鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

蕨岡大物忌神社境内

2021年11月16日 | 鳥海山

 先日龍頭寺へ行ったのも太田宣賢の鳥海山登山案内記を読み返していて「蕨岡口の宮」の所を見てもう一度行ってみようという気になったからです。この案内記に書いてある拝殿は今の場所ではなく、古い石段を四百段近く上った松嶽山の上です。かつては大堂社(”でどしゃ”と読みます)と呼ばれていました。


元和十年以降いこう元祿げんろく二年迄拜殿の造營は領主りやうしゆ酒井家の手に成り寬政四年に至り酒田の富豪ふがう本間四郞三郞光丘ほんましらうさぶらうみつおか之を造營し文政十一年領主酒井家及富豪本間氏其他有志の寄附を以て造營せしが惜哉おしいかな安政二年炎上やけせり現今の建物は東北諸縣有志の寄附により明治二十九年新に御造營せるものなり隨神門ずゐじんもん社務所しやむしよは共に安永二年本間氏の再建する處にして神樂殿かぐらでんは寬永三年の建築に係り神庫じんこは文化三年酒田町白崎五右衞門氏の寄附建築にして祭器庫さいきぐらは正德四年の建築なり石燈籠は天明年中本莊城主藤原朝臣正武の寄附に係るものを首として數基すうき金燈籠かなとうらうは酒田町靑塚治郞右衞門の寄附隨神門の東北巨杉おほすぎ森々たる間に高くそびえて一段ひときは幽趣おもむきゆるものは寬政十二年四月本間光丘氏の建設せる處の寶篋印塔ほうけういんとうにして頗る莊觀そうくわんなり本間氏は世々大物忌神社を尊崇し神社の爲丹誠たんせいぬきんでゝ貢獻つくすせる處甚多し此故に寶篋印塔ほうけういんとうの西にことに光丘氏の爲めに其功績碑こうせきひつ酒田今町齋藤三之助亦能く神社の爲つくせり故に其傍に智性院ちせうゐん壽碑じゆひ建設たてし以ていささか其功そのこうむくひぬ


 寶篋印塔

 こんな礎石もあります。

 やはりお金をたくさん寄附しないと名前は残りません。百円ぐらい出せる?今の百円じゃないですよ。神社に関するものは明治以降のものがほとんどのようです。何せ神仏分離以降のものですから。神仏混淆時代のものは散逸したか消えてしまったか、古文書では様々見ることが出来るようですが「物」となると探すのも見るのも大変です。漆塗りの護摩壇なども焚きつけにしてしまったらしいですからね。明治の薩摩長州政府は日本のタリバンだったようです。その政府は今も形を変えて続いています。


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