鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

またしても70年代の列車を思い出す

2020年01月27日 | 兎糞録
 去年の秋田魁新報に1972年の気動車、ディーゼルで走っていた時代の特急いなほの写真がありました。
 写真を見るだけであの一種独特の車内の臭いまで漂ってきます。

 団塊の世代といわれる方々或いはそれより少し後の世代の東北の生まれの方は記憶にあるでしょう、この車内。これまた強烈な車両の臭いが漂ってくる写真です。
 座席もそうですけど、網棚に注目。本当に網ですね、そして棚を支える腕金具、本当に懐かしいです。
 B寝台の三段式です。前に書いたものではなかなかイメージがわきづらいし、自分でもちょっと違うなあと思いいろいろ検索してみたらありました。You Tubeに投稿してくださった方、ありがとうございます。自分ひとりの資料ではこうはいきません。こういった鐡道ファンの方に感謝です。

荒れるがまま

2020年01月26日 | 鳥海山
 映画「おくりびと」の中でNKエージェントとして使われた割烹小幡も今は荒れるがまま。周りに積もる松の枯れ落葉を掃除する人もありません。
 
 おくりびとがおくられてしまったようです。映画のポスターが痛ましく残っています。
 
 本館も荒れ放題、隣にある喫茶店跡。看板は蔦に覆われていますが自販機は元気。

 近くの光丘文庫も図書館として使われていましたが、図書館そのものが移転してしまったため今は廃墟です。
 
 そこから少し歩くと由緒ありげな建物。できた当初はかなりモダンな建物だったと思います。それにしてもなんの用途で使った建物でしょうか。

 壁面を見ると無数の穴が。太平洋戦争の時の米軍機の機銃掃射の跡だと聞いたことがあります。(最上地方に行くと杉の木に戊辰戦争の時の弾痕がありました。)

 1971年の山形県庄内地方を舞台とした映画に登場する場面の今です。方角石が他の石で囲まれています。
 
 対岸は住宅地になっています。船舶を係留するボラードは現役ですが、トランスファークレーンはもうありません。
 ちなみにあの映画のタイトルは「成熟」、主演女優は関根恵子さんでした。
 その近所を散歩するとまたまた廃墟が。
 
 臨港線の駅舎の一部とその近所のガソリンスタンドの跡です。
 また近くを走るとなんと、

 鋳物の郵便ポストが現役でした。

初めて買ったデジカメ

2020年01月26日 | 鳥海山
 オリンパスCAMEDIA C960Z、下の写真はD-460ですが、同じもののようです。どこかで埃をかぶっていると思います。
 だいぶ古い機種ですね。当時賞与が思ったより出たので前から欲しかったデジカメを買ってしまいした。そのころでは131万画素でも画素数が多い方でした。価格も2,3万円したと思います。記録媒体も今は無きスマートメディアというもの。

 賞与といえば、当時の社長は気前がいいというか儲かったら社員に還元しろ、税金払うよりいい、と常々言っており、決算時になると決算手当の名目で支給するのでした。だから夏、冬、仮決算、決算時と賞与を年4回もらっていたことになります。もっとも給料安かったですから、それでやっと人並みに近づけたくらいです。その後、代替わりして、次の社長はそいうものを社員に支給すると癖になる、法人税をいっぱい払って良い会社とみられた方が社長の手腕がいいのだと言って支給されなくなりました。社員旅行も取引先から嫉妬されるから中止するなどといってやらなくなってしまいました。今はまた代替わりしてどうなったかはそこを退職してだいぶ経つのでわかりません。

 閑話休題、ずっとフィルムカメラで写真を撮っていたのですが、ネガフィルムにしてもポジフィルムにしても現像、プリントはお金のかかるものでした。初めのころはポジフィルムは地元では現像できなくて、フジ、コダックのどこか現像センターへ送り、出来上がりまで結構時間のかかるものでした。デジカメの撮影して即結果が見られるというのはうれしかったですねえ。それに現像代がかからないというのも。でも、その時パソコン持っていたのかなあ。
 不思議なことにそれからデジカメであまり写真を撮っていないのです。この辺では身内が亡くなってから一年は山へ登らないという事が言われており、我が家でも父親が亡くなったのがこのデジカメを買った翌年だったでしょうか。その後一年鳥海山を休んだために山へ行く頻度がずっと少なくなったというのもデジカメで撮った鳥海山の写真が少ない原因でしょう。

