鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

食物暗號

2021年11月21日 | 鳥海山

 昔、池昭さんが鳥海山で鯨の缶詰を開け、神主さんにこっぴどく怒られた話がありましたが、実は蕨岡では隠語で生臭物を表していたようです。他の信仰の山ではどうなっているのでしょうか。山岳修験の研究書でも取り上げているのかどうか。その辺は調べてもいないのでわかりませんが若しご存じの方がいたら教えてください。
 例によって橋本賢助「鳥海登山案内・訂正版」より、


食物暗號

鷄卵(ごと芋) 鹽引の類(下駄の齒) あはび(しばり太鼓) 鷄(ばた〱) 鰌(おどりこ) 鯨、いるか(荒砥) 魚類(吹浦) 乾鰊(割り木)

之は蕨岡で使用する食物暗號の一例。

然り「ごと芋」は精進物に相違ない。なるほど鷄卵持參では神意にそむこうが「ごと芋」ならば差支はない筈。


 皆なんとなくわかりますね。クジラ、イルカが荒砥なのは切り身を荒砥石に見立てたのでしょうか。吹浦漁港から持ってくるから「吹浦」、乾鰊はまさに「割り木」のようです。山ではやはり動物性蛋白を取らないと人は暮らしていけないようです。

※「ごと芋」は長崎の五島列島の「ごと芋」ではなく、この辺では飛島で採れるジャガイモ(男爵イモ)を「ごど芋」と言います。なんでも運ぶ時、「ゴドゴド」といったからとか。(飛島のごど芋)で検索してみてください。


またしても大正のわが街を見る

2021年11月20日 | 兎糞録

 百年前の写真ですがそんなに昔のような気がしません。

 前に観た写真は同じ構図で船が写っていましたがこちらは船は航行していません。

 船の煙突の黒煙を見ると公害だ、と今の世ならなってしまうのでしょう。鳥海山中でスノーモービルが排気ガスと騒音をまき散らして走行するのは人がいないからいいんでしょうか、と思考は飛んでしまいます。

 護岸がないのと帆掛け船、

 風力発電の風車はない方がいいです。

 山居倉庫人力の時代です。あの「おしん」コーナー、もう撤去してもいいんじゃないんでしょうか。

 半世紀前はまだこの建物だったような気がします。

 旧割烹小幡は飲食スペースに、飲食店を出店する企業の爲にリニューアルされたようですが、こちらの旧図書館はお金を生み出さないので放置されています。


鳥海山の大蛇

2021年11月19日 | 鳥海山

 十年以上前動画サイトに投稿されたものですが、これに関連して橋本賢助「鳥海登山案内・訂正版」の中にある記事を見てみましょう。


 山荒しの卷の一節

 鳥の海探險  (大正九、八、二十一)

 鳥の海の土手を進む時、先頭に前田君が『ウ、兎!』と云ふが早いか背にしたれ登山嚢を放りなげて驅け出した。『何?兎だ‼逃がすな押さへろ』と吾輩も後を追ふ。いくら走つた所で兎にはかなふ筈がない、とうゝ見失つてしまつた。こうなると後に殘るのは草臥れだけ『アー草臥れた々々々』は御尤も千萬。

 鳥の海は何時來て見てもいゝ眺めだ。直徑及そ五十米、その形稍完全な圓形である。昔、稻倉嶽に靈鳥が住み、時々湖邊に飛んで來ては湖畔に啄んでゐたから、誰云ふとなく湖水は鳥の海。何時か山名にも鳥海を冠するに至つたのだと傳へられてゐる。湖水の水は西北岸の雪に依つて涵養せられ、四時水をたゝへて涸れる事がない。涸れない許りか流れ入る水口があるのに、出口がなくて反對に溢れた事もないと云って如何さま神祕的に考へてゐるが、其の實表面からは蒸發、底からは自然に排水されて水の俣澤に落ちて行く。水はあくまでも綺麗で中央に進むに隨つて冷たく且つ深くなる。ふちを廻ると時々驚いて箱根サンセウウヲが深い方へ逃げて行く。今年は雪が少なかつたと見えて西北岸の雪は畧〻消えつくした、その結果湖水の水が餘程涸れて常には通れない扇子森の下も、樂に通れるので湖水の周圍を廻つて見る。軍隊式に一分閒百十四步速度でやつて見ると一周大凡十五分を費した。

