自然法爾(じねんほうに)の事
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
ちかひのやうは、無上仏(このうえなくすぐれた仏)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
正嘉二年(1258年)十二月十五日
愚禿親鸞八十六歳
(親鸞聖人御消息「自然法爾の事」本願寺出版発行 浄土真宗聖典注釈版 p.768 ( )内は元注 一部加工)
親鸞晩年の自然法爾思想。他力思想の行き着いたところ。すべてを阿弥陀如来のはからいにゆだねるべきこと,あるいは自然のままにしておくべきこと,を説いている。救いは向こうからくる。仏智の不思議。
しばしば驚嘆をもって語られる「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」。(under construction)