中国の歴史

2005-07-26 | literature
「釵頭鳳」のところでも登場したが、私は陳舜臣さんのファンだ。中国を舞台とする彼の歴史小説はかなり読んでいる。「秘本三国志」(文春文庫)など夢中で読んだ口だ。標準的な三国志とは少し違うようだが、これを読んだ後では他の三国志が色あせて見える。私にとっては「秘本三国志」が三国志だ。「小説十八史略」(講談社文庫)も面白い。しかし、何と言ってもすばらしいのが「中国の歴史」全7巻(講談社文庫)。悠然たる筆使いがすばらしい。

中国歴代皇帝の中で最高の名君は誰かという問題について、陳さんが宋の太祖・趙匡胤を推していたのが記憶に残っている。その大きな理由が「石刻遺訓」だ。

石刻遺訓
北宋(960-1127)では、皇帝が即位すると、宮中の奥深くで、一種の秘儀が行われた。それは宋の太祖・趙匡胤が子孫のために石に刻んだ遺訓を拝み見る儀式であった。その石刻遺訓の内容は皇帝一人が知っており、宰相といえども知らなかった。
金軍により北宋の首都開封が破壊された時に、石刻遺訓もはじめて明るみに出たと言われる。その遺訓とは、後周王室柴氏の面倒をいつまでも見ること(宋の建国は柴氏から「禅譲」されたというかたちをとった)、そして士大夫を言論を理由として殺してはならないということだった。
即位の秘儀として石刻遺訓を見た歴代皇帝がこれを厳守したのは言うまでもない。宋の時代には多くの論客が登場し、また新法と旧法の政争がどんなに熾烈ではあっても、敗れた側は左遷か流罪が限度だった。
宋建国時に投降した政権の君主の一族や重臣達の中で、粛清された者は一人もいない。
(http://homepage3.nifty.com/adeno1/sci/hist3b.htm一部加工)

「(諸葛孔明と司馬仲達が対決した)五丈原の役以後の三国時代後期、すなわち晋の成立の過程は、司馬懿とその意志を忠実に受け継いだ息子たちが、政治的対立者をつぎつぎと迫害抹殺していった歴史である。純粋な権力闘争であり、何の理想も大義名分もない。実に暗い時代である」といわれるが(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/History/Jin/jin3.htm)、そういう政権とは大違いである。後にモンゴルに攻められ南宋(1127-1279)が滅んだとき、宋のために命を投げ出した士大夫が多かったのもむべなるかなだ。