鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

古い絵葉書を楽しむ

2022年01月21日 | 鳥海山

 表面(宛名を書く方)の仕様からおそらく大正7年(1918年)から昭和7年(1932年)の間に作られたと思われます。風景にドンと構えるのはやはり鳥海山。

 遠景は雄鹿山、すなわち男鹿半島の本山(ほんざん)です。鳥海山はやたら高く描かれていますが意図あってか名前を振ってありません。

 その下左から、小サ川、新ハマ、女鹿ハマ、タキウラ(滝ノ浦)、トリサキ(鳥崎)、吹浦とあり、その右端に弥三郎(最後判読不能)と書いてありますが山の上にあるので鳥海山の弥三郎岩の事でしょうか。

 酒田湊の沖に浮かぶのは左にトコシマ、その右ツカミシマ。当時飛島をトコシマといったのでしょうか。またツカミシマとはいったい。その下中央には本間、本間家本邸としたら位置が変。こういったものを解いていくのもまた面白いものです。
(市立資料館に似たような絵があり、解説では現地を見ないで想像で書いたものと思われるとあり、これもそうではないかと思われます。)

 最近はどこでも地名が安易なものへと変更されていますが、古来よりある地名は大切にしたいものです。


鳥海山恋歌

2022年01月19日 | 鳥海山

 ガソリンを入れに(このへんの人はガソリンをツメるという言い方をしますが、全国でもここでしか言わないようです。)外出したついでに久しぶりに志のない古本屋をのぞいたら白山風露さんの「鳥海山恋歌」が出ていたので買ってしまいました。あの店に置かれるのはよろしくない、なんて思っちゃったりして。いつのまにか文庫本になっていたんですね。最初に出版されたときはもう少し大判での出版で、直接いただいたんですが引っ越しのドサクサで行く方知れず。白山風露さん、ごめんなさい。このほかにもう何冊か出された記憶があります。

 白山風露さんは鳥海山の大先輩、今も全国漫遊しているご様子で行った先々の写真をメールでいただきます。写真の隅々から山大好きがあふれ出してきます。そんな白山風露さんにスノーモービルでの入山ついてうかがったら強烈な一言、「山は自分の足で歩け!!」
 たしかにその通りです。

 冬山が大好きな白山風露さん、もちろん中の写真はご自身の撮影。その辺のプロ、自称プロ、プロもどきよりずっと素敵な写真です。

 あっ、肝心の歌について書くのを忘れてしまった。


河原宿の高山植物園

2022年01月18日 | 鳥海山

 橋本賢助の鳥海登山案内に以下の一節があります。これがもととなって上の写真の高山植物園が設けられたのでしょうか。

 実はこの写真の左から先一帯、特に千畳ヶ原への分岐点あたりは緑豊か、御田ヶ原ともいわれたのはこのあたりだと思いますが、今は荒れはてた岩ゴロゴロになっています。これは多くの人がテントを張り、排水の溝を掘ったためだそうです。吹浦口八丁坂も木道は敷かれましたがあの荒廃は回復することがないでしょう。


第二章 鳥海山高山園

高山植物を中地に移植して栽培する高山園は、西洋では既に十六世紀にシャーレ、ドウ、レクルース氏が、オーストリャ、アルプスに採集を行ひ、イキンなる氏の庭園に植ゑたのを濫觴として、現今では頗る園藝上に於て重要視され、英國の如きは大仕掛なる高山園を造ってゐる有樣である、我が國では近時漸く其の聲を聞く様になつたが、誠に喜ぶべき現象で一般人にも追々高山趣味を解せられた結果と思はれる。

然し乍ら平地に造る高山園では、どうしても完全に高地と周園の事情を等しくする事が出來ない結果或は折角の珍品を枯らし或は形態及び生理狀態に變化を來すのを常とする、それ故眞の高山園は平地に設くべきものでなく、やはりフランスのロータレの如く、周圍の事情の等しい高山に設置すべきものと思ふ。

今ロータレに於ける高山園を聞くに、海扱七千尺丁度鳥海山位の高所で、十八年前に 設計したとの事であるが、當時五百種の高山植物は現今では二千有余種の多さに達し登山者泊めるべき宿屋さへ設けられ、其區域内には平坦の土地あり、丘陵あり、谷も川もあつて其の一部には蔬茶の栽培も行はれて宿屋の需要に應するのだそうだ、然も此處には植物學考がたづさはり、園丁も常にゐて種子は版賣してゐるとの事である、我が 國にも斯樣な高山園の設けられる事は望ましい極みであるが、目下の狀態では中々容易には出來そうもない、せめては鳥海山一山に限る簡単なるものでもよいからと云ふので設計したのが之である。度々云ふ如く蕨岡口の河原宿は海抜凡そ五千尺當山七合目位のテーブランドで、山中随一の美麗なるお花畠の所在地である、然も川あり丘陵あり濕地あり高原あり、宿屋はないが之に代るべき笹小屋があつて夏季中は此處に茶屋をはって番人が居るのみならず植物の豊富な所であるから僅かの移植に依つて優に當山に於ける百二十有余種の高山植物を集める事が出來る、之に一々名稱を附けるのであるから、採集者にはどれだけ便利だかわからない、一般登山者にも慰安となり參考となり、或は高山趣味の鼓吹の具ともなるだらうし、殊に之に依つて絶滅に近い高山植物の保護ともなるのである。


