やむ子をばあづけてかえる旅の空 

2005-06-27 | 親鸞

「親鸞面授の人びとー如信・性信を中心として」(自照社出版)を読む。この本は、親鸞に直接教えを受けた人々のうち性信と如信に光をあて,かれらに関するいくつかの論考・インタビューを集めたものである。私には,大網信融「如信が聞いた親鸞の声」と巻末の「浄土真宗安心相伝抄」がとくに興味深かった。後者は、親鸞から如信に授けられ、彼の跡を継いだ奥州白河「奥之坊」常瑞寺の歴代住職により代々書写伝承されてきたものであり、本邦初公開とのこと。

如信は善鸞の長子,したがって親鸞の孫にあたる人。祖父による父義絶の後、東国に向かい、そこで布教、生涯を終えた人である。死後、覚如により本願寺第二世と位置づけられている。親鸞の命日に本願寺で行われる報恩講には、毎年陸奥の門徒をひきつれ,はるばる陸奥から参加した、といわれる。父善鸞と異なり、東国信徒の組織化を望まず、親鸞が東国に残した弟子たちやその門徒衆を助けることのみを望んだようだ。祖父親鸞の願いに忠実だった,と言ってよいだろう。「如信が聞いた親鸞の声」によれば、如信は最後に「奥州大網東山」を安住の地とし、陸奥・八溝山の周辺地域を中心に布教したとのこと。ここは「常陸奥郡」(現茨城県北部ー久慈川流域)と接し重なる地域であり、稲田在住時親鸞が精力的に布教し、門徒も多かったといわれる地域である。

「浄土真宗安心相伝抄」は、布教のため東国に旅発つ愛孫如信(彼は幼いころから長ずるにいたるまで祖父の膝下にあったとされる)に対し、親鸞が彼晩年の境地である自然法爾の教えを授けた書である。おそらくこういう場合のきまった言い方なのだろうが,「如信のためにだけ授ける」とあるのが多少気になった。あるいは,父善鸞も同様の内容の口伝を受け、それを「他力の中の他力」,「秘伝」であり、阿弥陀仏の第十八願を超える教えと受け取ったのかもしれない,とふと思った。善鸞は第十八願を「しぼめる花」にたとえたとされるが、それもこの「誤解」からきているのかもしれない。しかし,如信は祖父の教えを正しくうけとり、のりをこえなかったとされる。

八溝山の周辺地域は現在でもかなりの田舎である(当時は砂金が産出したといわれるが)。布教上の最前線だったろう。京都大谷廟所の留守職を従兄弟の覚恵に譲り,陸奥に入り,生涯を終えた如信は聖人の名にふさわしい。親鸞を思わせる風格をもち関東の人々に敬愛されたといわれるが,それも当然であろう。なお,大網の奥之坊は三代空如の時に願入寺と改称されたが,後にこの地域の領主となった徳川光圀がそれを大洗に復興している(祝町願入寺)。久慈川と大洗の海が合流する景勝の地に建てられたこのお寺には,光圀作と称される如信上人像が伝えられているそうである。

性信は,親鸞の信頼ことに深かった直弟で,横曽根門徒の指導者。親鸞帰洛の旅の途中箱根にて,親鸞から残してきた東国門徒の世話を依頼され,関東にとどまった。そのおり,親鸞から「教行信証」の草稿を預けられたとされる。坂東報恩寺の開基。http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/c666091.htmで彼の見事な坐像が見られる。
「坂東報恩寺の由来」http://www.fureai.or.jp/~bandou/yurai.htmも興味深い。一部を転載させていただこう。

 聖人は関東に二十年余りおられましたが六十いくつになられたある年、とうとう関東に別れを告げ、生まれ故郷の京にお帰りになられました。性信坊も願い出て、聖人のお供をすることになりました。 相州箱根山の険しい山道を登りつめたところで、長い間住みなれた関東の地を、懐かしそうに振り返られて、後に付き添う性信坊に向かってー私にとっては第二の故郷でもあるあの関東の地は捨て難いがとし老いた身で、この険しい山坂をたどって再びこの地に戻ってくるのは、まづ難しいことです。けれども、あそこには一緒に道を求めてきた友達がたくさんいます。それを置いてでてきたことは私には辛いことです。関東はあなたの故郷でもあるし、どうか、あなたは今一度引き返して、私に代わって、道の友達の相談相手になってあげて下さい。ーといわれるのであった。 性信坊はこの師のお言葉を聞いて、このまま長いお別れになろうことが、さすがに名残惜しまれて、攻めて都までお送りしたいとお願いしてみたが、聖人の懇ろなお諭しにあっては、それに従うほかなかった。聖人は殊の外それを喜ばれて、かたみの品として『教行信証』の御草稿、空聖人より伝来の仏舎利、浄土三部経、善導源空両師の画像、その他手回りの品々をそえて性信坊へ下さったのである。これらの品々は大切な宝物として、今に伝えられている。聖人はその時一首の歌を残された。
  やむ子をばあづけてかえる旅の空 こころはここに残しこそすれ 
 この地には、今も記念の碑が建てられ、毎年この地を訪ねる人は絶えない。性信坊は、師に別れを告げると、再び、横曽根の自坊へ帰って、師のお諭しのままに、人々に道を伝えることにいとまもなかった。その徳風を伝え聞いて、集まる人々は門前市をなした。

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