鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

雨の二ノ滝

2022年09月24日 | 鳥海山

 市の広報で参加者を募集していたので行ってきました。午後から晴れるとは予報にあったのですが朝から大雨。中止の連絡は来ていないし行ってみましょう。駐車場には県外ナンバーの車が数台。

 駐車場でひと眠りしながら待つこと暫し。来るわ来るわ、その数数十人。篠突く雨とは言いながら集まるもんですね。会費は保険料込みで千円。以前参加してみたトレッキングは二三千円徴収しながら保険も案内もなし。結論から言いますと、熊には出会う確率は低くなりますけどこういったツアーはもう参加しなくていいや。足腰が衰え、この程度の道さへ難儀になってしまって普通に歩ける人には迷惑かけるし、それもあるけれど見知らぬ大人数の人と歩くのはどうも。

 山登、トレッキングとなると参加者はほぼ年配の方。ここ二三年山歩きを再開して思ったのはそのことと、自分も爺のくせに、そう、カメラを構えて写真を撮る人が見えなくなったことですね。撮影の名所といわれる所には金に任せた撮影機材をどっさりと持ち込み、湿地帯であろうとお構いなしに踏み込む爺は相変わらずの数ですが。

 一の滝はものすごい水量。

 二ノ滝は二つに分かれて落ちるところがわからなくなるほどの水量。案内のおじさんもこれほどの水量の二ノ滝はかつて見たことが無いと。そういえば二ノ滝に来るのは何年振りかなあ。

 ちょいとボケた写真ですが狭霧橋には「西ノコメ川」の表示が。今までの「南ノコマイ」という誤った表示から一歩進んだのはいいのですが、これは最上川川、鳥海山山と書くのと同じこと。コメ、コマイ(川前)がそもそも川、渓谷を意味するので台無しの表示板です。誰かわかる人が監修しないといけなかったのに。

 この狭霧橋、なんだか源氏物語にでも出てくるような名前ですが聞いたところによるとそのものズバリ、狭くなった渓谷で気温と水温の温度差が大きくなったときに霧が立ち込めるところからこの名前がついたそうです。

 狭霧橋より上流。

 狭霧橋より下流。狭くなった渓谷を増水した激流が流れていきます。この橋を架けかえるのは大変な工事だったでしょうね。以前は吊り橋だったと思います。冬の間この橋も歩み板は撤去されますのでご注意を。落ちたら死にます。(高瀬峡の吊り橋も歩み板は撤去されます。知人がその係をやっています。)

 ここから途中間の滝は現在藪に覆われ覗き見ることはできません。無理に覗き込もうとすれば転落してしまうのは確実。登山地図にあるからといって覗き見るのはやめておきましょう。国定公園なので見晴らしの爲に伐採するのは出来ないのです。あくまでも登山道の通行に支障をきたし危険と判断された場合のみしか伐採されません。

 予定では三ノ滝までだったのですが雨で増水しているのでこれ以上は危険と先行者の判断により中止。ここから狭霧橋を渡って帰路につきます。

 これも手元のぶれた写真ですが今年は山毛欅の実が豊作の様子。この山毛欅の実は成熟するまでもう少し。跡半月もすれば熊さんが食べに来るのは間違いなし。登山道沿いですのでこちらへ来る人はご注意を。熊の採餌に出くわさないとも限りません。その時何が起きるか、

 カメラのレンズが濡れています。今回登山靴の底が片方ぱっくりと剥がれてしまいました。ビブラムソールでも鋲打ちされていない接着剤だけの近年のものなのでこういったこともあるのでしょう。幸いメンバーの中に応急処置のゴムバンドを持った方がいて処置していただきました。こういう時はツアーで助かったというべきか。ソールは山行の前後には確認しているんですけどこういうことは何十年かの山歩きで初めてです。いい経験になりました。靴の替え紐はいつもザックに入っているんですけどね。


扇子森

2022年09月24日 | 鳥海山

 iwahigeさんがブログで扇子森の事を書いていましたけど、同じ思いがあったので古い文書、古地図、絵図で調べてみました。

 ”森”と御云うのはwoodsではなくて東北地方ではこんもりとした山ですね。鳥海山には月山森、鍋森といったピークがあります。鍋森の溶岩ドームは眼ちます。鍋をさかさまにしたようでいわれはなるほど鍋だ、となりますがでは扇子森は。

 上の写真では右に小さなピーク、左が緩やかな山になっているのがわかります。緩やかな方が扇子森?小さなピークが扇子森?小さなピークを扇の要に見立てて緩やかな方を扇、全体で扇子森?どうやら緩やかなピーク小さなピークを併せて扇子森ということのようです。


  国土地理院2.5万地質図鳥海山より

 上の地質図を見るとまさに扇を広げたように見えます。こうしてみると地質図を見た人が扇子森と名付けた、と思ってしまいますが調べてみると。

 扇子森について大正7年発行の橋本賢助「鳥海登山案内」に扇子森は載っていましたがその前の太田宣賢「鳥海山登山案内記」にはありません。(蕨岡の人が山頂への参拝のために書いた書いた故でしょう。)

 明治十八年の古地図には扇子森境とあります。

 もっと遡ると文政四年(1821)の古絵図にも扇子森の記載がありました。



こうしてみるとかなり昔から扇子森と呼ばれていたのがわかります。残念ながら手元にある過去の文書で扇子森という名が出てくるのは今の所橋本賢助「鳥海登山案内」のみです。しかし古絵図には扇子森が載っていますのでかなり昔からそう呼ばれていたことは確かです。昔の人は想像力豊かですね。土地の名前には理由があるのですがそれを弦巻池を鶴間池、桑ノ森を観音森などと変えてしまったのは残念なことです。

 

 


脱炭素、SDGs すべて嘘臭いなあ

2022年09月22日 | 兎糞録

 脱炭素、SDGs、地球にやさしい、環境にやさしい、何かが違うような気がしますなあ。再生エネルギーにいたってはなおさら。労働力不足を外国人で、などというのも亡国の始まりではないかと思っていたのですが。 それとはずれていますけどレジ袋有料化、何か良くなりましたか。

 暗殺された元首相を貶めて騒ぐのは人としての品性に問題はないのでしょうか。最近国を外国に売りたい政治家がいっぱい。国を売るのは最高の犯罪のはずですよね。

 この著者の本を日本語のためにと思って読んでいたのですが、この鈴木孝夫さんの本を読んでいたら、なるほどなあ、の思いが。

 長いですけどちょっとだけ引用させていただきます。(こういうのは著作権侵害とは言わないでしょう。)


 その上さらに困ったことは、いま日本には自分の国の悪口を国内どころか、外国に向かってまで言いふらす非常識な不心得者が、政治家、報道関係者、大学教授などのいわゆる進歩的文化人 や有識者の間にかなりいるということです。この人々は知ってか知らずか、日本の素晴らしさに は目をつぶり、何とか日本を情けないめちやめちやな国にしょうと、日夜いろいろと画策努力を しているのです。 これらの人間は大きく言って二つのグループに分けられます。 一つはいまだに西洋至上主義の呪縛から解放されていない人々です。日本を見る眼が欧米社会 のあり方や価値観を基準としているために、日本が欧米と違う点すべてを、日本の遅れ、前近代 性の残滓と思い込み、日本のさらなる欧米化を図ろうとしている人々です。このょうな日本を非 日本化することが、日本ひいては世界のためになると真面目に信じている人々は、自分たちを欧 米の人間が支援応援するのは、彼ら欧米人の役に立つ間だけだということが分かっていません。 用が済んで要らなくなれば、歴史上何度繰り返されたか分からない、「狡兎死して走狗煮らる」すばしっこいウサギを狩るのに役立った 犬は、ウサギがいなくなれば煮て食われてしまうの悲劇が、彼らを待っていることに気付かないのです。

 もう一つのグループは、一時左翼思想にかぶれ、ソ連を盟主と仰ぐ共産主義日本を築くことを 夢見たのに、頼みとする親方ソ連の崩壊とともに、進むべき目標も心の拠り所も失った人々です。 これらの人々の多くは、自分が信じた大義に潔く殉じるほどの純粋さも勇気もありません。それ どころか、思想信条の自由を建前とする大学や報道機関、そして公的機関などに上手にもぐりこ み、世界の実情も日本の本当の姿も知らない学生や一般大衆に偏った考ぇを吹き込んでいるので す。庶民はすべて「善」であり、冷酷非情な権力すなわち「悪」にょって虐げられ搾取されてい るといった、単純な階級的対立思考の狭い枠組みの中に国民を取り込んでいます。そしてはっき りした新しいヴィジョンもないのに、とにかく既成の秩序を破壊し社会を混乱させょぅと、むな しい鬱憤晴らしを続けている困った人々です。 


