http://yuka.itspy.com/menu/sekai/2002/ryoukan/koi/koi.html
其後はとかく御心地さわやぎ玉はず。冬になりてはたゞ御庵にのみこもらせ給ひて、人々たいめもむづかしとて、うちより戸ざしかためてものし給へる由、人の語りければ、せうそこ奉るとて、
そのまゝになほたへしのべ 今さらにしばしのゆめをいとふなよ君 貞心尼
と申し遣しければ、其後給りけること葉はなくて
梓弓春になりなば 草の庵をとくとひてまし あひたきものを 良寛
かくてしはすの末つがた、俄に重らせ玉ふよし人のもとよりしらせたりければ、打おどろきて急ぎまうでて見奉るに、さのみ惱ましき御けしきにもあらず。床の上に座しゐたまへるが、おのがまゐりしをうれしとやおもほしけむ、
いつ\/とまちにし人は來りけり 今はあひ見て何かおもはむ 良寛
むさしのゝくさばのつゆのながらへてながらへはつる身にしあらねば 同
かゝればひる夜、御片はらに在りて御ありさま見奉りぬるに、たゞ日にそへてよわりによわり行き玉ひぬればいかにせん。とてもかくても遠からずかくれさせ玉ふらめと思ふにいとかなしくて
生き死にの界はなれて住む身にも さらぬわかれのあるぞ悲しき 貞心尼
御かへし
うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 良寛
こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへ玉ふ、いとたふとし。
天保二卯年正月六日遷化よはひ七十四
つれ\/と見侍るに、禪師のみとくは、世に知るところなれば、更にもいはず。言の葉の道にさへ折にふれ事にあひて、心のまゝに詠み玉ふうたの樣、丈高くこと葉すなほにして、さながら古への調に異ならず。打ずしぬれば、自ら心すゞしくて、今の世のきはには有りがたくおぼえ侍るまゝに、いとかしこき業ながら、はちすの露ともいはまほしとぞなむ。
(「蓮の露」http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/teisin_04.htm#4_01)
* 「一生成香」(一生、香を成せ)が良寛の座右の銘とのこと。「禪師のみとくは、世に知るところなれば」とあるように、良寛は銘どおりの生涯を送ったと思う。良寛の晩年を美しく飾るとともに、彼の歌を保持し後世に伝えた貞心尼に感謝。老いた良寛をひきとり守護した木村家にも高い香を感じる。木村家についてはhttp://www.nigensha.co.jp/data/ad_sb/20050405/を参照。
*文学にうとい私は、「良寛に愛された尼貞心」等の著者相馬御風について何も知らなかった。何と「都の西北」の作詞者であるとのこと。次はhttp://www.oumi-j.jorne.ed.jp/bsn/3a-webpage/3128/index.htmlから。
相馬御風「ぎょふう」(本名:相馬昌治)は、明治16(1883)年7月10日、新潟県糸魚川町大字大町(現在の新潟県糸魚川市大町2丁目)で、父:徳治郎と母:チヨのひとり息子として生まれました。
御風は、幼いころから文才に優れ、中学校在学の時から自らを「御風」と名づけ、すでに短歌を詠んでいました。東京専門学校(早稲田大学)高等予科に入学する少し前に、新詩社(しんししゃ)に入会しますが、のちに脱退し、同志と東京純文社を創設します。
その後、1906年、早稲田大学を卒業し、早稲田文学社に入り「早稲田文学」の編集を担当。早稲田詩社を結成し、「口語自由詩」を提唱し、自由な言葉とリズムによる新しい詩のメロディーを主張しました。また、同40年には早稲田大学創立25周年に際し、校歌「都の西北」を作詞しました。
その後糸魚川に帰った御風は、ライフワークとなった良寛研究、執筆読書の生活をします。また、「春よ来い」などの童謡の作詞も手がけました。この他にもいろいろな業績を残した御風でしたが、昭和25(1950)年5月7日、突然脳いっ血で倒れ、翌8日、その66年間の生涯を閉じました。
