先日龍頭寺へ行ったのも太田宣賢の鳥海山登山案内記を読み返していて「蕨岡口の宮」の所を見てもう一度行ってみようという気になったからです。この案内記に書いてある拝殿は今の場所ではなく、古い石段を四百段近く上った松嶽山の上です。かつては大堂社(”でどしゃ”と読みます)と呼ばれていました。
元和十年以降元祿二年迄拜殿の造營は領主酒井家の手に成り寬政四年に至り酒田の富豪本間四郞三郞光丘之を造營し文政十一年領主酒井家及富豪本間氏其他有志の寄附を以て造營せしが惜哉安政二年炎上せり現今の建物は東北諸縣有志の寄附により明治二十九年新に御造營せるものなり隨神門社務所は共に安永二年本間氏の再建する處にして神樂殿は寬永三年の建築に係り神庫は文化三年酒田町白崎五右衞門氏の寄附建築にして祭器庫は正德四年の建築なり石燈籠は天明年中本莊城主藤原朝臣正武の寄附に係るものを首として數基金燈籠は酒田町靑塚治郞右衞門の寄附隨神門の東北巨杉森々たる間に高く聳えて一段の幽趣を添ゆるものは寬政十二年四月本間光丘氏の建設せる處の寶篋印塔にして頗る莊觀なり本間氏は世々大物忌神社を尊崇し神社の爲丹誠を抽んでゝ貢獻せる處甚多し此故に寶篋印塔の西に特に光丘氏の爲めに其功績碑を樹つ酒田今町齋藤三之助亦能く神社の爲盡せり故に其傍に智性院壽碑を建設し以て聊其功に報ひぬ
寶篋印塔
こんな礎石もあります。
やはりお金をたくさん寄附しないと名前は残りません。百円ぐらい出せる?今の百円じゃないですよ。神社に関するものは明治以降のものがほとんどのようです。何せ神仏分離以降のものですから。神仏混淆時代のものは散逸したか消えてしまったか、古文書では様々見ることが出来るようですが「物」となると探すのも見るのも大変です。漆塗りの護摩壇なども焚きつけにしてしまったらしいですからね。明治の薩摩長州政府は日本のタリバンだったようです。その政府は今も形を変えて続いています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます