鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山享和の噴火

2022年01月17日 | 鳥海山

 子供の頃鳥海山は標高2,237mと教えられていましたが、いつの間にか2,236mと1m低くなり子供心になんだか悔しいような気がした覚えがあります。その頃はまだ死火山、休火山、活火山という分類があり鳥海山は休火山と説明されていました。昭和49年(1974)まではその分類に入っていました。(気象庁に依れば今は休火山や死火山という分類はされていないそうです。)その頃、駅の売店ではちゃっかり「活火山鳥海山」というバッジを売っていたのを見て商売というのはそんなものかと思ったことでした。

 飽海郡誌には鳥海山の噴火に関する文書が過去の記録より集めてあります。近世は奉行所への届け出書など多くの資料が残されていますが特に新山の出来た享和の噴火については多くの文書が残されています。現代語に訳するよりもそのまま読んでいただいた方がその息遣いが良く聞こえてくると思います。

 享和元年の噴火の図(飽海郡誌より)


去年中願申上候行者嶽と申所に造立仕候鳥海山御本社並作事小屋共當十三日煙氣のため燒失仕候次第左ニ申進候其日晝四ツ時頃伏置候大桶杵之類を以打候ごとくどん〳〵と二三度鳴とひとしく瑠璃壺邊より眞黑煙氣是迄見かけ不申程甚敷立登り如何いたし候事やらんと見居候內山上北風と見へ此方前山へ黑煙吹掛候ニ付人々恐しく肝を潰し見居候事ニ御座候其節山上ニてハ火玉吹出し嶽松の類一面ニ吹上燒飛候由山上勤番の衆徒も川原宿小屋へ逃去候處小屋番の者一人も不居合皆々下へ逃下リ候由尤莇坂ハ吹上泥ニて一尺余苗代の中を漕き候ゆうニ相成候其節山上嗚動其上水呑と申邊迄眞闇ニ相成リ灰降候而山稼の若者共人馬共ニ大ニ驚き肥草打捨空馬ニシテ這々逃歸候事ニ相聞候元文五申年燒候節ハケ樣の變事不承事ニ御座候右ニ付寺社方へも御注進申上候得共右之趣も被仰上可被下候以上


 「水呑と申邊迄眞闇ニ相成リ灰降候」とありますが水呑は蕨岡口の鳳来山よりずっと下の方です、そこまで真っ暗闇になったということですので今の家族旅行村の少し上はもう見えなくなったということになります。


 (地図は昭文社山と高原地図鳥海山1976年版より)
 新山から仮に同心円上に闇になったところを色付けしてみましたが、もちろん条件によってこうはなりませんが、これだけ広範囲が闇に覆われたということでしょう。

 以下の記録は大量の死者が出た時のものです。


七月七日草津村より參詣之道者十一人罷登候而燒場所見物なから御峰ニ登リ候處行者嶽より七髙山江登ル道ヲ峰通りにて煙氣上り大燒相成土石の飛事雨の如し其中大石交り折節北風ニ而道筋ニ懸リ道者草津村者七人赤剝村者壹人都合八人死ス其死骸を昆るに大石に潰され或ハ首もきれ或ハ膓破れ或ハ手足もきれ寸々成リ內一人死骸不相見夫より右死骸持參之爲人足道者の家々より指登せ候へ共折節煙氣强く猶又死人不淨之ため歟天氣惡敷人足共命ニも懸ル程之事ニ候且煙氣之模樣も不相見候 ニ付何時燒拔候義難計草津村ニ而難儀至極之事相聞候漸天氣透を見右散々ニ相成候死骸俵つめに致持參之節其臭キ事且死人之体難言語事ニ相聞候外ニ同行之內三人ハ半死半生之体ニ成罷歸候其節當山玉泉坊勤番ニ登居右道者之內緣者有之ニ付先達被頼御峰通ニ同道致候處右難ニ合候へ共折能ク行者嶽「切通シ」邊二而峰間ニタヽズミ居透間見合南之山下迯走リ漸々命助リ罷歸候


 トンガで大きな噴火がありましたが鳥海山もいつまた噴火するかわかりません。


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