其後はとかく御心地さわやぎ玉はず。冬になりてはたゞ御庵にのみこもらせ給ひて、人々たいめもむづかしとて、うちより戸ざしかためてものし給へる由、人の語りければ、せうそこ奉るとて、
そのまゝになほたへしのべ 今さらにしばしのゆめをいとふなよ君 貞心尼
と申し遣しければ、其後給りけること葉はなくて
梓弓春になりなば 草の庵をとくとひてまし あひたきものを 良寛
かくてしはすの末つがた、俄に重らせ玉ふよし人のもとよりしらせたりければ、打おどろきて急ぎまうでて見奉るに、さのみ惱ましき御けしきにもあらず。床の上に座しゐたまへるが、おのがまゐりしをうれしとやおもほしけむ、
いつ\/とまちにし人は來りけり 今はあひ見て何かおもはむ 良寛
むさしのゝくさばのつゆのながらへてながらへはつる身にしあらねば 同
かゝればひる夜、御片はらに在りて御ありさま見奉りぬるに、たゞ日にそへてよわりによわり行き玉ひぬればいかにせん。とてもかくても遠からずかくれさせ玉ふらめと思ふにいとかなしくて
生き死にの界はなれて住む身にも さらぬわかれのあるぞ悲しき 貞心尼
御かへし
うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 良寛
こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへ玉ふ、いとたふとし。
天保二卯年正月六日遷化よはひ七十四
つれ\/と見侍るに、禪師のみとくは、世に知るところなれば、更にもいはず。言の葉の道にさへ折にふれ事にあひて、心のまゝに詠み玉ふうたの樣、丈高くこと葉すなほにして、さながら古への調に異ならず。打ずしぬれば、自ら心すゞしくて、今の世のきはには有りがたくおぼえ侍るまゝに、いとかしこき業ながら、はちすの露ともいはまほしとぞなむ。
(「蓮の露」http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/teisin_04.htm#4_01)
* 「一生成香」(一生、香を成せ)が良寛の座右の銘とのこと。「禪師のみとくは、世に知るところなれば」とあるように、良寛は銘どおりの生涯を送ったと思う。良寛の晩年を美しく飾るとともに、彼の歌を保持し後世に伝えた貞心尼に感謝。老いた良寛をひきとり守護した木村家にも高い香を感じる。木村家についてはhttp://www.nigensha.co.jp/data/ad_sb/20050405/を参照。
*文学にうとい私は、「良寛に愛された尼貞心」等の著者相馬御風について何も知らなかった。何と「都の西北」の作詞者であるとのこと。次はhttp://www.oumi-j.jorne.ed.jp/bsn/3a-webpage/3128/index.htmlから。
相馬御風「ぎょふう」(本名:相馬昌治)は、明治16(1883)年7月10日、新潟県糸魚川町大字大町(現在の新潟県糸魚川市大町2丁目)で、父:徳治郎と母:チヨのひとり息子として生まれました。
御風は、幼いころから文才に優れ、中学校在学の時から自らを「御風」と名づけ、すでに短歌を詠んでいました。東京専門学校(早稲田大学)高等予科に入学する少し前に、新詩社(しんししゃ)に入会しますが、のちに脱退し、同志と東京純文社を創設します。
その後、1906年、早稲田大学を卒業し、早稲田文学社に入り「早稲田文学」の編集を担当。早稲田詩社を結成し、「口語自由詩」を提唱し、自由な言葉とリズムによる新しい詩のメロディーを主張しました。また、同40年には早稲田大学創立25周年に際し、校歌「都の西北」を作詞しました。
その後糸魚川に帰った御風は、ライフワークとなった良寛研究、執筆読書の生活をします。また、「春よ来い」などの童謡の作詞も手がけました。この他にもいろいろな業績を残した御風でしたが、昭和25(1950)年5月7日、突然脳いっ血で倒れ、翌8日、その66年間の生涯を閉じました。