すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

池田晶子「魂を考える」を読む

2011-03-24 15:54:51 | 本・映画・音楽
池田晶子さんの書くものになんとなくひかれてきた。

若いころ、それなりに哲学の本は読んだりしたけれど、ちんぷんかんぷん、全然頭に入ってこなかった。

言葉の羅列、理屈の羅列にしか思えなかった。

氏の著書にもよく登場する、ヘーゲル、カント、ソクラテス、等々、読んでも感覚的に拒否感があった。

私は、理屈や言葉によって思考するということが、決定的に苦手なのであろう。

氏の愛読者は、池田さんの書いていることが「わかる」のだそうだが、
私はそうではない。
「わかる」ではなく、「ひかれる」「なぜだかわからないけれど、なんとなく好き」なのだ。

わかるわからないでいえば、わからないことも多い。

池田さんの、哲学的側面にひかれるのではなく、哲学を使ってあらわそうとしている、人間の不思議、生きることの不思議、宇宙の不思議、そこに向けるエネルギーの純粋さ、善良さがありありと伝わり、読んでいて気持ちいいのである。

もちろんシニカルである、世情に疎かったりする、池田さんのそんな一面を俯瞰して、その人間臭さに、少しの嫌悪感や共感も覚えたりもする。

池田さんの本は、何日もかけて、その美しい文章をゆっくり味わうように読むのが常だったけれど、「魂を考える」は違った。途中でやめられなかった。

この人を、すこしだけ、「わかった」気がした。

そして、私は、池田さんの「魂」の話しから自分の子育てについて思いをはせた。

自分がお腹を痛めて産んだ子とも、
ほしくてほしくて作った子ども、
夫の精子と私の卵子の受精によって誕生した子ども。

事実ではあるけれど、息子の側からしたら、そんなことはどうしてもいいことなのかもしれない。いや、息子の魂の側、といった方がいい。

その魂は、生まれるべくして生まれた、
私の意図とは、別世界のことなのだ。

子どもの発育やしつけに悩むことはある。あれはできてるけれど、これはまだ。もっと叱った方がいい?もっと甘えさせた方がいい?

うちの子の場合、歩いたり、の運動能力は早かったけれど、まねっこなんかは全然しない。おしゃべりは自分なりにたくさんするけれど、意味がよくわからない。

いい面を見よう、なんていうけれど、それは違うのかなと。いい面、悪い面、を言うこと、それ自体が不遜だ。

そのどちらもその子だ。

私は私として、良かれと思った姿勢で、彼と関わっていくのだろう。多くは、私や夫に影響は受けるのだろうが、それでも、きっと、私とは違う人間である彼、魂を持っている彼である以上、踏み込めないこと、把握できなことはあまたでてくるだろう。責任が取れる部分と、とれない部分が必ずあるということだ。

正直に言うと、少し気が楽になった。
彼は私の作品ではない。彼=私、ではない、ということが。

縁あって、親と子をしているけれど、
彼の人生は彼自身のもの。そして、彼の魂は、当然のように彼だけの魂だ。

親としての私は、彼のその人生を、その魂を、大切にいつくしみ、時には突き放し、見守っていくことなんだ。それしかできないんだ。

池田晶子さんは、子どもを持たなかった。

「産んでないからわからない」ことはあるだろう。

でも、逆に「産んでないからわかる」ことも必ずあるのだろうと思う。

私は、その「産んでないからわかる」部分から発せられる言葉に、とてもひかれた。