自然法爾ー仏内存在

2005-07-10 | 親鸞

自然法爾(じねんほうに)の事

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

ちかひのやうは、無上仏(このうえなくすぐれた仏)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

正嘉二年(1258年)十二月十五日
愚禿親鸞八十六歳

(親鸞聖人御消息「自然法爾の事」本願寺出版発行 浄土真宗聖典注釈版 p.768 ( )内は元注 一部加工)

親鸞晩年の自然法爾思想。他力思想の行き着いたところ。すべてを阿弥陀如来のはからいにゆだねるべきこと,あるいは自然のままにしておくべきこと,を説いている。救いは向こうからくる。仏智の不思議。
しばしば驚嘆をもって語られる「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」。(under construction)

世界内存在

2005-07-10 | 親鸞
デカルトが自分が育った伝統的な学問全体を疑い、疑いきれない命題として「疑っている(考えている)私が存在している」に到達、その基礎の上に新時代の学問体系を構築しようとした、という話は有名である。思考する私は「主観」と呼ばれ、それ以外のすべては「客観」と呼ばれる。すると、デカルトは、世界を「主観/客観」という2分法でとらえたことになる(「思惟/延長」という2分法も有名だが、いまそれは考えない)。

2元論は哲学者には不評で、多くの場合不十分な説明だとされる。デカルトの2分法はしばしば「主客分裂」などと言いあらわされる。分裂は「歓迎されない」という意味を含んでいるだろう。不満の内容を具体的にいうと;デカルトの主観はもっぱら認識にかかわる概念である(「認識主観」などといいかえられることが示すように)。しかし、知情意という言葉が示すように、人間はもっと多様な存在者である。すなわち、それはいろいろな感情をもつとともに、善悪の判断を行う。それらの要素がデカルトの主観から捨象されている。知るという行為が、それら他の要素と独立に理解されうるのならばそれでもよいが、必ずしもそうではないのではないか。実際的関心に導かれて「知る」が成立するのではないか。このような不満から、分裂を克服する思考法が追及されてきた。

主観は単なる認識主観ではなく,知情意を備えた私であるとしよう。その私と世界との関わり方はどうなるであろうか。いくつかの可能性の中で,それらは相互依存的であるであると考える道がある。私は世界によって私だし,世界は私によって世界である,と考える道である。人間を「世界内存在」(In-Der-Welt-Sein)として規定するハイデガーは,そのような道をとったようだ。

私は世界とは別物で世界と全面的に対面し,それを思考し認識する存在だというデカルト的人間観に対し,ハイデガーは,生まれた瞬間世界に投げ込まれ,その中で生き,自分と世界(の意味)を相互に構成していく存在としての人間,という見方を対置する。そのような世界内存在としての私の存在様式の分析を通して「存在そのもの」に至ろうとしたのが,未完に終わった「存在と時間」だ。

私の存在様式を分析し,いろいろなものが私にとって役立つものとして存在し,その役立ちネットワーク全体が世界だ,とハイデガーは考える。さらに,私の存在様式には本来的あり方と非本来的あり方がある,という(ことばの意味から,ハイデガーは前者を推奨しているのだろう)。非本来性への落ち込みが「頽落」だ。雑談や好奇心にまかせてニュースをみる,他人事として世間話をする,などがそれである。それでは,本来性にわれわれを導くのは何か。それは,死の可能性の自覚である,という。

(http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/tetugaku/sonzaitojikan.html
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/text/seinundzeit/seinundzeit-1.html)

親鸞の時代(源平争乱から鎌倉時代),多くの人々が死の可能性を現実的な可能性としてとらえていただろう。その意味では,多くの人々が「本来性」のなかにいた。しかし,本来性は問題がないわけではなかった。それどころか,本来的生は苦しさに満ちたもので,その苦悩からの解放が問題なのだった。親鸞の問題はそれだった。

ごく若い頃,存在と時間を読んで不思議に思ったこと

(1)なぜ人間存在(「現存在」)の分析から出発するのか。そこから,どうして「存在そのもの」に到達できると考えるのか。
(2)人間の対なものとしての世界と外的世界(物理的世界)とは異なるだろう。かりに主客分裂がなくなったとしても,2つの世界という2分法があらわれているのではないか。

この疑問は今もある。デカルト主義を克服するといいながら,「私」から出発するデカルトの思考圏で,少なくとも「存在と時間」のハイデガーは考えているように思えてならない。後期の「古代ギリシャのことば」の分析論はちがうだろうが。「ことば」の分析で存在そのものに至る,というアプローチがそこでハイデガーがとったものだとすれば,これにも私は懐疑的である。

(ここでの私のハイデガーの理解はかなり皮相的かもしれない。詳しくはhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0916.htmlなどを読まれたい。ご批判を歓迎します)

ハイデガー,歎異抄を読む

2005-07-10 | 親鸞
ハイデガーが親鸞を賞賛している。

「今日、英訳(『歎異抄』)を通じて、初めて東洋の聖者親鸞を知った。
もし、十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び、親鸞の教えを聞いて世界中に広めることを生き甲斐にしたであろう。だが、おそかった。
自分の側には、日本の哲学者や思想家が30名近くも留学していたが、誰一人日本にこんな偉大な人がいたことを聞かせてくれなかった。日本の人たちは何をしているのだろう。
日本は戦に負けて、今後文化国家として世界文化に貢献すると言っているが、私をして言わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。何もいらないから、親鸞の教えを世界に宣伝していただきたい。
商売人、観光人、政治家であっても、日本人にふれたら、何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。そうしたら世界の人々がこの親鸞の教えの存在を知り、それぞれにその教えをわがものとするであろう」

(http://www.ttec.co.jp/~onsai/pagehtml/j_note/j_note2.htmlからの転載。オリジナル・ソースをご存知の方がおられましたら、お教えください)

親鸞ファンとしてはうれしいことばで,なるほどとも思うが,「存在と時間」の著者ハイデガーは親鸞のどこに感心したのだろうか。