 最近書かれた本のように思えるでしょう。でもこれ、大正15年生まれの著者が書いた2006年、平成18年の本。世の中このときから変わっていません。悪くなる一方ではないですか。周りを聴けば、時給社員は時給は上がったけれど労働日数が減った、正社員は、給料は上がらず仕事量は増えた、今までの資格手当、住宅手当は削減、人は辞めていく、ハローワークに求人かけても人は来ない。なぜ来ない。

 外国人労働者を受け入れるより働けない日本人を働けるようにするのが日本国の務めじゃないんでしょうか。

 この一冊を読んでいるとなるほどなあ、と思うことばかりです。


現代日本名山圖繪

2022年09月21日 | 鳥海山

 谷文晁の描いた江戸期の山八十八座を写生場所を推定してカメラとペンで再現、という触れ込み。古書で読んだ形跡もないものが著者署名入りで送料込み二千円でお釣りが来ました。

 

 早速鳥海山の項を開いたけれど、残念ながら文晁の描いた場所は特定していません。「私は、文晁のアングルとは違うけれど、どうしても象潟からの一枚に拘っていた。ことに象潟の港から鳥海山こそ、と思うのである。」と象潟港からの一枚を載せています。象潟から見る鳥海山も綺麗ですよね。

 前回の谷文晁の鳥海山、

 前景の山を除くと下の絵葉書の景色に近くなります。

 この河合新藏「山王森午影」も谷文晁の絵の影響を受けた構図ではなかったでしょうか。「現代日本名山圖繪」の三宅修氏も「彼が鳥海山を描いたのは、左手に日本海の広がる酒田付近ではないか、と思われる。」とは記しています。

 酒田港一帯の様子は江戸期、明治・大正・昭和と埋め立てで相当に変貌しています。河合新藏の描いた山王森は今もありますが前掲の様子は全く変化していて場所も見当がつきません。まして江戸期の文晁の描いた場所は、となると特定するのはなかなか大変だと思われます。文晁の描いた鳥海山の右手の前掲のもこもこした山はどこだろう?と思ってしまいます。ある日何気なく通った場所が、あっ、ここから見たのか、なんてことはあるかもしれませんね。


谷文晁の見た鳥海山

2022年09月18日 | 鳥海山

 谷文晁(1763年~1841年)の日本名山圖繪は文化元年(1804年)に「名山圖繪」としてまとめたものを文化九年(1812年)「日本名山圖繪」として改題して天地人三冊で刊行されたものだそうです。(Wikipediaを丸写ししてしまうと「文化9年(1812年)に著した」と半分しか正解になりませんのでWikiを鵜呑みにして引用するのは要注意です。)

 谷文晁は享和二年(1802年)までにはこれらの山の姿を描いていたそうですからここに描かれた鳥海山はおそらく享和元年(1801年)の噴火以前の姿ではないでしょうか。庄内から見た鳥海山ですがどこから見て描いたのかはわかりません。山の姿は誇張して描いてはありますが山頂に飛び出す新山が描かれていないのでやはり噴火前なのではないでしょうか。享和の噴火前の鳥海山には興味があります。

 絵には鳥海山在出羽州由利郡とありますがこの当時由利郡は現在の飽海郡も含んでいた、田川・飽海の2郡はその設置年代が不明ということですのでやはりこの絵は現在の飽海郡の何処からか描いたものでしょう。現代の行政の地域割りはいったん頭の中を白紙にして考えないといけません。この時代の歴史は専門ではないのでさっと資料に目を通しただけです。

 三冊の和本は高いですがこの復刻版は結構安く手に入ります。三宅修 著の現代日本名山圖會というものもあり、こちらは文晁の描いた山を写生場所を推定、同じ地点からカメラとペンで文晁の山を再現したものとありますので今度はそちらを見てみましょう。面白そうなので注文しました。こちらも結構安く手に入ります。届いたらまた紹介いたします。