鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

箸王子より河原宿まで

2021年10月20日 | 鳥海山

 酒田市立光丘文庫所蔵 鳥海山図(写)より(画像使用承諾済)

 上の図は文化八年(1811年)に登った方が描いたものです。この図を見ると蕨岡口登拝道が良くわかると思います。箸王子より八丁坂茶屋迄の部分をもう少し拡大してみましょう。西物見のあたりから喬木帯にかわります。蓬莱山(鳳来山)の頂上も晴れていれば日本海がきれいに見渡せます。奥院と書いてあるのはこの図では鳳来山の陰にある大澤神社の事です。弦巻池は武具弦巻に由来する鶴間池の本来の呼称、これも図の山の陰にあります。鼓岩の由来も記されていますね。

(※注 享和の大噴火の後に書かれたものですがその時は既に噴火によって無くなった不動岩、瑠璃の壺の名前も記載されています。尚、図の頂上の部分の説明に「新山ヲ享和山トモ云フ享和年中山焼ノセツ新ニ突出セリ荒神嶽本社ルリ壺ノ辺尽ク落入リ谷トナレリ絶頂ノ形享和以前ト大ニ殊トナリ新山ノ高サ七高山ニヤゝ均シト云フ文化八年本社長床ヲ新山ニ建テ遷座アリ」とありますので新山に御本社が置かれたのは大噴火後の1811年だったことがわかります。)


駒返こまがへし牛戾うしもどし等のけん其名そのなそむかず巉巖峭嶒巨石磊落きつたてのいはおほいしごろゞたり〇蛭子岩ひるこいは唐澤からさは東物見ひがしものみ西物見にしものみ諸社しよしやはいして全く木立こだちぐれば天漸てんやうや東方紅ひがしくれなひちよほ彩光山背あやしきひかりやませかすめてなゝめ西海さいかい山風袂さんふうたもとはら心神颯爽しんゝそうさつ天地正大てんちせいだい氣鬱勃きうつぼつとして躍動やくどう壯觀言語そうかんごんごぜつ罔賣岩うずめいはつたいしはる)かに白絲ヶ瀧しろいとがたきのぞめば瀑布亂絲ばくふらんしごと淸新せいしん氣炎きえんねつわすれしむ附近一帶ふきんいつたい岩石壘々がんせきるゐゝ寸土すんどとゞをめず木低きひく草短くさみじかはなまたせうなり碧苔へきたい石壁せきへきしよく幽葩古香ゆうはこかうはつやゝ高山植物を見るみる鼓石つゞみいし奇洞きどうの上によこたはるを以て之をてば異響鼕々いきやうたうゝつゞみたり〇八丁坂はつてうさかには掛茶屋あり其砂糖餠さとうもち上戶じやうごをしてかぶとだつせしめ醇酒じゆんしゆ芳香はうかう下戶げこをして垂涎三尺たらしむよだれをながさしむ攜帶せるたづさへたる丸飯にぎりめし此邊このへんにて喫するたべるとす此よりやまますゝ高竣氣愈稀薄かうしゆんきいよゝきはくしばらくにして川原宿かわはらしゆくに達す


 蛭子岩、唐澤、罔賣岩、傳石の拝所については「-国指定史跡鳥海山文化財調査報告書-史跡鳥海山」では祠は確認できるもののそこが各々の場所であるとは断定できなかったようです。蕨岡の古老が一緒なら判ったでしょうが既に高齢、同道は不可能だったのでしょう。写真を古老に見せることもしたかどうかまでは私は出版に係わるほどの人間ではないのでわかりません。ちなみに笙ヶ岳の下の沢「檜ノ沢ひのそ」の事も唐沢と呼ぶようです。

 昭和、戦後の西物見です。既に高い木の生えていないことがわかります。

 月光坂から大黒台を経る旧道は数えるほどしか登っていないのでまともな写真は手元にありません。やはり便利な車道ばかり利用しますから。

 同じ個所を橋本賢助の鳥海登山案内で見てみましょう。ちょっと長いですがよりわかりやすいと思います。


横堂を出た所が月光坂(がっこうざか)である、長さは短いが仲々の険阻、駒返しや、牛戻しの名其の名に背かない。之からが所謂木立であつて山路一里といつて居るが、此の中は至って旦道なのでとても高山の道とは思はれぬ位である。茂る橅の木は晝尚暗くして物凄いと云ふ有様。入跡絶えた山中の物淋しさを十分に味ふ事が出來よう。此の様に森林の懐に抱かれて行くのであるから、自然と行先を急ぐのであるが、少し注意して四邊に目を配つて行けば、又色々の植物を採集する事が出来る。もう木立も盡きさうな所に東物見と云つて、東方の山々の見える所があり。又少し木立をくぐると愈々森林帯の最終點西物見に着くのである。此處には憩ふ為の小屋とてはないが、大きな岩(輝石安山岩)がゴロ〲してゐるから、庄内の天地を見下さうさする人は、岩頭に立って眼を開くもよからう。眼前に横はる景色に今までの疲れを休めるも愉快の一つであらう之から八丁坂迄の間を籠山と云ふのである (西物見まで山路五里)

【籠 山】(かごやま)大小多種の岩石が累々とし「ミネザクラ」・「コナラ」等の灌木が斬髮をした後に頭を揃へて生へて居る。籠山とはつまり如何に雨が降つても少しも溜る事なく、みんな浸み込んで行くので、山全体が籠の様なものだと云ふ意味蓋相應しい名稱ではないか。それだけ登山者は足元を注意しなければならない。時々岩の間に足をはめたり、岩角に爪先を打つけたりして思はざる怪我をする事があるからである。暫らく行くと行手にあたつて一つの瀧を發見する、之が即ち八丁坂白糸瀧である。仝時に坂の下に嘗て第三の笹小屋を認める。途中に鼓(つづみ)石(いし)と云つて打つと鼓の音を出す石がある。つまり内部の空になった熔岩塊たが、熔岩中には往々にしてこうした音を立てるものがある、悠々山路六里の八丁坂にさし懸かる。

【八丁坂】 (はつちやうさか)小屋ではやはり素麺と白玉を賣ってゐる。又瀧に行く道もついてるから餘力のある人は行つて見るがよい。坂は可なり急だが、こうして一休みしてから上ると何のわけもない、丁度此上河原宿の小屋まで實測八丁である。案内人は此の間を一里として置くが、つまり道は短くとも險しいから、時間と労力から見つもり出した一里を思へば間違はない。坂は緩り登って休まないで通す方が、疲れも薄くて道も捗取るものでこう云ふ時に金剛杖が有難い


 鼓岩、籠山の意味がよくわかります。八丁坂の掛茶屋は今の瀧の小屋とは違う場所ですが蕨岡の古老に聞いてみたところ行ってもわからないだろうとのことでした。あまり良い場所ではなかったということです。それにしても太田宣賢の鳥海山登山案内記の「砂糖餠さとうもち上戶じやうごをしてかぶとだつせしめ醇酒じゆんしゆ芳香はうかう下戶げこをして垂涎三尺たらしむ」とは誇大広告のさきがけの様に聞こえてきますがこの美文調、「醇酒の芳香」の文字を見るだけで酒飲みは本当に涎が出てきそうです。又橋本賢助の鳥海登山案内では八丁坂小屋では「素麺と白玉を賣ってゐる」とありますので白糸の瀧からの澄郷沢沿いの水を十分に使える場所にあったのではないでしょうか。


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