地以外での民間犠牲の責任は「東条以後の責任者」に帰する。東条以後といえば小磯・米内内閣であり、鈴木内閣である。

∇東条の前は近衛文麿であった。昭和16年10月に第三次近衛内閣が開戦論に屈して総辞職した。近衛の責任は、「日独伊三国同盟」を締結し、「大政翼賛会、国家総動員法」等を発令して、“太平洋戦争前夜”を用意したことである。岩波新書「昭和史」によれば、東条が失脚した後、<重臣はただ一人時局を収める責任を引き受けるものがなく、さんざん押しつけあった末、朝鮮総督の小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大将とが協力内閣をつくることになった>。国民は内閣交替の真相を知ることができなかった、という。小磯首相は急迫する戦局に対して何等の手立てを講じることなく、日本はズルズル奈落に落ちていった。

∇東条内閣が総辞職したのが19年7月18日。21日には米軍がグアム島に上陸し、8月10日に日本守備隊が全滅している。そして10月20日米軍がフィリッピンのレイテ島に上陸し、24日には日本海軍が連合艦隊の主力を失った。劣勢挽回のために「神風特攻隊」を投入したが効果なく、太平洋戦争の「天王山」が崩壊した。遂に12月19日大本営がレイテ戦地上決戦方針を放棄した。この時点こそが「戦争終結点」選択肢の一つだったろう。だが政府は何の手も打たなかった。「朝日」が指摘した近衛元首相の天皇陛下への上奏は翌昭和20年の2月14日のことであった。だが、重臣会議で和平論は取り上げられなかった。

∇「読売」「毎日」「朝日」が疑問視した、戦争終結が可能な時点は、以上の機会の他にいくらでもあった。何故「勝ち目のない対米英戦争」(日経)と知りながら、日本は戦争を避けることが出来なかったのか。東京新聞は、小倉和夫・前駐仏大使の「現実的対応という合言葉の危うさ」という警告を引用して、<(戦争主導者が)「それしか現実に選択肢はない」「現実の中国の情勢を考えれば、武力に頼るのもやむを得ない」という「現実」との妥協の積み重ねが外交を誤らせ、悲劇をまねいた。>、そして<外交が行き詰まり、国内に不満がたまると、武力を背景に相手を従わせる誘惑に駆られる。これが戦前の誤りだ>とする。

∇朝日は<重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていた。…だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探り合いに終始した>ことに責任を負わせた。 産経は<それは国策遂行、戦争責任の無残な結末であったが、当時、多くの国民が「自分達の戦争」との思いで必死に戦ったこともまた、紛れもない事実ではなかったか。>と主張する。 戦争責任論は今でも喧々諤々論じられている。関東軍を起点とする軍部とその指導者たちの独走、それを阻止できなかった“時の内閣”、戦争終結機会がありながら「水を差す」勇気のなかった重臣・文人たち、戦争を煽ったマスコミ群、熱狂的に自国の利を要求した国民etc.etc.

∇そして忘れてはいけないのが天皇の責任問題である。今回の社説にそれを指摘するものは全くなかった。──さて、近衛上奏があった直後の昭和20年2月19日、米軍は硫黄島に上陸、22日守備隊が全滅した。3月6日に国民勤労動員法が発布され、それに呼応したかの如く9日に東京大空襲が始まった。4月1日米軍が沖縄本島に上陸した。無為無策の小磯内閣が4月7日総辞職し、天皇への忠誠厚き侍従長だった鈴木貫太郎大将が首相に選ばれた。国内外からひそかに和平内閣ではないかと思われたがさにあらず、相変わらず「本土決戦」「一億玉砕」を国民に説きつづけた。(岩波新書「昭和史」)

∇陰では対ソ交渉方針が決定され、天皇臨席の最高戦争指導会議が再三召集された。6月23日には、国民義勇軍兵役法が公布され、老若男女を国民義勇戦闘隊に編成した。7月末には米機動部隊が関東各地を空襲し、8月6日広島に、そして9日には長崎に原爆が投下され、ソ連の対日宣戦布告を知って遂にポツダム宣言を受諾したのである。宣言を受諾するに際して拘ったのが「国体の維持」、すなわち「天皇制の維持」だった。日本国憲法のマッカーサー案受け入れ時も同様だった。当時の首脳たちが国民より「天皇制の護持」に固執していたというのが、戦争の終結を遅らせ、未曾有の戦禍を齎した主因であることは事実である。

【終戦記念日・社説を読む】(その2)

∇前稿【その1】では、「戦争責任」を国内に絞って述べた。外国に責任は無いのか。その観点で先の戦争を振り返ってみるべきだと訴求し続けてきたのが「読売」「産経」である。一般的に「朝日」は“自国自虐紙”と叩かれる。8月15日付の社説で、「読売」は東京裁判で「A級戦犯」とされた人たちを個々に見ると複雑怪奇で疑義を差し挟まざるを得ず、<「A級戦犯」問題が風化しない要因として、さらには東京裁判そのものの「性格」についても疑問が付きまとっている。…東京裁判がきわめて疑問の多い粗雑なものであったとすれば、こうした「戦争責任」を、日本国民自らが再点検してみるべきではないか>と主張した。

∇「A級戦犯」とされた広田弘毅元首相は判事たちの間でも意見が割れたし、開戦回避に尽力し、開戦後も早期講和の方途を探り続けた東郷茂徳元外相、さらに重光葵元外相などはその死去に際して国連総会で黙祷が捧げられた。又、東京裁判そのものをインドのパル判事は勝者による敗者への復讐として全員無罪を主張したし、欧米諸国の国際法学者からも疑問が投じられた。他方では裁く側のソ連は60万人の日本人捕虜をシベリア抑留したし、フランスはベトナム、オランダはインドネシアを再侵略したではないか、と。

∇「産経」は、日本が戦後60年間一度として他国と戦わず、国連や途上国に莫大な経済支援をした事実を挙げ、<この間、中国は朝鮮半島へ出兵し、金門島を砲撃し、インド、ソ連(当時)、ベトナムと戦端を開いた。内にあっても大躍進政策に文化大革命、天安門事件と多数の国民を死に追いやり、窮乏、悲嘆の淵に陥れた>ではないか、と。──しかし「日経」は、<東京裁判については様々な見方がありうるが、いまさらその当否を蒸し返しても国際的に通用しない議論であり、日本の国際的な信用を損なうだけである。>と言う。

∇そして「毎日」も、<レベルの高くないナショナリズムをあおりあって、国内政権維持に利用しあうのはおろかなことである。時の政権がそれぞれ自分に都合のいい歴史の見方をするのは古来仕方のないことで、そういうことをする力を政権という。それを日中ともお互いが否定しあうだけでは実に幼稚である。>と、総括する。その通りだろう。<六十年後、あのときの「変調」がこの国を誤らせた、と次の世代から指弾されてはいけません。戦争をしなかった六十年をさらに引き継ぐのが私たちの務めです。>(東京)

∇イタリア在住の作家・塩野七生さんが「歴史認識の共有について」述べていた。<EUも、EU共通の歴史教科書を作ろうと考え実施に移っていたが、前半の二千五百年の歴史は共通、最後の五百年の歴史は各国それぞれで、ということで決着したらしい。(注:この間互いに戦争ばかりしていた)……この作業に参加した学者の一人が苦い感想を述べている。EU共通の歴史教科書とは、それぞれの国が自分たちに都合の良い部分を取り出して教えることになるか、それとも、誰にも読まれないか、のどちらかになるだろう、と。>

∇塩野氏曰く<日韓でも日中でも、学者たちが集まって歴史認識の共有を目指すのは、時間とカネの無駄である。……ユリウス・カエサルの次の一句を味わって欲しい。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」>。文芸春秋(9月特別号) 即ち、お互いの国々がそれぞれ自分に都合のいい歴史の見方をしたがる。しかし、そうではあるが、<お互いの言い分の存在を認めた上で、矛盾したり不都合な部分をどう案配していくか、それが外交である>(毎日)

∇小泉首相は15日の“内閣総理大臣談話”で、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です」(朝日)と述べた。サンフランシスコ平和条約の受け入れも断言した。

∇ 要するに「植民地支配と侵略」「東京裁判の受け入れ」を認めたわけで、最早この蒸し返し論を繰り返すべきではない。それよりも「一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考える。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えている」とする小泉談話の実現に向けて邁進したいものである。<60歳になった戦後日本に求められるのは、そんな勇気と思慮である。>(朝日)以上。