 こうした紹介が逆に鳥海山の自然の破壊に力を貸したのかもしれません。


鳥海山享和の噴火

2022年01月17日 | 鳥海山

 子供の頃鳥海山は標高2,237mと教えられていましたが、いつの間にか2,236mと1m低くなり子供心になんだか悔しいような気がした覚えがあります。その頃はまだ死火山、休火山、活火山という分類があり鳥海山は休火山と説明されていました。昭和49年(1974)まではその分類に入っていました。(気象庁に依れば今は休火山や死火山という分類はされていないそうです。)その頃、駅の売店ではちゃっかり「活火山鳥海山」というバッジを売っていたのを見て商売というのはそんなものかと思ったことでした。

 飽海郡誌には鳥海山の噴火に関する文書が過去の記録より集めてあります。近世は奉行所への届け出書など多くの資料が残されていますが特に新山の出来た享和の噴火については多くの文書が残されています。現代語に訳するよりもそのまま読んでいただいた方がその息遣いが良く聞こえてくると思います。

 享和元年の噴火の図(飽海郡誌より)


去年中願申上候行者嶽と申所に造立仕候鳥海山御本社並作事小屋共當十三日煙氣のため燒失仕候次第左ニ申進候其日晝四ツ時頃伏置候大桶杵之類を以打候ごとくどん〳〵と二三度鳴とひとしく瑠璃壺邊より眞黑煙氣是迄見かけ不申程甚敷立登り如何いたし候事やらんと見居候內山上北風と見へ此方前山へ黑煙吹掛候ニ付人々恐しく肝を潰し見居候事ニ御座候其節山上ニてハ火玉吹出し嶽松の類一面ニ吹上燒飛候由山上勤番の衆徒も川原宿小屋へ逃去候處小屋番の者一人も不居合皆々下へ逃下リ候由尤莇坂ハ吹上泥ニて一尺余苗代の中を漕き候ゆうニ相成候其節山上嗚動其上水呑と申邊迄眞闇ニ相成リ灰降候而山稼の若者共人馬共ニ大ニ驚き肥草打捨空馬ニシテ這々逃歸候事ニ相聞候元文五申年燒候節ハケ樣の變事不承事ニ御座候右ニ付寺社方へも御注進申上候得共右之趣も被仰上可被下候以上


 「水呑と申邊迄眞闇ニ相成リ灰降候」とありますが水呑は蕨岡口の鳳来山よりずっと下の方です、そこまで真っ暗闇になったということですので今の家族旅行村の少し上はもう見えなくなったということになります。


 (地図は昭文社山と高原地図鳥海山1976年版より)
 新山から仮に同心円上に闇になったところを色付けしてみましたが、もちろん条件によってこうはなりませんが、これだけ広範囲が闇に覆われたということでしょう。

 以下の記録は大量の死者が出た時のものです。


七月七日草津村より參詣之道者十一人罷登候而燒場所見物なから御峰ニ登リ候處行者嶽より七髙山江登ル道ヲ峰通りにて煙氣上り大燒相成土石の飛事雨の如し其中大石交り折節北風ニ而道筋ニ懸リ道者草津村者七人赤剝村者壹人都合八人死ス其死骸を昆るに大石に潰され或ハ首もきれ或ハ膓破れ或ハ手足もきれ寸々成リ內一人死骸不相見夫より右死骸持參之爲人足道者の家々より指登せ候へ共折節煙氣强く猶又死人不淨之ため歟天氣惡敷人足共命ニも懸ル程之事ニ候且煙氣之模樣も不相見候 ニ付何時燒拔候義難計草津村ニ而難儀至極之事相聞候漸天氣透を見右散々ニ相成候死骸俵つめに致持參之節其臭キ事且死人之体難言語事ニ相聞候外ニ同行之內三人ハ半死半生之体ニ成罷歸候其節當山玉泉坊勤番ニ登居右道者之內緣者有之ニ付先達被頼御峰通ニ同道致候處右難ニ合候へ共折能ク行者嶽「切通シ」邊二而峰間ニタヽズミ居透間見合南之山下迯走リ漸々命助リ罷歸候


 トンガで大きな噴火がありましたが鳥海山もいつまた噴火するかわかりません。


大正十年の登拝者

2022年01月15日 | 鳥海山

 大正十年八月十五日、八月十五日と言っても大正ですので敗戦の日ではありません。白装束の登拝者が新山切通で記念撮影です。二十五人ほどいらっしゃるようです。

 わずか百年ほどの間にこういった風習は消えてしまうのですね。世代にしてわずか三四世代です。大正初めに鳥海山登山案内を出した太田氏も現当主の四代前だそうですから世代としてみたらそんなところでしょう。

 昭和の五十年以降は鳥海山で白装束の方にあったのはたった一度、独りでの登拝でした、お峯、外輪を山頂へ向かって歩いている所でした。佐藤康さんの「ひとりぼっちの鳥海山」にも昭和二十七年に白装束の行者がやってきた話があります。

 今も鳥海講は行われていますがどれほどの講が今なお行われているのでしょうか。知り合いの地区でも今はやっていないという話でしたし、以前は赤瀧へ綱講で行っていたという地区でも今は行っていないということですし、だいぶ少なくなっているようです。考えてみれば、今の登山ブームのようなものだってそう遠くないうちに下火になるでしょう。それも散々に山を荒らし終えてから。