 どちらもこのオリンパスで撮影したものですが、素人目には高級デジカメかコンデジカメで撮影したのかはわかりません、又画素数がいくらかなどという事もわかりません。何を使って撮影したかは写真のプロパティでわかりました。今ではスマホで簡単、綺麗に撮影できますからね。

 最近は東京へ遊びに行くとき、都会の写真を撮影するのが楽しいのです、当初はNikon のD200という重い一眼レフカメラを持って行ってたのですが、最近はCanon のミラーレスの軽いものを持っていきます。これだと撮影可の美術館でもISO感度自動設定ににしておくと簡単でいいですから。今でもデジカメ数台あるので、今後新たに購入することはないでしょう。フィルムカメラ用の交換レンズも数本あるのですが売っても大した金額にならないし、古いカメラといっしょに放置しておきます。

恩師の賀状

2020年01月26日 | 兎糞録
 賀状に限らず、葉書手紙を書かなくなって何年になるでしょうか。せいぜい書くのは公的機関へ提出する書類くらい。普段はメール、ラインですんでしまいます。
 でも、葉書っていいですね。手紙の類はほぼシュレッダーで破棄しましたがこういった素敵な葉書は捨てられません。かつて恩師の猫山人先生からいただいた葉書です。



 出典は調べるとわかりますが、こういった漢詩がすらすらと使えるというのはいいですね。この先生専門は西洋史なのですけど。
 晴耕雨読とあるのは、なんでも遺産で貰ったという蜜柑山の小屋に空き箱の机を置き、普段はそこで書を読んでいるのでした。こちらも晴耕雨読と行きたいところなのですが、読みかけの本、未読の本は山ほどあるのですけど、暇があれば寝てばかり。思えばあれから数十年、何もしないで生きてきたんだなあ。

LIVE AT DUG Carmen McRae と Mal Waldron そして Barry Harris

2020年01月23日 | Jazz
 聴いて損しないこと請け合います。
 弾き語りを渋る彼女をヨイショヨイショしてその気にさせたら逆に乗って来て、あれもやる、これもできると言い出したとか。これを聴くと自分の部屋が地下にあったDUGになったような気がします。なんでも彼女はラーメンがいたく気に入り、陰ではラーメン・マクレーといわれたとか。
 これまたMalの重苦しいピアノがDUGの細長い空間を埋め尽くします。
 Barry Harris ってこんなにいいピアニストだったんだと聴きなおしました。

 初めて紀伊國屋裏の地下DUGに行ったとき、店の人が注文を指でサッとカウンターの中の人に伝える、都会は恰好いいんだなあと思いました。後年、新宿DIG DUG物語を読んだら、なあんだ、目に人差し指をあてたらアイスコーヒー、胸をもむしぐさをしたらミルクだって。
 カウンターに備え付けてあるガス湯沸し器、そんなもの田舎では見たこともない。湯沸し器の上についている遮熱版(今の湯沸し器にはついていません。)に布巾がかけてあるのを見て、ああ、あれはそうやって使うものか、都会は違うなあ、と思ったのでした。
(新宿DIG DUG物語より)
 1987年のDUG。正面に見える階段を下りて入ります。写真階段に向かって左にも席がありました。撮影した人のいる場所は一段下がったスペースでした。ここにピアノを運び込んでライブをやったそうです。壁には時計が一杯飾ってありました。それで、DUGで誰とデートしたんだったかなあ。
 翌1988年に移転したそうです。が、今の場所とは異なります。東京へ行ったついでに寄ろうと思うのですが店頭のメニューを見るとコーヒーが一杯680円、躊躇してしまいそのまま立ち去ります。新しいDUGには一度しか行っていません。
(新宿DIG DUG物語より)
 1980年のDIG店内。みんな目を閉じ、一心不乱に聴き入っています。やはりColtraneでしょうか。Coltrane が亡くなった時は店がColtraneの好物だったバナナをお客さんに配り、お客さんは涙を流しながらバナナをほおばったという話ものこっています。純真だったんですねえ。

 DIGのマッチ箱はエラ・フィッツジェラルド・シングス・ザ・ジョージ・アンド・アイラ・ガーシュウイン・ソングブックのアルバムデザイン、ビュッフェのこの画を使ったものでした。ビュッフェの別の画は国立西洋美術館の常設展示で見ることが出来ます。

(国立西洋美術館)