 湖底に龍がゐると云つた所で、文明の今日をれを本氣で聞く人もあるまいが此の邊りまで來た時に大嵐にでも逢ふものなら、一も二もなく龍神樣と、いらない樣の三つもつけて、泣き出しさうな情けない聲を絞り上げ『おー山はんじやう』『道者もはんじやう』とか『六根しやうじゃう』『南無阿彌陀佛』等のお題目を廉賣するのが人情だ、『雷のなる時だけは樣をつけ』は人情の機徵を穿つて餘す所がない。その龍の步いた足跡だと云ふのが湖水の西岸に長くついてゐる。よく見ると一本は陸上に之に平行して他の一本が七間許りも中の方に、半分は水中に半分は陸上についてゐる。成程遙拜所の附近から見下すと龍でも步いたかのやうにたしかに見える。行つて見ると其の所だけが砂利がとれて砂が集つてゐるのだ。さあどうしたものだらう。

第一龍と云ふのは、支那でこしらへた想像動物である以上、實在する筈のものでない。して見ると大蛇の步いた跡か。然し日本内地には靑大將より大きくなる蛇は一種もなく、之とて一間半にもなれば最大限にきまつてゐる。兎角するうち漸く思ひあたつた事がある。先づ湖水の西側にだけついて、其の他につかないのは西側だけが砂利濱で、他は皆岩だからに相違ない。そして外側の足蹟は湖水の水の最も多い時の汀線で、他の一本は左に述べる條件から考察して、大方春先に氷が割れる、それが年々同じ場所だから、この閒に落ちる雪融けの水滴のために出來たものと思はれる。それは第一線に平行してゐる事や、第二線の一方に大岩のある事、冬期閒は今よりもまだ〱水の減る事などから考へてそうである。

そうだ。確かにそれに相違ない。之は大發見をしたものだと感心しながら湖水の中を見つめてゐた。……俄然湖底に光り物がある。兎に角光る。はたりを見ると誰もない、連の二人は向ふの山で、又兎が飛び出したと草臥れもうけをやつてゐる。『そうだ‼之は神樣の下され物に違ひない』と、勿體ぶりをつければつける程よく光る。たしかに金色だ。連の二人の來ないうちに戴いてしまわう。と、そろ〱正根を現しながら、お伽噺の『神の助け』や『金の斧』などを夢見ながら、御苦勞にもヅボンをぬいで光り物のそばまで行つては見たが、疑心暗鬼を生じて武者振ひを禁じ得ない。さあたまらなくなつてバチヤ〱トと陸に驅け上り、大聲をふるはして『オーイ、近てくれイ。』

前田君を後ろに待たせて捨ひ上げたものは何?化物か、寶物か、それとも御神體か、人を馬鹿にするにも程がある。敷島の空袋、糊がとれて長く伸び、黃色な面に日光を受けて居たのだからたまらない、ナーンだ『幽靈の正體見たり枯尾花』にあらで『寶物の正體見たり卷煙草の空』か。


 


夢の浮橋

2021年11月17日 | 鳥海山

 源氏物語ではなく、これも鳥海山に関した話です。まずは画を見てみましょう。

 酒田市立光丘文庫蔵 夢の浮橋 巻三 図四十九 「酒田大濱 上寺山伏 柴燈護摩 修行の図」より(画像撮影及び使用承諾取得済) 以下画像同じく

 酒田の大濱(最上川河口海沿い)で上寺即ち蕨岡の僧坊の山伏が護摩を焚き上げている図です。周りにはかなり大勢の人がいます。

 遠くには鳥海山も見えています。

 炎の左上に詩書きがあります。

 「大濱ニテ上寺山伏三十三坊其多遊佐郷散在ノ修験四十人余如図居並柴燈護終ス此所ヨリ川村甚之助ト言参詣之百姓四方ノ村々ニ旗印ヲ立集ル

 護摩終行場所二十間四面也其四方ニ集ル散凢人壱万五千人余」

 (※素人が勝手に注釈してみました。凢は凡、およそ また修行の修に終の字をあてたものでしょう。)

 護摩修行の後、読経した巻名を記したものと大御幣だいおんべいを最上川の河口に流す行(なが巻數かんす)を修している図という説明を他の場所で見たことがあります。


 これは天保十一年の三方領知替えに領民が反対した一揆のあらましを領地替え命令撤回後記録した絵巻「夢の浮橋」の一部です。

 蕨岡は荘内藩主酒井家の手厚い庇護を受けていました。鳥海山の頂上の領有をめぐる矢島との争いに蕨岡が勝利したのもその所以でしょう。その蕨岡の宗徒が領地替え反対の大決起集会を開いた、と現代風にいえばそんなところでしょうか。15,000人もの人を集める力も、又領地替えに反対する人も多かったというのはすごいですね。この夢の浮橋は領地替えが命令が撤回された後、その流れを記憶にとどめるために描かれたものだそうです。

 蕨岡大物忌神社の末社として荘照居成神社があります。太田宣賢の鳥海山登山案内記には次のようにあります。(この当時まだ荘照居成神社とは呼ばれていません。酒井公がそのまま居る成、という意味で居成神社です。)


末社まつしやの稻荷神社は倉稻魂命うかのみたまのみことを祭る弘化元年郡内有志いうし領主酒井氏の本領安堵ほんりようあんどいはひ居成ゐなりちなみて茲に勸請かんぜうしたるものなり左れば其結構かまえ頗る美觀うるはしなり


 祭神は倉稲魂命で稲荷の文字を当ててはいますが稲荷信仰の稲荷ではなく居成だということは蕨岡で伺いました。今、荘照居成神社は転封阻止に尽力した矢部駿河守定謙を祭ったものと言われていますがそれが表になったのは最近の事だそうです。それまでは表立って幕府の咎人を祭ることはできなかったのでしょう。昭和になってから出てきた古文書で矢部駿河守を顕彰したものであることが明らかになったのだそうです。(蕨岡山本坊談)そこまで書いてある案内、紹介はなぜかありません。


蕨岡大物忌神社境内

2021年11月16日 | 鳥海山

 先日龍頭寺へ行ったのも太田宣賢の鳥海山登山案内記を読み返していて「蕨岡口の宮」の所を見てもう一度行ってみようという気になったからです。この案内記に書いてある拝殿は今の場所ではなく、古い石段を四百段近く上った松嶽山の上です。かつては大堂社(”でどしゃ”と読みます)と呼ばれていました。


元和十年以降いこう元祿げんろく二年迄拜殿の造營は領主りやうしゆ酒井家の手に成り寬政四年に至り酒田の富豪ふがう本間四郞三郞光丘ほんましらうさぶらうみつおか之を造營し文政十一年領主酒井家及富豪本間氏其他有志の寄附を以て造營せしが惜哉おしいかな安政二年炎上やけせり現今の建物は東北諸縣有志の寄附により明治二十九年新に御造營せるものなり隨神門ずゐじんもん社務所しやむしよは共に安永二年本間氏の再建する處にして神樂殿かぐらでんは寬永三年の建築に係り神庫じんこは文化三年酒田町白崎五右衞門氏の寄附建築にして祭器庫さいきぐらは正德四年の建築なり石燈籠は天明年中本莊城主藤原朝臣正武の寄附に係るものを首として數基すうき金燈籠かなとうらうは酒田町靑塚治郞右衞門の寄附隨神門の東北巨杉おほすぎ森々たる間に高くそびえて一段ひときは幽趣おもむきゆるものは寬政十二年四月本間光丘氏の建設せる處の寶篋印塔ほうけういんとうにして頗る莊觀そうくわんなり本間氏は世々大物忌神社を尊崇し神社の爲丹誠たんせいぬきんでゝ貢獻つくすせる處甚多し此故に寶篋印塔ほうけういんとうの西にことに光丘氏の爲めに其功績碑こうせきひつ酒田今町齋藤三之助亦能く神社の爲つくせり故に其傍に智性院ちせうゐん壽碑じゆひ建設たてし以ていささか其功そのこうむくひぬ


 寶篋印塔

 こんな礎石もあります。

 やはりお金をたくさん寄附しないと名前は残りません。百円ぐらい出せる?今の百円じゃないですよ。神社に関するものは明治以降のものがほとんどのようです。何せ神仏分離以降のものですから。神仏混淆時代のものは散逸したか消えてしまったか、古文書では様々見ることが出来るようですが「物」となると探すのも見るのも大変です。漆塗りの護摩壇なども焚きつけにしてしまったらしいですからね。明治の薩摩長州政府は日本のタリバンだったようです。その政府は今も形を変えて続いています。